クズどもに捧ぐバラッド






「私たちのことは忘れてください」
 深々と頭を下げられた。親友がまだ生きていた頃、家に何度か遊びに行ったことをふと思い出す。あの頃よりずいぶん薄くなった親父さんの頭をぼんやり眺め、そういや何年経ってるんだったっけ?と頭の中で指折り数えた。


 なんの前触れもなくかかってきた電話は、名前を登録する前に覚えてしまった番号だった。親友が住んでいた実家だ。
 出だしの「はい」という声が掠れた。続く「もしもし」はもう少しまともな声にしなければと喉に力を入れる途中、電話の向こうの人物はそれを待たずに用件を告げた。
 ◯時に××の喫茶店で会えないか。
 それはずいぶんと抑揚のない声だった。会うことを提案されたのはこれが初めてだ。
 頷くとすぐに電話は切れた。店内で俺を待つ親父さんの姿を見るのは嫌だな。そう思って、約束の時間より三十分くらい、早く着くように家を出ようと決めた。

「…伏見くんが償う罪なんてないって、分かっていたんだ本当は」
向かいの席、親父さんは店員からコーヒーを受け取って「どうも」と会釈をした後、しばらく間を置いてからそう言った。
「感情の持って行き場がなかった。きみを罵ることであの時は、やっと立ってたんだ」
白いコーヒーカップから湯気が立ち上っている。注がれたコーヒーはどこまでも黒くて、じっと見ていたらなんだかその中へ落ちていってしまいそうだなと思った。
「……たった一人の…息子だったんだ」
テーブル越しに一度だけ目が合う。けれど親父さんはすぐにガラス窓の向こうへ顔を傾け、焦点を遠くへ合わせた。
「これからもずっと私たちの、かけがえのない息子なんだ」
「………」
何を言えばいい。いま、俺は。いつものように自分を俯瞰しろ。状況を正しく判断して、その場に合った適切な言葉を選び取ればいいんだ。ほら、早く。
 けれど頭の中は驚くほど真っ白で、考えひとつ浮かばない。
「きみの人生の多くを奪って台無しにしたよな、私は」
「……いえ俺は…いや僕は」
「わかってて動けなかった。ずっと何年も。…そりゃ怒るよなぁこんなんじゃ息子も」
「……」
「夢枕に立つんだよ。いつまでダンマリ決め込んでんだクソ親父って」
「……」
こめかみの奥からキーンという甲高い音が鳴って、それが頭全体に広がった。暑くなんかないのに脇に汗をかいて、寒くなんかないのに口元が小さく震えた。
「きみからのお金はいつも必ずおろして、ずっと保管してた。一円も手をつけてない」
そうだったんですか。
「ここに全額入ってる。少し重たいけど…持って帰ってください」
はい、わかりました。わざわざすみません。
 脳内で流れるセリフがさっきから一つも声になってないことに、この時の俺は気づいていなかった。

「きみにしてきた沢山のことを覚えているのに、きみの目を見ながらすまないと、どうしても言えない。…弱いんだ本当に。私たち家族の中で一番強いのがアイツだったから…支えがなくなって、どうしたらいいか分からないまま生きてる」
「……」
「これからは、何もしていただかなくて結構です。お願いします」
そして最後に深々と、頭を下げられた。
「私たちのことは忘れてください」
 


 今日あったことを話すと、彼は紙袋に一度だけ目をやって「へえ」と呟いた。ああ、またタバコが不味くなるような話しちまったな、ごめんな。
 柵の外に目をやる。七階建ての屋上からは、もっとずっと遠くまで見えるんだと思ってた。案外低いもんなんだな。街に埋もれた景色はずいぶん騒々しくて、どこもかしこも他人事だ。
「…なあ、たいちに一個だけお願いしたいことがあるんだ」
「…なに?」
夕日がビルの隙間から顔を覗かせている。ずいぶん窮屈そうだな。どうしてか、息継ぎに失敗してもがいてるように見えて仕方がない。
 夕日ってかわいそうだなと初めて思った。広くて青い空を味わうことのないまま、あんなに狭い場所で夜にバトンを渡すだけの役だなんて。
「ここから落ちた後、確認してくれないか。もしまだ息してたら悪いんだけどたいちに」
「それ俺がわかったって言うと思ってんの?」
「あー…そうだよな、やだよな。七階って低いんだなぁと思ってさ。違う方法にするか、そしたら」
「さっきからなんなの、本気で言ってんの?」
「電車とかもなあ…んー…迷惑だろうし…」
顎に手をやってぼんやり思案していたら、突然両頬をパシンと掌で挟まれた。
 初めて見た。きみはそんなに怒った顔ができるのか。

