10 拓也 [ 125/168 ]

高校を卒業して早三年、今でもたまにふと考えることがある。


『なぁ矢田ー、お前この後暇か?ちょっと頼まれて欲しい用事があるんだけど。』

『なんすか?べつに大丈夫っすけど。』

『友岡に居眠りした罰で課題渡してあるんだけどさぁ、あいつ絶対やらずに帰ると思うからもし帰ろうとしてたら阻止してくんねえ?俺の名前出してくれていいから。俺この後委員会あって行けねえんだよ。』


俺が航に目を付けてまだ初期の頃、俺は軽い気持ちで矢田にそんな頼み事をした。あの時の矢田は珍しく俺相手に嫌そうな顔をして、『ほっときゃいいんじゃないですか?勝手に帰ったって自分のためにならないだけなんすから』なんて返してきたけど、俺は適当な理由をつけて矢田を航の元に向かわせたっけ。


……あの時俺が矢田にそんな頼み事をしなかったら、今の俺はどんなふうに過ごしてただろう?

もしかしたら俺が航と付き合ってた?…いや、それは無いか。だってあいつは俺のこと、最初からまったくそんなふうには見てなかったもんな。

じゃあ、あいつは今頃全然違う人を好きになってて、矢田にも全然航とは違う、別の相手が居たかな。航と矢田が付き合うことも無かったら、矢田と俺の関係性も、きっと今とは違っただろうな。

昔の矢田はまったく人を引き寄せないオーラがあって、人と親しむようなタイプじゃなかったから、もしも航と矢田が付き合うことが無かったら、今俺はこんなに矢田と仲良くなってなかったんじゃないかと思う。今のあいつはどう見ても航の性格に影響されまくってるから、もし矢田が航と付き合うことがなかったらあいつは今も一人で孤高に過ごしていたかもしれない。

そうすると俺が矢田の弟と同居するなんてことも勿論無く、今俺はこの家で一人、黙々と勉強をしているだけの生活を送っていたことだろう。


航が矢田の事を好きだと分かった時は正直、『矢田にあんな頼み事しなかったら良かった』って後悔したりもした。でも、あれから数年たった今はもうまったくそんなことは思わなくなったな。

俺は今、航とも矢田とも友達みたいな関係で、同居人のりとには弟のように世話を焼き、なんだかんだ言って楽しく過ごせている今の生活が好きだ。

これが俺の人生で、たったひとつ後輩にした頼み事だけでこんなに大きく変わる人生なんだなって、今では感慨深いものを感じる。


『あんな頼み事しなかったら良かった』じゃなくて、昔の俺が矢田にあの頼み事をしたから、今の俺にはこの生活があると思ったら、自分にとってそう悪い頼み事でもなかったように思えたのだった。



【 今日夕方家に雄飛来ていい? 】


金曜日の午前9時過ぎ、さっき大学に行ったばかりのりとからそんなラインが届いた。俺は勉強していた手を止めて、りとへの返信文字を打つ。


【 いいよ 】


この家は今はりとの家でもあるしな。常識の範囲内で好きにしてくれたら良いけど、毎回こういう確認はちゃんとしてくれるからあいつは結構常識人だ。


俺も家でひたすら勉強ばっかしている日々だから、たまの息抜きで矢田でも誘うかなーとりとに返信したあと矢田とのトーク画面を開ける。


【 今日夕方家に宇野が来るみたいだぞ。お前も暇だったら来る? 】

【 おお!まじすか!行きます! 】


宇野は矢田が可愛がってる後輩だから声をかけた時の食い付きが良い。【 それじゃあまた夕方に 】というメッセージを送り合ったあとに、矢田とのラインはサクッと終了した。


その後昼飯を食べる時以外はほぼ勉強に時間を費やし、気付いたら午後四時を過ぎている。そろそろ矢田も大学が終わる頃だろうか?と考えていた時、家のインターホンが『ピンポーン』と鳴り響き、来客を知らせた。

りとは自分で鍵を開けて入ってくるだろうし、矢田か?と思いながら覗き穴から外の様子を窺ってみるが、そこには誰も立っておらず、『誰だ?』とやや不審に思いながら恐る恐るドアを開けたら、「わぁっ!!」と脅かすように横から声を上げながら航が姿を現した。


