「お待ちを!」

その声に、黒いくせ毛を肩まで伸ばした女は足を止めた。
そのまま動かない彼女に、怖がらせたのかもしれないと、男は言葉に詰まった。

彼がこれほどまでに声を張り上げたのは久しいことだった。
目の奥に熱がこみ上げる感覚も。湧きあがる激情に震える身体も。早鐘を打ち疼く鼓動も。なにもかも。
あの戦国時代に置いてきてしまったものだったから。



「あ、の……お怪我はありませんか」

なんとかしぼり出した言葉は、彼女に聞こえるかどうかというほどの掠れた声だった。だが彼女はこちらをうかがうようにゆっくり振り向いた。

右目を眼帯で隠し、その上に厚いフレームの眼鏡。黒髪が影を造り、まるで人目をはばかり幾重にも顔を隠しているようだったが、それでも、彼女の左目は美しく透き通るような蒼で。
血色のあまり良くない容貌は、男が前の世で至上の主に戴いた月君そのままの姿だった。

(前の世のことを……覚えていらっしゃらないのだろうか)

じっとこちらを見つめる香耶の表情からは、その考えは読み取れない。

(……だとしたら、無理に思い出させないほうが、)

男の理性はそう囁くが。
この世に生れ落ちたときからずっとこの存在を求めてきた彼にとって、その仮定は酷だった。
刃を振るい、己を厳しく戒め、血の道を歩いた宵闇の時代。気まぐれな月と称された、鮮麗な生き様の女性に忠誠を誓った。恋慕の情などたやすく凌駕し心酔した。
今生で彼女を探すことは、彼にとって、もはや生きる指標だったのだ。



「怪我は」

男は、はっと顔を上げた。求めてきた声に、脳髄が揺さぶられる。

「していません。……わざわざありがとうございます」

「い……、え」

彼女の感情のこもらない他人行儀な言葉遣いに、そう応えるのが精一杯だった。
視界が歪んで。決壊するように、涙が溢れ出した。

(ああ、なんと情けない)

ただ、その凛とした声で気安く我が名を呼んでくれていたかつての思い出ばかりが、愛おしくて。
ずきずきと刃で貫かれたように胸が痛んだ。

車に体重を預け、声を押し殺して泣くしかできなかった男に、香耶の気配が近づいてきた。

(……これでは不審に思われてしまう)

いけないと思いながらも、涙も胸の痛みも止まってくれない。
なんと言い訳すればよいかと頭の隅で考えていると、そばまで来た香耶の、大きくはない声を耳が拾う。

「──私には、もうかつてのような血も力も無い。君の手を酷く煩わせるだろうし、おそらくすぐに先立つことになる。……失望させてしまうから」

「……っ」

その言葉に、目を見開いた。そして彼女の一言一句を聞き逃さぬよう、息さえも殺した。

「だから、君がもしこのまま私を忘れることができるなら、それが一番いいんだ」

「貴女を忘れるなど……っ望むべくもありませぬ!」

男は彼女の前に膝を付き、その華奢な腕にすがりつく。

彼女は覚えている。覚えているのだ。
そのうえで、自分を突き放そうとしている。

彼女の細い両手を握りしめて懇願するように額を寄せた。彼女が逃げてしまわぬように。

「私が絶望するときが来るとしたら、それは貴女に“要らない”と見放されるときだけ……!」

生涯香耶を護り、香耶のために死ぬ覚悟なら前世でとうにできていた。
香耶を喪うなど今はまだ考えられない。だが彼女の最期を看取ることを許されるならば、その覚悟もする。
彼女の境遇などまだなにも聞いていないが、彼女のために手を煩わされることは、これまで空虚を掴むしかなかった自分にとって、きっと幸福でしかない。
前世で少しも返せなかった大恩を返す……それは建前で。ただただ香耶のそばにいたいだけ。

だから、どうか慈悲を、とみっともなく泣きつく自分に、香耶はなにを思っただろうか。懐かしげに目を細め、苦笑した。
そして息を吐くような微かな声で、しかししっかりとその言葉は己が胸を刻む。

