君を浮かべる





「遥、ちょっといいか?」

ある休日の昼下がりのこと。
遥が部屋でゴロゴロしていると、不意にノックと共にそんな声が聞こえてきた。
のそのそと這って扉のところまで行き、体勢の許す範囲でドアを開く。
と、そこには彼女の兄が立っていた。
膝立ちで、明らかに寝そべっていたであろう妹の姿に彼はちょっと眉根を寄せたが結局それについては何も言わずに話を切り出す。

「あのさぁ、お前水族館嫌いだっけ?」
「…?」

単刀直入な質問に遥は不思議そうな顔のままふるふると首を横に振った。
水族館に特別思い入れもないが、嫌いということもない。
そもそも水族館に行くという行為自体が相当久し振りだし、どちらかと言うならば興味はあった。

「じゃあさ、これ誰かと一緒に行ってこないか?」

妹の反応に兄がポケットを探り差し出してきたのはマリンブルーの文字が躍る紙片だった。
紙の半分を彩る青の中には目玉なのであろう色とりどりの魚が写っている。
遥は受け取ったチケットをまじまじと眺めていたが、やがてそっと口を開いた。

「…くれるの…?」
「おー、もらえよ。俺は一緒に行く相手いないからさ」

兄は何でもないことのように言った。
その答えに遥は純粋に疑問が湧いて、尋ねる。

「…彼女は…?」
「……一昨日フラれました」

それまでの飄々とした態度が一変した。
兄は肩を落としてどんよりと濁ったオーラを放ち、ぼそりと紡いだ。
その言葉に少女は無言で兄を見つめる。
ちょっとばかり考え、そして告げた。

「…………どんまい…」
「ウン…ありがとうその優しさで泣く、俺」
「え…やだ…」

「やだって何…」と兄は更にがっくりとしていたが遥はすでにそちらから意識を切り離していた。
視線はチケットに戻り、人選にかかる。
とはいえそうそう選択肢があるわけでもなくここは無難に夏帆でも誘おうか、とぼんやりその顔を思い浮かべたところで不意に別のビジョンが頭をよぎった。
自身が「結構好き」だと告げた柔らかな灰色が浮かび、目元のホクロのあたりに赤を差した笑顔がくっきりと思い出される。

「………」

頭の中で優しく微笑むその人物に遥はふむと首を傾げた。
口元でチケットをひらつかせ、宙を見やる。

「……ちなみに誰と行くつもりか聞いていいか?」
「………」

思い耽っていると不意に話し掛けられた。
しかし遥はぼんやりと宙を見つめたまま動かない。
思考をどこかに飛ばして話を聞いていないのはしょっちゅうだったが、話し掛けた兄の方は失恋直後でナイーブになっていることもあってひくりと頬を震わせる。
だったらさっさと切り上げてしまえばいいのだが、彼は幼少より持ち合わせる妙な使命感…このぼんやりまったりな妹の代わりに自分がしっかりせねば…によって苛立ちながらも辛抱強く問い重ねる。

「…アレ?遥?誰と行くんだ?夏帆ちゃんでいいのか?」
「…………」
「まさか彼氏とか!?え、そうなのか遥!?」

数度目の正直で兄がひときわ大きな声で聞いた。
そこでようやく遥の意識が引き戻される。

「………、聞いてなかった…何…?」
「チクショウコノヤロウっつったんだよコノヤロウ!」

しかしなんともマイペースに聞き返されて、兄はただ誤魔化すように吼えてとうとう妹の部屋を後にした。
残された遥はもう一度チケットに視線をやり、ゆっくりと意識をまた思考の海に沈めようとしていた。
本人も気付いてはいなかったが、その眼にはどこか期待の色が滲んでいた。




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