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誰かが自分を見上げるきらっきらの瞳。
下心も、打算も無く。ただ自分を敬愛し期待する澄んだ視線。
昔から香耶が弱いと……敵わないと感じるのは、そういうものに対してだ。
「私はね、月と例えられるほど大層な人間じゃないんだよ。それなりに汚れていて欲深い、ただの女だ」
「神仏のごとく崇められるは好かぬと申すか」
「人の信仰は自由であってしかるべきだ。信長公。私などが天上の月君などと呼ばれ誰かの希望になれるならば、それは光栄なことに違いない」
でも、と香耶は薄く微笑んで続ける。
「私は一体、なにを拠り所にすればいいのだろうねぇ?」
本気なのかそうでないのか。冗談めいたセリフに、信長はくつりと笑い縁を立つ。
どうやら香耶の答えに満足したらしい城主は、そのままこの室に今宵は泊まればよいと言い残した。
「お蘭。香耶が帰るまで待遇せい」
「はい」
信長が退室するのを平伏し見送って、蘭丸が次に顔を上げると香耶の顔が目の前にあって驚いてしまう。
「蘭丸君。信長公の許しも得たことだし、私がこの岐阜城を去るときまで、君の時間は私のものだね」
「は、はい」
「それでは早速、君にお願いしたいことがある」
「何なりとお申し付けください」
そううかがう蘭丸に香耶は答えず、彼の手を引いて日の当たる縁側へと導く。
そして庭へと足を投げ出し縁側に座ると、香耶は蘭丸を隣に座らせて女中を呼びつけるのである。
「ここに二人分の煎じ茶の用意を。あれば適当な茶菓子を見繕ってくれるとありがたいな」
「かしこまりました」
「それからこの御座所に人を近づけないよう計らってほしい」
年嵩の女中は何事かを勘ぐるそぶりも見せず、にこやかに香耶の要望を承知した。
「香耶様、茶の用意ならば私が……」
「蘭丸君には別のお仕事があるんだよ」
まるで幼子に話しかけるような口調で、香耶は笑う。だというのに蘭丸は何故か異様に緊張を強いられた。
暫時ののち、女中は茶と干菓子を持って現れ、気を利かせるようにそっと離れる。
その後は命じられたとおり、人を払ってくれているらしく、侍従も女中のひとりも庭を通ることは無く辺りは静寂に包まれた。
「これは茶葉を蒸したのち焙ったものを煎じたお茶だよ」
「……唐国の茶でございますか」
「あちらのお茶とは製造工程が異なるけれど、茶葉に湯を注いで飲むところは同じだね」
形式に囚われず、湯飲みを傾けながら自由に言葉を交わし、菓子に手を伸ばせばいい。
すっかり寛いだ香耶の様子に目を細め、蘭丸も美しく透き通った色の煎茶をひとくち含む。
そして目を見開いた。
「、とても甘露な香りがします。美味しい……」
「よかった」
誰の気配も足音も聞こえない庭に、呼子鳥の声が響いて夏の到来を知らせた。
いい天気だねぇ、なんてほのぼのと庭を眺める香耶に、蘭丸もいつの間にかつられるように微笑んでいた。
「あの……香耶様、私に頼みたいこととは……」
「あぁ、それなんだけどね」
香耶が優しい笑顔を浮かべる。それは懐に入れた人間にしか見せない、甘くやわらかな笑み。
とても甘露で、眩しいそれに、蘭丸は少し伏し目にうつむいた。
そうして長くまばたきしたあとに視線を上げると、香耶の顔がとても近いところにあって硬直する。
その隙に彼女は華奢な手を伸ばし、蘭丸の頬を撫で、顔にかかる髪を後ろへと流してゆく。
「……っ」
めまいがしそうだった。
香耶の身体からは花のような儚い香りがして、くらくらと脳髄を揺さぶってくる。
先ほどまで煎じ茶に傾けていた五感が、すっかり彼女に支配されて。
蘭丸が思わず目を瞑ると、香耶の手は彼の頭をそっと引き寄せるのだった。
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