「わかったもういいよ。俺がその人に慰謝料払ってもらうから」
「ん?」
「おみクン死んだら俺がその人に言うよ。許されるなんて思うなって。一生十字架背負えよって。毎月決まった金額振り込んでもらってさそれでも言うんだ。誰が許しても俺だけは絶対許さないからって。電話もかけるし手紙も出す。まかしてよ脅迫状も脅迫電話もお手のもんだから」
「……たいち」
「それでさ、その人が死ぬ間際に札束叩きつけるんだ。一円も使ってないからって。こんなのいらないからって」
「やめてくれたいち」
「やめない。おみクンが奪われたもの俺も全部奪う。それで最後に捨てるんだ目の前で」
「……」
たいちの目があまりにまっすぐ俺の体を貫いてくる。痛いな。きみの目が青いから、痛い。
「…俺はなんにも、奪われてないよ」
「そう思ってるのはおみクンだけだ」
「だってはなから何も持ってないんだ。奪われるものなんてない。な?わかるだろ?」
「何も持ってないって思わせたんだよ周りが。周りにそうやって思わされただけだ」
「違う、わかってくれよたいち。奪って壊したのはいつも俺なんだ」
「違うってば聞いてよ!」
たいちごめんな。ごめん、あの時たまたま足を止めてごめん。どうしようもないこんなクズの為にきみは歌を歌ってくれたのに。それだけで充分だったのに。こんなことになるなら金を置いて立ち去れば良かった。こんな話を聞かせるつもりなかった。無駄な時間に付き合わせてしまった。
 ほら、また奪ってる。今たいちの時間と涙を、俺は奪ってるよ。

「…大学辞めた子とか、体売って店通ってる子ばっかりでさ」
客たちひとりひとりのことを思い出したいのに、顔も名前も出てこない。ぼんやりとした輪郭の内側は皆黒塗りで、ああ俺はやっぱり最低のクズだなと思い知る。
「みんな俺に金を落とすんだ。自分を切り売りして、俺のために頑張ったよって笑うんだ。エースにしてあげるねって、ずっと推しだからねって、なんでもするよって。そうやってみんなから巻き上げた金を…笑っちゃうよな。俺は全部ゴミに代えてたんだ」
親友の命を奪って、その家族の未来を奪って、せめて俺にできることはないかと探して、探したその先でまた別の誰かの多くを奪った。壊して奪って回った。それだけの人生だった。
 生きてちゃいけなかった。それだけは間違えちゃいけなかったんだ。それだけを間違えなきゃどれだけマシだっただろう。…でもしょうがないよな。だってそんな風にしてわかるのはいつだって、全てが思い出になってからだもんな。本当やんなっちまうよ。…なあ?たいち。
「クズがさ、なにか償えるとか返せるとか…そんなこと思っちゃダメだよなぁ?…はは」
笑うと、たいちは俺の頬から手を離して「そうかもね」と言った。温かかったなと、離れてから初めて気づいた。

「…俺っちさー、いま練習してる歌あるんスよ」
たいちはひとりごとを言いながら塀に立てかけてあるギターケースの元へと歩いた。俺に背を向けて、ストラップを肩にかけるといくつかの小さな音を鳴らす。
「おみクン聴いてほしいな。お願いしてもいい?」
「いいよ。…俺でいいなら」
その場に腰を下ろして、数メートル先の彼を眺める。俺の方へ向き直ったたいちは、まるでヒューマン映画の主人公のように笑った。
 始まったのは、不燃物置き場の前で出会う誰かと誰かの物語だ。

「大長編の探検ごっこ 落書き、地図の上
 迷子は迷子と出会った 不燃物置き場の前」

 優しくて静かなメロディーだ。きっとこれもたいちが言ってた◯◯というバンドの歌なんだろう。歌詞からなんとなく、共通したぬくもりを感じる。

「嫌いな思い出ばっかり詰めた荷物を抱えて
 ずっと動けない自分ごと埋めてと笑った
 似てて当たり前 そういう場所だから」

 てっきり、アップテンポな曲をかき鳴らすのだと思っていた。元気出してよ死ぬなんて言わないでよってメッセージを歌に込めて。もしそうだったら困るな、どんな顔で聴いていたらいいか分からないなと不安だったから、ちょっと拍子抜けだ。
 …俺のために選んでくれた一曲なのかな。よくわからない。手持ち無沙汰がなんとなくやりづらくて、俺は少し迷ってから煙草に火をつける。

「大丈夫じゃない自分も動けないしな
 ああもう、見つけたものは本物だよ
 出会ったことは本当だよ
 捨てるくらいなら持つからさ、貸してよ
 なるほど これだけあれば当分お腹減らないな
 一緒にここから離れよう
 離れよう」

 ずっと目をつぶって歌うから、あの青い目が見えない。いま見えたら夕日の色と重なって、きっとすごく綺麗だろうに。

 ぼんやり、死んだ後のことを考える。もしも俺が死んだら、一目だけ母さんに会えるかな。もし会えたら名前の由来を聞きたい。教えてくれるだろうか。それとも怒るかな。なんでここにいるんだバカ息子って、頬を叩くくらいはしてくれるだろうか。
 親友のあいつはどうかな。あっちの世界には道路があるんだろうか。もしあるなら、また一緒に走りたい。今度は二人だけで、最高時速で、どこまでも行きたい。
 少し考えて、いや会えるわけないじゃないかと思い直す。バカだなあ、だって俺が行くのは地獄なんだから。