「うわっ…!びっくりした、誰かと思ったら航かよ。驚かせんなよ〜。」

「へへへへ。るいから学校終わったら拓也ちゃんとこ行くって連絡あったから俺も今日暇だし来たよ〜ん!勉強の邪魔した?」

「いや、そろそろ終わろうと思ってたし大丈夫。矢田はまだ大学か?」

「うん、あと一限あるって言ってたからまだ来れなさそう。あ、とりあえず酒とつまみだけ買ってきた!ちょっと早いけど飲んじゃう?」


航はそう話しながら家の中に上がり、手に持っていた買い物袋を俺に見せてくれるように掲げながらニッと笑った。

大学生になり、歳を重ねるごとにだんだん大人びていくのに、ニッと笑った表情は昔から変わらない航らしいやんちゃな笑顔で、つい懐かしくてクスッと笑みが溢れる。


「そうだな、たまには昼間から飲むのもいいな。りとの部屋で勝手に飲み会始めてたら怒られるかな?」


二人なら台所の二人用テーブルを使うんだけど後から三人になるからなぁ…と悩みながらそろっとりとの部屋を覗いてみると、布団が朝起きたまんまのぐちゃぐちゃの状態で敷かれており、その周りには普段よく使う私物がゴロゴロと転がっている。

まあいつものことだがさすがに俺は矢田のように勝手に片付ける事は躊躇ってしまうため、とりあえず台所のテーブルを使うか。とりとの部屋の扉を閉めようとしたら、その前に航が律儀に「りとくんお邪魔しま〜す」と言いながら部屋の中に入っていった。


…まあいいか。とりとの布団を軽く畳んで端に寄せてから机を用意すると、航はその机の上にバラバラと買ってきたおつまみを広げる。


「見て!!うずらの卵のおつまみ!!これ俺のためにあるようなおつまみじゃね?」

「おぉ、確かに。お前ゆで卵好きだもんなぁ。」

「まあ俺の好みはとろっとろの半熟卵なんだけどね。一晩だしに漬け込んだ半熟卵がガチ最強。」


なんか航と飲み会する度に航のゆで卵愛を聞いてる気がするが、それ前に聞いたことあるぞ?と思うような内容でも機嫌良さそうに語っているので「それは美味そうだな」と相槌を打っておく。


「それにしてもりとくんの部屋はいつ見ても散らかってるな。るいはすっげー几帳面なのに。兄弟でここまで差が出るのおもろいわ。」

「血液型が違うからじゃねえの?りとはどう見てもB型だしな。」

「うはは、確かに。」

「航は何型だったっけ?」

「何型に見える?」

「…ん〜、…BかO?」

「ブッブー、Aでしたー。」


りとの部屋が散らかってるという話から話題は血液型の話になり、航が自分の血液型を答えたところで同時に『プシュッ』と缶ビールのプルタブを開けてグビグビとビールを飲み始めた。


「へぇ、お前Aだったか。言われなきゃわかんねえもんだなぁ。」

「まじ?ちなみにるいは何型だと思う?」

「あいつはABとかじゃねえの?もう見るからにABって感じしてるんだけど。」

「うはは、当たってる。そう言う拓也ちゃんはO型だろ。」

「おおっ!なんで分かった?俺自分の血液型あんま人に当てられたことねえんだけど。」

「だって面倒見良いもん。懐かしいなー、高校の時拓也ちゃんが朝7時にわざわざ俺の部屋まで起こしに来たのとか。普通あんな面倒な事やる人間居ねえよ?」


うずら卵のおつまみを個包装のビニールの中から取り出しながら懐かしい話を持ち出してきた航が、パクッとおつまみを口に入れてもぐもぐと美味しそうに食べながら笑っている。懐かしい記憶が思い出されて、俺も航の笑みに釣られるようにクスッと笑う。


「まあ航が生徒会室の窓ガラス割らなかったら俺もわざわざお前に目を付けることは無かったかもな。」

「いやぁ〜良かった良かった。窓ガラス割って良かったわ。あの時俺が殺したゴキブリには感謝してるよ。」


航のその発言の意味は、つまり“航が俺に目を付けられて良かった”と思ってくれてるってことだ。当時はかなりウザがられたけど、そんなふうに言って貰えて今は過去の自分の行いがなんだか誇らしく思える。

しかし『ゴキブリには感謝してるよ』っていう言葉には少々微妙な気持ちになってしまい、りとの前で言ったらキモがられそうな話だな…と思っていたら、丁度その時『ガチャ』と玄関から鍵が刺さる音が聞こえてきた。


