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齢28にして、前世、その男が戦国無双に生きた頃の記憶は完全に戻りつつあった。
当初記憶は断片的で、時折理解不能な映像が混じることもあったが、血と怨嗟に彩られた己の生涯を省みることになんら感傷得ることもない。それは朧気な夢をつなぎ合わせるような、酷く曖昧なものでしかなかったせいでもある。
だが、ある日境に、それは鮮やかに。まるで湯水が湧き上がるがごとく蘇ったのだ。
「知ってる? この本やっぱドラマ化するみたい。漫画はまぁまぁ良かったけどー、実写となるとぜったい原作の雰囲気が壊れるじゃない?」
素裸のままスマホを触る女は、前世でとらわれたあの女神のような女とは似ているようで、やはり似ても似つかなくて、失望する。
それも当然だ。隣にいる女は香耶ではないのだから。
次々と話題の移り変わる女の話を聞き流しながら、脱ぎ散らかした衣服をまとった男は、自身の携帯を見て眉をひそめた。
珍しい人物からメールが来ている。
送り主は、前世の戦乱の世にて同じ女神に懸想した生真面目な男だ。彼は未だに彼女を捜している。
自分はこうして、彼女に似た女を抱いては失望と渇望を繰り返していると言うのに。
メールを開けば、『マンションに戻ってきてほしい』と、簡潔に記されているだけで用向きはわからない。
ただ、なぜか胸騒ぎがする。己の世界を大きく揺るがせるなにかが、待っているような。そんな気がした。
「……うぬには飽いた。帰りはタクシーでも拾え」
「え?」
おもむろにベッドに万札を二枚放った男に、女は驚いた様子で身を起こした。
容姿も教養もできうる限り磨きぬいて、男の要望で伸ばした髪はやっと腰に届くまでになった。ずっとこの男と愛し合っていけると信じていた女にとって、男の態度の急変には戸惑いを覚えるばかり。
「ちょっと、小太郎!? どういうこと!?」
「別れる、という意味よ」
「そんなこと聞いてない! なにか不満があったのなら言葉で言ってよ。あなたと別れたくないの」
「──香耶ならば、」
男の唇から零れる、自分のものではない名前に、女は目を見開く。
よく知ったはずの男が、見たことのない、まるで昔に失った伴侶でも想うような表情で遠くを見つめていた。
「なにも聞かずに我を解き放とうとしただろうな……。クク、戯れ言よ」
小太郎は先刻まで抱いていた女を視界に入れることなく、ホテルを去った。
車を走らせ繁華な駅周辺から離れることおよそ十五分。一軒家が多く建ち並ぶ緑地の多い住宅街の端に、人目を忍ぶように建つ古風なマンションがある。
ピエトラスカーラと名付けられたその建物は、入居世帯数20の小規模マンションで隅々まで管理が行き届いており、交通の不便を差し引いても選ばれる理由があった。
そのマンションにほど近いコンビニの駐車場で、メールの送り主である真田幸村の車を見かけた。ひとを呼びつけておいて自分はこんな所にいるとはどういうつもりかと邪推する。幸村らしくない。
小太郎は少し強引に車線を変えて、同じ駐車場へと乗り入れた。
そして常人よりはるかに優れた小太郎の胴体視力は、幸村の隣に座る女の顔をはっきりととらえたのである。
香耶が座る助手席のドアが唐突に開かれて、香耶は初めて小太郎に気づいた。
「──っ、」
香耶が振り向きざまに左の目を見開いて何事か言いかけるのも待てず、小太郎は力任せにその華奢な肢体を掻き抱く。
誰にも似せることなどできない空色の瞳は、ずっと求めてきたものだった。
彼女の銀糸の髪は幾度も染め直されて黒く、この時代ならば程々の長さであるはずなのに痛々しい。昔はしなやかな筋肉がついていた四肢も病的に痩せて、折れそうなほどに細い。
「何年だ」
「え、え?」
「この世に来て幾年経た?」
「あ、ああ……六、七年くらいかな」
「そうか」
鈍い香耶ならばきっと、苦労を苦労とも思わずに生きてきたのだろう。
それを小太郎は歯がゆく想う。
香耶の言う年月は、ちょうど小太郎が前世の記憶を取り戻した時期と重なった。血を求む獣のような狂気に苛まれることもあったが、そのようなもの。仲間とことごとく死に別れ、なにも持たず世界を越えた香耶とは比べようもなかろう。
未だ目を白黒させている香耶をシートごと押し倒し、青白い頬に指先を滑らせる。
今まで代わりに抱いてきた女とはなにもかも違う。己の中で、香耶という存在は、やはり手の届かぬ女神だ。
くつりと咽の奥で笑うと、横から怒気をはらむ鋭い声が飛んできた。
「そこまでです。風魔殿」
「クク……そう睨むな。ここで香耶を犯すつもりなど微塵もない」
「当たり前です。そんなつもりがあったら二度と貴方を香耶に近づけません」
「相変わらずの番犬ぶりよな。幸村」
「それが私の役目なればつとめを果たすのみ」
「待った。ふたりともちょっと待った」
香耶はふたりのやり取りから、小太郎との再会は偶然なものではないのだろうことを察した。
「今生の幸村と小太郎はどういった関係で?」
「そうよな……友とでも呼ぶか?」
小太郎がそう言うと幸村が大層微妙な表情をする。しかし小太郎はおかしなものを見たという風情でくつくつと笑っていた。
「彼は目立ちますからね……。香耶の情報を集めるために接触したのですが、風魔殿は初め前世の記憶が朧気でしたので、今生では互いにさほど干渉はしていません」
「記憶がなかったのに思い出したということ? ……ということは、記憶のない前世の知人にはあまり近づかないほうがいいな……」
「月神軍には一人足りぬがよいのか?」
「竹中殿ですね。……彼は未だ見つかっていませんが」
「……この世界で月神軍を作ってなんの意味あるの。半兵衛君が、君たちのように前世の記憶を持つうえ私に関わることを望んでいるとは限らないよ」
「えにしがあればじきに出会えよう。我のようにな。ククク」
体温を確かめるようにまさぐる手を香耶にばちりと叩き落とされても、小太郎はこれまでになく上機嫌だった。
(2014/3/15)
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