「何を背負っても自分のものじゃないなら
 どれだけ大事にしても偽物だよ
 でも大事なことは本当だよ
 預けたものならいらないさ
 迷子の、まーまでも…」

 たいちの声が急に揺れる。そういえば練習中と言っていたし、歌詞かコードを忘れてしまったのかな。
 でも、そうではなかった。
「きみさえーいれば、きっと僕でいらーれるさ…いっしょに、ここから…離れよお…」
たいちは歌いながら、泣いていた。

 ステッカーだらけのギターを見つめる。きっと長い時間を共にしてきた、彼にとって大事な一本なんだろう。俺にもあっただろうか。誰に偽物と言われても、それでも大事なことは本当だよと迷いなく言えるような何かが、あっただろうか。
 …ああ、写真は捨てなくて良かったかもな。持っていたら見返すことができたのに。今この手に大事なものがなくても、あったことを思い出すくらいはできたかもしれないのに。
 写真、そういえば俺たくさん撮ってたよな。悪ふざけする仲間、日曜大工が趣味だった親父の後ろ姿、その親父に連れて行ってもらった母さんの故郷、バイト代を必死で貯めて買ったバイク、そのバイクで初めて行った先の町並み、なんでもない日の、なんでもない瞬間を、撮ってたよな、俺。
 親父、元気にしてるかな。迷惑をかけたくなくて黙って出てきてしまった。もうすぐ十年くらいになるだろう。酒の飲み過ぎで肝臓をやってないといいが…ああ、どの口が言ってんだって怒られちまうか。
 写真も、バイクも、どうしてこうなってから思い出すんだろう。たしかに大事だった。大事なものを大事だと言える時代が、俺にもあった。

「大丈夫、見つけたものは本物だよ
 出会ったことは本当だよ
 捨てられないから持っていくよ
 迷子だった時も…」

 一度は泣き止んで必死に立て直そうとするのに、たいちはまた次のサビで声を震わした。鼻を何度も啜って、左手をフレットから離して目元を乱暴に拭いて、それでもガタガタになった音楽を、最後までやめなかった。

「出会った人は生き物だよ、生きてたきみは笑ってたよ、迷ってた僕と歩いたよ…偽物じゃなーい…荷物だよ…っ…」
「……」
泣くなよ。泣かないで、たいち。
「これだけーあれぇば、きっと…ひっ…ぼ、僕でいらーれるさぁっ……」
サビの、音が一番高くなるところでそんなに泣きじゃくるなよ。情けないなぁたいち。そんなんじゃ投げ銭してもらえないぞ。
 …バカだな、たいち。バカだよ。
「…一緒に、ここから、離れよう」
「……うん」
泣き声と歌声の真ん中で揺らぐ言葉に、自分にしか聞こえない声で頷いてみる。不燃物置き場の前で手を繋ぐたいちと自分を思い描いてみる。
 いつも勝手に始まる白黒映画がその時初めて色をつけた。フィルターぎりぎりまで灰になった煙草の火を消し忘れて、ただ、なんかいいなと思った。悪くないかもなと思った。写真を撮りたいなと思った。

「…ご静聴、あざッス」
鼻水を啜ってからたいちが頭を下げる。小さな拍手を送ると、彼は照れたように頭を掻いて「自分史上最高に下手だった」と笑った。
「…そんなことないよ」
「あ、いいッスそういうの。お世辞はノーセンキュー」
「お世辞じゃないよ」
「いい、わかってる。俺っちもそこまで馬鹿じゃないんで」
「……バカだよ」
俺の一言にたいちは目を見開いて「へっ」と間抜けな声を上げた。ああ、今の顔よかったよたいち。カメラを持ってたら絶対撮ってた。
「…マジか…おみクンに馬鹿って言われた……」
「なあ、たいち」
「…なんスか…高校中退の馬鹿に何の用スか…」
ギターをケースにしまいながら項垂れるその様子もいい。おかしくてかわいい。写真に撮りたい。忘れた頃に引っ張り出してきて「この時泣きながら歌ってよな」って、からかってやりたい。
 「おみクン超意地悪じゃん」というたいちの声が簡単に想像できるから、思わず笑ってしまった。

「…旨いの作ったんだよ。食べてるところ、俺に見せて」
後先もたいちの都合も考えずに放ったら、結構大きなため息を吐いて、それから彼は笑った。
「……しょーがないなぁ」

 歯を覗かせて笑う口元、それとは不釣り合いの真っ赤な目元。
 そういうのを優しさって言うんだ。全然知らなかっただろ、知らないきみだから優しさはそこに宿るんだよ。たいち。









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