08
(BASARA)風魔小太郎side
香耶が羅刹となって独眼竜の前に出た理由は、確実に敵本陣へ侵入できるように。反撃から確実に自分の身を守れるように。
……だけではない。
侮られぬように。話を聞き入れてもらえるように。また恐れをいだかせる為に。
一度竜の右目と戦った異形と同じ姿であれば、女と卑しめるより先に畏怖するであろう。
敵意。畏れ。忌避。好奇。あらゆる耳目を香耶が引きつけ、払拭する。
先に異形の姿を晒した山南のためにも……。
これらはおおむね効を奏し、伊達軍は彼女を前に撤退した。
だが、己ら香耶の忍の、本当の任務はこれからだった。
「う、あ……ぐっ」
「……速い」
香耶は苦しげにうめきながらも、無双の風魔小太郎が放つ手刀を弾き、当身を食らわそうとする拳を避ける。
そのしなやかで素早い様は、美しい獣。
あの混沌がてこずる相手など、後にも先にも香耶だけだろう。
香耶の大刀“狂桜”は己が持っている。香耶が抜き身だったそれを己に預けたのは、自我を失って他人を傷つけることを厭うたからだ。
『──いいか? 万が一自我を失えば私は血に飢えた化け物に成り下がる。もし吸血衝動が出たら私を殴って気絶させろ。多少の怪我はすぐ消える。やむをえない場合は斬り捨ててかまわない』
それが我々に下された命。
すぐに伊達本陣を脱出した。香耶はまだ自我を失っていない。
だがこうして逃げ回るのは、過敏になった防衛本能がそうさせているせいだ。まるで野生。
彼女が自分を斬り捨てろ、とまで言ったその理由がこれだ。
「うー……こたろ、」
「すまぬ」
混沌とて香耶を傷つけるなど本意ではないのだろう。
奴がてこずるほどの強敵を相手にしているというのに、その顔にいつもの笑みはない。
苦しげに歪む香耶の表情。赤い左目。真白の髪から汗が滴り、彼女の血の気の失せた顔や首にはりついた。
このままでは香耶が……。
砂になったら。消えてしまったら。
それだけは絶対に、嫌だ。
香耶に刃を向けることなど出来なくて、ただ傍観していた己は、ここではじめて行動を起こした。
彼女の大刀を逆手に構え、走る。
混沌に対峙していた香耶がこちらに気付いたが、もう遅い。
懐から投げた苦無で彼女の袂、袴を松の木に縫いとめ、抜き襟を大刀で固定する。
着物を引きちぎり暴れだすのではないかと思ったが、香耶は動かぬ身体に少し安堵したように震える息を吐き、大人しくなった。
「……(自力では元に戻れないのか?)」
「自、力で戻るには……吸血衝動を抑えてやり過ごせば、」
「人の血を含めばよい」
混沌の言葉に香耶は目を見開いて我々を見上げた。
前髪の隙間から見える色違いの瞳はきらきらと濡れて。月光を反射して妖美だ。
吸血衝動を我慢する、と彼女は言った。自我を失う危険性はあれど、まだ自我は保てると。
だが血を飲めば、渇きは一瞬で癒え、苦痛は終わる。
そのどちらか。
香耶はその言葉に逡巡したように目を泳がせる。唇が物欲しげに戦慄いた。
己は誰に言われるでもなく忍刀を抜いて、それを己の左腕に突き立てる。
刃が肉を裂き鮮血が零れ落ちると、刀を血振りして納め、香耶に腕を近づけた。
「ぐ、っう……馬鹿じゃないの、もし刀を握れなくなったら、」
心配は要らない。それほど深い傷ではない。
血のにおいに酔ったように浅く息を吐く彼女の頭を撫でる。
そのまま上を向かせれば、香耶は落ちてくる己の赤を舌で求めながら、顎下を鮮血でしとどに汚した。
「……香耶」
少しの量の血を飲むだけで彼女の髪や瞳の色は元に戻った。
荒かった息が落ち着いて、その身はがくりと脱力する。
身体の自由の利かない香耶の代わりに混沌が彼女の顔を拭った。
「大切な家族に、傷をつけさせたくなんかなかったのに……」
瞳は空色に戻ったが、疲れたようにうつむいて、自嘲した笑みを零すその顔色はいまだ蒼白だ。
そのせいで顔や着物を汚す赤がひどく映える。
「人を喰らって生き繋いで……こんなの人間のすることじゃない、な」
「だが、そのように憂うはひとである証しであろう。うぬが病めばそれを癒すため手を差し伸ばす者などいくらでもそばにある。頼れ」
混沌の指が香耶の顎を滑る。
それを空虚な表情で感受する香耶の左目から、一筋だけ落ちる涙。
「…………ありがとう」
消え入るようなその姿を、己はなにがあろうとも護りたい。
もう、香耶の内になにが潜んでいようとも、彼女を喪うなど考えられなかった。
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