「君の思うまま……君の幸福のために最善だと思う道を歩めばいい。そんな君が、私には必要だ……幸村」

「……っはい、香耶……!」

そうして、再び香耶のそばに侍ることを許された男は、あいかわらず儚く消え入りそうな己の主君に、深く頭を垂れたのである。




かつての知り合いに、滅多に送らないメールを送り終える頃、香耶がコンビニ袋片手に車へと戻ってきた。

「はい幸村。これで目元を冷やしなさい」

「ありがとうございます……」

買ったばかりのハンドタオルを濡らして持ってきた香耶に、幸村は恐縮した様子で礼を述べた。
あろうことか早速主の手を煩わせている状況にうなだれることしかできない。目元を真っ赤に腫らせた立派な成人男は、香耶の気遣いにより車内で留守居番となったのである。
君の車で飲食してもいいかと事前に聞かれ、もちろんお好きにどうぞととっさに答えた結果、他に香耶が買ってきたのは幸村のためのペットボトルの水だった。

「あの、……香耶」

「うん? お茶のほうがよかった?」

「いえ、そうではなく……御手に、触れていてもいいですか」

その言葉に香耶はぱちくりと瞬いた。
自分の車の助手席に香耶が座っていることが、幸村にはまだ信じられない。
彼の心中を察した彼女は、シートの上においていたレンタル店の袋を膝に置いて、苦笑しながらもしっかり幸村と手を繋いだ。

「君が目を瞑ってる間に逃げたりなんかしないよ」

「……すみません」

決して下心があったわけではないはずなのに。どくどくと高鳴りだす心音が、彼女に伝わることのないように願う。

「ピエトラスカーラに新しく入る住人って、幸村のこと?」

「ええ……、香耶はあのマンションにお住まいなのですか?」

「そうだよ。まぁ、私の場合運よく手に入れたとでも言うか……ひとに譲ってもらったんだ」

「そうでしたか。人気の建物ですからね。私も伝がありまして、たまたま手元に転がり込んだようなものなのですが、やはり高値だけあり手入れもサービスも相応のクオリティです」

あのマンションに香耶が住んでいる。それは僥倖だった。

「……私はあのマンションで夜間フロントに立ちますので、気軽にお声掛けになってください」

「コンシェルジュの仕事は大変なものだと聞いている。あまり君に頼り過ぎて負担をかけないように気をつけるよ」

「いえ、むしろ貴女は、」

自分に頼りきって、自分無しでは生活できないほど依存してしまえばいいのに、なんて疚しい願いは咽の奥に飲み込んだ。

「……貴女をひとりにしては心配ですので」

「君も私の親友と同じ事を言うんだな。それほど自分に無頓着なつもりではないと思うんだけど」

「親友、ですか」

「そこで微妙な顔をしない。自慢にもならないが前の世と違ってこの世界で男友達は一人もできなくてね。親友は女の子だよ」

「そうですか……」

香耶に恋情を抱いていることは戦国の世で明かしているし、先の出来事で未だ気があることは察しているだろう。そう思い至って、幸村は口ごもる。
どんな顔をして香耶を見ていいのかわからない。目元をタオルで隠している現状に少しだけ安心した。

「……力を、失ったとおっしゃっていましたが、もしやその右目も……」

「ああ、うん。“死ぬ気の炎”が使えないせいか、あの義眼は機能を保てなくなってしまってね。ただの宝石に戻ってしまったからすでに手元にもない。お金に換えたよ。今は外観を整えるためにアクリルプラスチック素材の義眼を入れてるけど可動性はないし、乾きやすくて不快感を感じることが多いから普段は眼帯をしている」

「そう、でしたか……」

「それに、昔羅刹だった名残か直射日光がひどく苦痛で……すぐに肌をやけどするし、強い光を見ると頭痛がするんだ。特に今は目を酷使する仕事をしているし、残った左目を守るために遮光眼鏡をかけてる」

羅刹も不老不死も死ぬ気の炎も失って、普通の人間の身体に戻ったとたんにこの体たらく。と肩をすくめる香耶の口調は、まるでその辺でつまずいてしまったよ、なんて語るかのように呑気なものだ。
なんと答えていいか分からなくなった幸村が、目元に当てていたタオルを外して香耶をうかがえば、彼女は幸村の顔を覗き込んで「腫れは引いた?」と気遣う始末。一体どの口が“自分に無頓着でない”と言うのか。

口を開きかけた幸村は、しかし己の車の横に黒いレクサスが勢いよく乗り付けられるのを視界に入れて口をつぐんだ。
そして助手席のドアの外に人影がさす。幸村の目線と影で、香耶もやっと人の気配に気付いた。
謎の闖入者によって車のドアが外から開かれ、驚いて振り返った香耶は、燃えるような赤い髪をブレイズにした大男を見て瞠目した。

「──っ、」

ただ無言で、細い肢体を掻き抱く姿は。
やはりこの男もまた、月君の記憶に囚われたひとりなのだと、幸村は彼女の手を握りしめたまま再認識したのだ。

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