「おっ、りとくん帰ってきた?」

「そうみたいだな。」


ドアが開く音に続けて「あれ?誰か来てんの?」ってりとの声が聞こえてきて、ドタバタと部屋に向かってくる足音が聞こえてきたあとに『バンッ!』と部屋の扉が開かれる。


「あ、りとくんおかえり〜。お邪魔してるよ〜ん!」


航は早くもビールを飲んでいる所為でテンションが上がり気味になっており、りとに向かって缶ビールを掲げながら声を掛けると、りとは額に手を当てて諦めのような表情を見せながら畳の上に持っていた鞄を投げ置いた。


「おっ、航先輩来てたんすか?こんちゃ〜っす。」

「雄飛お〜っす!今日なっちくんのバイト終わったら会う約束してんだろ?」

「あ〜そうっすそうっす。」


宇野は部屋の中に姿を見せるなりすぐ航の横に胡座をかいで座り、親しげに話し始めた。俺はりとにチラッと目を向けると、あまり文句を言うこともなく大人しく布団を綺麗に畳み直したり私物を端に寄せて片付けている。

兄である矢田が相手だと思いっきり文句を言うものの、航相手にはそうでもなく、「もう酒飲んでんのかよ」ってかなり呆れ気味だ。


「りとわりぃな、この後矢田も来るから勝手に部屋使わせてもらってたわ。」


しかし俺が矢田の名前を出した瞬間にりとは「んえぇ〜〜」と嫌な顔をし始め、「絶対泊まらせねえからな」と釘を刺してくる。

まありとはいつも矢田の絡み酒を鬱陶しそうにしてるからしょうがないっちゃしょうがない。


「え〜りとくんのケチ〜、明日休みなんだから泊まらせてよ〜。」


途中で航が缶ビールを飲みつつ口を挟むが、なんと宇野の腰に腕を回してベタベタと抱き付きながら言うもんだから、りとの興味はそこに向けられ、「はい、浮気現場確保」とか言ってスマホで写真を撮っている。


「あ〜あ、航先輩ダメっすよ。俺が二方向から怒られるじゃないっすかぁ。」

「まあまあそう言うなって。俺最近なっちくんから雄飛の腹筋自慢聞かされるからどんなもんかと確認してやろうと思ってな。」


そう話しながら航は宇野の身体に抱き付いている手で宇野の腹をなでなでと撫でている。すると航は二つも下の後輩にペシッと頭を叩かれており、それを横で見ていたりとからは航の手に持たれた缶ビールを「溢すなよ」と言って取り上げられている。

昔に比べてすっかり大人っぽくなったかと思いきや、やっぱり航は航のままで、俺は今でもまだなんとなく航から目が逸らせなくなる。

でもそんな時、『ピンポーン』と音が鳴り、来客を知らせたため、俺はハッとしながら玄関に行き、ドアを開けに行った。

そこに立っていたのは緩い笑みを浮かべた矢田で、「会長こんにちは〜」と挨拶しながらひらりと小さく手を振ってくれる。俺が高校時代にはまったく見ることもなかったような表情だ。俺はこんなにも俺のことを慕ってくれている後輩が可愛いくてしょうがない。


矢田を部屋に上げた時には、りとと宇野は毛染めをする気なのか染髪剤の箱を開けており、横でそんな様子を眺めながらビールを飲んでいる航。



『なぁ矢田ー、お前この後暇か?ちょっと頼まれて欲しい用事があるんだけど。』

『なんすか?べつに大丈夫っすけど。』

『友岡に居眠りした罰で課題渡してあるんだけどさぁ、あいつ絶対やらずに帰ると思うからもし帰ろうとしてたら阻止してくんねえ?俺の名前出してくれていいから。俺この後委員会あって行けねえんだよ。』


俺があの時、矢田にあの頼み事をしなかったら、今俺はこんなふうに個性豊かな後輩たちに囲まれた楽しい時間は送れていなかった。やっぱり俺はあの時の自分に後悔なんてしていない。


あの時矢田を、航のところに行かせて良かった。

いまだにこんな事を思い出してしまうなんてちょっと未練たらしくも思えてしまうが、これが、今でもたまにふと、俺が考えてしまうことだった。


変わりゆく彼らの様子 拓也編おわり


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