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月神香耶side



徹夜をした。
といっても、刀匠としての仕事は入っていない。ほとんど趣味でやってる婆娑羅研究のほうである。

夜も明けきらない早朝、私はなんとなくおぼつかない足取りで作業蔵脇の深井戸のきわに立つ。洗顔のためだ。
こちらの井戸はポンプではなく車井戸なので、桶を投げ入れ水を汲んで引っ張り上げた。その水を井戸淵に置いた別の小桶に移して中をのぞきこむと、疲労と寝不足で残念な自分の顔が映っていて、思わずうわぁと声を上げてしまった。
あまりに見れたもんじゃなかったので、気休めにしかならないが桶を覗きながら乱れた髪をちょいちょいと直してみる。くすんではれぼったい気がしないでもない涙袋を指でこすり、重いまぶたを無理やり開かせて二重をキープ。……なんか目が充血してきたような気がするな。

そうして疲労顔をいじりながら水面を睨むこと数分。私は背後に忍び寄るひとの気配にまったく気付かなかった。

「てめえはいつになったらその水で顔を洗うんだ」

「ぐむぶ」

誰かの手に頭を押さえられ、顔を桶につっこまされた。
そのまま互いに沈黙することおよそ五秒。今度は顔を水面から引き上げられた。
……こんな刺激的な洗顔はじめてだ。

「髪が濡れたよ」

「ほら、これで拭け」

文句を言うと頭にばさりと手拭いをかけられる。ありがたくそれで顔を拭きながら後ろのひとをちらりと振り返ると、そこにはやはりというか、眉間にしわを寄せた歳三君が立っていた。久しぶりに見る顔に、私はへらりと笑う。

「なんだその顔……寝てないのか」

「今日は、ね」

「ったく。山南さんはなにも言わねえのかよ」

「こんなの自己責任だよ。子供じゃあるまいし」

「おまえはそれで身体を壊すだろ」

そう返されるとぐうの手も出ない。

「あー、……真田での用事は終わったの?」

「あからさまに話をすり替えてんじゃねえ。……用事は終わった。真田の大殿に辞表を投げてきただけだがな」

「真田十勇士から霧隠才蔵が足抜けなんて、とんだびっくり真田伝記だよねぇ」

いまさら正しい歴史がどうだとか言うつもりはないが。しみじみと呟いた私を歳三君は鼻で笑う。

「ここじゃあ霧隠才蔵は俺だ。俺は俺の意思で“誠”を立てる。香耶、おまえのもとでな」

誠。

言を成す、二言はないと。主君へと誓う、二心を持たぬ武士の徳。
いまだ強烈に網膜に焼きつく浅葱の羽織に誠の旗。
歳三君の声に呼応して、一瞬にして走馬灯のように幕末での情景が脳裏をよぎる。
こみ上げてくる感情を噛み潰す私に、歳三君は手を伸ばして、そして腕の中に抱き込んだ。

「おまえを護ってやるよ。それが俺の意思で、新選組の意志だ」

しかたのないひとたちだ。敬助君も、千景君も、君も。どんな時代に生まれても、誰かのために、何度でも動乱へ身を投じようと言うのだから。
そのまさに炎のような覚悟に、どうしようもなく惹かれてしまうのだけど。
私は歳三君の腕の中で、瞑目してうなずいた。
少しずつ差し込む曙光が、まぶたの裏を明るく染めた。



「また住人に対する忍の比率が上がりましたね」

「ぬしはここを忍屋敷にでもするつもりか?」

「別にそんなんじゃないですー」

忍者ばっかり勝手に集まってくるのだからしょうがない。
歳三君を連れて台所に行くと、ちょうど敬助君と伴太郎が朝餉の用意を始めたところだった。
月神屋敷を案内がてら、初対面であろう月神メンバーに歳三君を紹介するのが私の目的だ。だがそれより先に、歳三君の顔を見た伴太郎が珍しいものを見た風に眉を上げた。

「伊賀の鬼才、霧隠才蔵とは。あいかわらず香耶は大物を釣ってくる」

「あんたは……伴谷の元棟梁か。忍の中の忍と言われた達者がこんなところで台所働きとは乱世も末だな」

「ぬしもここで暮らすからには等しく家事や畑仕事が振り分けられよう」

「わかってるよ」

ありゃま。知り合いだったか。
甲賀者と伊賀者は敵対関係にあると思われがちだが、実は一概にそうとはいえなかった。このイメージは豊臣と徳川による代理戦争によるもので、実際はむしろ協力関係にあったとも言われている。

「紹介の必要はなさそう……だね」

敬助君と顔を見合わせ、伴と歳三君をうかがった。たいして友好的でもないが、険悪でもないので心配はなさそうだ。

「土方君も案外顔が広いのかもしれませんねぇ」

「それ忍者としてどうなの」

「なに言ってるんです、香耶。忍然とした忍はこの屋敷にいませんよ」

「あ、たしかに。派手なのしかいないや。……忍ってなんだっけ?」

「おい、聞こえてるぞ」

敬助君とぼそぼそと話しこんでいると歳三君が頭を小突いてきた。まぁ、聞こえるのがわかってて喋っていたのだけど。本気で忍者に隠れて内緒話をしたかったら、口唇術でも使わなきゃだめだな。


「そうだ。伴太郎、また使いを頼みたいんだけどいいかな」

「香耶の命とあらば」

夜中に書いた書簡を懐から取り出す私を見て、敬助君が死ぬ気の炎で炭をおこしながら憮然と声を上げた。

「今度はどんな厄介事ですか」

「敬助君、なんで厄介事が起こるって決め付けるのさ」

「長年の付き合いでわかります。貴女の書状ほど危険な物はありません」

「君はひとの手紙をなんだと……。まぁいいや。伴太郎はこれを近江の浅井氏に届けてくれる? ついでに小谷城近辺をひととおり探索してきてくれると助かる。出発は明日でいいよ。今日の夜はとっておきの上酒を開けるからね」

今晩の宴は言わずもがな。歳三君の歓迎のためだ。
書簡を渡すと伴は承知した、とうなずくが、表書きを見て微妙な表情をした。

「……悪いことは言わぬ。山南か竹中に代筆を頼んだらどうだろうか」

「え、なによ急に」

伴の反応に、彼の手元を覗き込んだ歳三君も顔をしかめる。

「てめえはあいかわらず字もまともに書けねえのか」

……ああ、そういうこと。

「みんなおおげさなんだから。たしかにちょっとへたかもしんないけどさ」

「これのどこがちょっとだ馬鹿野郎。前の世で古文書学を叩きこんどくべきだったな」

「霧隠よ。あまり香耶の手(筆跡)を変えさせてくれるな。我々が読めなくなっては元も子もない」

「これはもうある種の暗号ですからね。さしずめ新手の戦争兵器ですよ」

「戦争兵器て……」

ひとを危険物製造機みたいに言うのはやめてよ。まったくもう。

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