君と兄
吐き出す息は白く、ひんやりと冷たい空気に霧散する。
ぼんやりと見上げた空はすっかり藍色に染まって、オリオン座がわかりやすく輝く。
「お待たせ」
と、不意に目の前にミルクティーの缶が差し出されて遥はゆっくりと瞬きした。
少し遅れて顔を動かせば、視線の先で菅原がにっこりと微笑む。
「ごめんな、遅くなった。帰ろう?」
遥はゆるゆると首を左右に振ると鞄を肩にかけ直してから立ち上がった。
ミルクティーを受け取ると、冷えた指先を暖めながら礼を告げる。
「平気…これ…ありがとう…」
「どういたしまして。じゃ、行こ?」
菅原は何でもないような自然さで手を差し出した。
遥はそれに少し照れたように笑みを浮かべながら、自分のものを重ねる。
「うわ、冷たっ。大丈夫、寒かったろ?」
「…大丈夫…」
「ほんとに?」
菅原は心配そうに眉を下げて遥を覗き込んだ。
頷いた遥は顎をマフラーに埋めながら、のんびりと返す。
「…ん…待つのは好きじゃないけど…菅原待つのはなんか、楽しい……」
菅原の頬にさっと朱が差した。
少年はそれを誤魔化すように、口元を手の甲で軽く擦りながら早口で言う。
「そ、っか。あー、えっと、でも風邪引くといけないし。早く帰ろ?」
「ん……」
遥はマイペースに頷くと繋いだ手を引き寄せられるように菅原の隣に並んだ。
高低差のある淡い色が、街灯の白い光に浮かび上がる。
二人はゆったりした足取りで歩き出しながら、何ということのない会話を楽しんだ。
少しばかり早く脈打つ鼓動は、いつしか心地好いようだった。
○●○●○
「じゃ、また明日」
「…いつもありがと…また明日…」
毎日ではないが、週に2、3回のペースで一緒に帰るようになってから菅原は毎回遥を家まで送っていた。
幸い、中学校区こそ違ったもののさして家が離れているわけでもなかったこともあってそれはすぐに定着化した。
このやり取りも、毎回のことだ。
遥は両手をポケットに突っ込み、家に入るのを見届けるためまだ玄関先に立っている菅原を見やるとはにかむような笑顔を見せた。
それを目にした菅原もゆっくりと眼を緩ませ、綺麗に並んだ歯を見せる。
と、その時だった。
「遥、帰ったんか?」
遥が手をかける前に開いたドアの向こう、いつか菅原も見た遥の兄が現れた。
相も変わらずチャラついた印象で、背にした玄関の灯りに耳のピアスがキラッと光る。
「あん?誰だ、そいつ」
兄はじろりと菅原を見やった。
見られた当人は思わず背筋が伸び、あわあわと口を開く。
「あっ、えと、こんばんは!遥さんとお付き合いさせてもらってます…」
「ああ?……ああ、遥お前一丁前に男はべらせて帰ってきたのか。やるねぇ」
「えっ」
兄は気だるそうな声で、投げやりに吐き捨てた。
どう反応すべきやら戸惑う菅原。
と、そこで遥の拗ねたような声が割り込んだ。
「菅原いじめないで…」
「あ痛っ」
「千葉!?」
遥は無表情に兄の腿の辺りをつねっていた。
菅原が慌てたように声を上げると、困り顔で振り返る。
「菅原…ごめんね…」
「や、俺は大丈夫なんだけど…」
ただしその指はまだ兄の足をつねっていた。
痛みに慣れ始めたのか、とはいえ情けない声音で兄がムスッと口を挟む。
「…妹よ、まだ新彼女の出来ない兄に対する嫌がらせか。いちゃこらしやがってコノヤロウ」
「…そういうとこ…嫌がられたんじゃない…?」
思ったままに真実を告げる遥、言葉の矢に多大なダメージを受けてがっくりとその場に倒れ伏す兄。
まるでコントのようなやり取りに菅原はただ苦笑しながら立ち尽くすしかなかった。
と、四つん這いで歯軋りを始めた兄を放置して遥がととっ、と菅原の側に戻ってきた。
胸の高さの門超しに名残惜しそうにじっと見つめられて、菅原の胸がきゅっと締まる。
「…あのね…今度ちゃんと、紹介させて…」
「………へ」
「すがわ……孝支くん、が…彼氏だって…家族に自慢したいから…」
遥は頬を染めて言うと、その色みを濃くさせながらもじっと菅原を見上げた。
瞳に映り込んだその表情は真剣ながらも色めいたものがあって、菅原の心臓を更に締め付ける。
「………あ〜…」
菅原は門に突っ伏し、その反動で金属ががしゃんと鳴った。
それを眺める遥は自分よりも低い位地になった菅原の髪に手を伸ばす。
撫でるような髪に指を絡めるようなそれに、菅原はくすぐったそうに肩をよじらせた。
幼子のような反応に遥が笑みを浮かべる。
そして二人ははたと目線を合わせ、笑い合った。
一人茅の外、妹の幸せそうな様を見せ付けられることとなった兄の噛み締めた唇と目から、だらだらと血河が流れていた。