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猿飛佐助side
月神屋敷には母屋とは別に離れが二棟、長屋が一棟あって、居候はこの三棟の中のどれかの部屋を借りることになるみたいだった。
真田の旦那と俺様が借りてる部屋は、屋敷の端に設けられた馬場や稽古場に近い北側の棟にあった。
酒宴が催された翌朝。
旦那は昨日の酒が残ることもなく元気に起床し日課の朝稽古へと出て行った。陽が昇り切るころには信繁さんや、凶王の旦那、毛利の鬼子も稽古に加わることだろう。
その間、俺様は旦那に気を配りつつ厨へ。台所を取り仕切るのはだいたい山南の旦那で、交代でひとり手伝いにつく。たまに山南の旦那の代わりに香耶が厨に立ってる時もあるけど。
俺様たちが月神屋敷に居候を初めて七日。それが月神屋敷のお決まりの朝の風景になりつつあった。
今日も俺様は朝餉の支度を監視……っつーか手伝うため厨へと向かっていた。ところが母屋を通りかかると真ん中の部屋から這って歩くような衣擦れの気配がして、俺は足を止める。
そこは香耶の部屋だった。徹夜もしてないのに、彼女がこんなに早い時間に起きているのは珍しい。
「……香耶?」
一応家主で女の子の部屋だからと遠慮して、忍びこむ真似はせず部屋の外から普通に声をかけてみる。聞き耳は立ててるけど。
すると俺に気付いた中の気配は、蹌踉(そうろう)とした足取りで立ち上がったと思ったら、唐突にふすまをぶち破って出てきたのである。
「な、ええええ!?」
倒れこんできたふすまを慌ててよけると、ふすまと一緒に転がり出てきた香耶が死にそうな顔で俺様に手を伸ばして、こう言った。
「うぅ……さすけぇ、迎え酒……」
「いやいや、あんたバカじゃないの!?」
とりあえず駆け寄って抱き起してみるけど、ぐったりと俺の腕に体重を預けてくる。どう見ても重症の宿酔だ。こんなのに迎え酒なんて毒にしかならない。
しかたないのでぐたぐたの香耶を抱き上げ、部屋に敷きっぱなしだった布団に戻してやる。
「つらい、しんどい」
「いま水持ってきてあげるから、おとなしくしてなって」
「うぅー……」
うんうんとうなりながらぐずる香耶をなだめ、いったん彼女のもとを離れて俺は母屋の天井裏を走ったのだった。
「山南サン、香耶に飲ませる薬ってある?」
「おや、君が駆け込んでくるとは思いませんでしたよ」
俺の開口一番の言葉で香耶がどういう状態か察しがついたんだろう。山南の旦那はすでに何かの煎薬を用意していたらしく、大きめの湯のみに入ったそれを盆に乗せて俺に渡した。
「これなに?」
「糖分や塩分を加えた補水液です。二日酔いは水分、糖分、睡眠をとらせれば早く治りますからね。水の代わりに飲ませてください」
「薬じゃないんだ」
「胃痛や嘔吐があるようでしたら解毒湯を調合します」
薬の知識なら忍の俺様にだって人並み以上にあるけど、人外の香耶の身体にどんな薬を与えていいのかなんて判断がつかなかった。ほんの数日前まで香耶の命を摘み取ろうと動いていた俺様が、今じゃ彼女の身体を気遣ってるなんて、とんだお笑いぐさだよな。
好奇心に駆られて渡された補水液を舐めとってみると、甘いような、辛いような、変な味……。
「……これ、知ってる。どこかで飲んだことある」
「そうですか? まぁ、香耶も作れますし、単純な処方ですからね」
旦那はあまり気に留めなかったみたいだけど、俺は脳裏に引っかかりを覚えた。
厨から香耶の部屋までの距離を、湯呑みを見つめながら歩く。
古い、錆びついた記憶のなかに、たしかにそれは。
「……、……」
「そんな顔しないでよ、ただの二日酔いだってば」
「…………」
「しゅ、どく……? ああ、酒毒ね。いや、死なないよ。私は死なないって知ってるでしょ、小太郎」
「…………、」
香耶の部屋から小さな話し声が聞こえてきて、俺は思わず足を止めた。
彼女の部屋に風の旦那がいる。それ自体は不思議なことじゃない。香耶と風の悪魔は契約を越えた主従だ。
ただ、開きっぱなしの部屋を覗いた俺は、遥か昔に見た夢のような体験を思い出した。
暖かくて華奢な手が、俺を抱き起して飲ませた薬湯の味。
無償の母性に触れた、大切な。
『ゆっくり休みなさい』
やさしくて、きれいで。
『今は、なにも考えず』
しろがねの思い出を。
「……っなんで、俺は」
どんなに殺そうと思っても。
なかったことには、できなかったんだ。
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