chapter.3-4



 水曜日。その日の朝もいつもより五分くらい早く家を出た。早くプーマを履きたかったからだ。もしかしたら俺は、登下校の時間を一番好きになったかもしれない。一緒に歩いてる気になる。二匹のプーマと一緒に、負けないぞという気持ちで、学校へ向かう戦士のような気持ちになる。

 水曜日の時間割は楽でいい。一時間目と二時間目が家庭科で、それさえ乗りきればあとは割と好きな理科と算数、その後は一番楽しみな給食だし、給食を食べたら昼休みを挟んで体育だ。
 昨日と一昨日の平穏が、今日もきっと続く。吉村と斉藤も、俺にビビってるのかそれとも飽きたのかは知らないけど突っかかってこない。
 二人さえいなきゃ学校は俺にとって波の立たない海みたいなものだ。決して暖かくはないけど、適当に浮かんでいればチャイムは鳴る。何も起こらなきゃおばさんに叩かれることもない。
 午前中の授業をプカプカ水面に浮かぶようにやり過ごして、給食の時間を迎えた。今日はミートソースとわかめスープだった。大当たりの献立だ。美味しくて、この後の体育で脇腹が痛くなるだろうなと思ったけど、構わず二回おかわりした。

 昼休みの後が体育の時は基本的にみんな、体操着に着替えてから遊ぶ。男子は教室の端っこで、女子はトイレとか体育館の裏にある更衣室へ行って着替える。
 俺もいつものように教室の端で体操着に着替えた。校庭でサッカーとかドッヂとかしたい奴らは、良い場所が取れるように急いでいた。斉藤と吉村は一番乗りと二番乗りで着替え終わって教室を飛び出した。たぶん今日も他の何人かと一緒にサッカーをしに行くんだろう。サッカーが一番広いスペースを使うから、場所取りの争奪戦が激しいのだ。
 二人は、教室の扉をくぐる時なぜか俺の方を振り返ってニヤニヤした。でも、いつものことだから俺は気にしない。俺の着ている服がボロいとか汚いとか、たぶんそんなことを言い合って笑ったんだろう。そんなの、自分だって分かってる。心の中で「早く行けよバカ」と唱えながら無視していたら、二人は特に俺に突っかかってくることもなくそのまま校庭へ行った。
 昼休みは二十分しかないから、暇を潰すのにそんなには困らない。俺はサッカーよりバスケが好きだから、たいていは校庭の角にある用具入れからバスケットボールを一つ引っ張り出して、一人でシュートの練習をする。
 体育の時間にもっとバスケをやってほしいんだけどな。マラソン大会が近いから最近はずっと長距離走ばっかりだ。ちょっと飽きた。

 体操着に着替え終わって、下駄箱に向かった。またプーマを履けるんだとワクワクした。薄汚れた上履きのかかとを潰しながら、そういえばプーマを履いて体育をするのは今日が初めてだと気付いた。もしかしたらいつもよりちょっとだけ、長距離走で良い記録を出せるかもしれない。
「……あれ」
自分の下駄箱の前に立って、思わず声が漏れた。今朝しまったはずのプーマの靴がない。俺の下駄箱は空っぽで、嘘みたいに、もぬけの殻だった。
 誰かにパクられた?誰かが勝手に履いてる?でも俺の靴を履こうと思う奴なんてきっといないよな、と思い直して、そのすぐ後に、斉藤と吉村の顔が浮かんだ。
 俺の靴をどこかに隠したのかもしれない。上履きで体育やらせようみたいな、そういうことを考えたのかもしれない。
 さっき二人が教室を出る時にニヤニヤしていた本当の理由がわかった。バカだ、あいつらホントに超バカだ。死ね。むかつく。
 昇降口の向こう、たくさんの人が遊ぶ校庭を見る。あいつら、どこだ。

 …それで、隠されただけなら、たぶん大丈夫だったんだ。
 上履きのままで体育の授業を受けることも、それで先生にみんなの前で「どうした?」って聞かれることも、みんなからクスクス笑われることも、別に全然、きっと耐えられた。授業が終わってから靴を返されて、あの二人に「ばーか」とか「ウケんなあ」とからかわれても、別に、きっと平気だった。
 昇降口の向こう、サッカーをする吉村と斉藤を見つける。二人が蹴っているのはサッカーボールじゃなかった。
 蹴って、時にはわざと踏みつけて、笑いながら汚して、コートの外にあった水溜りめがけて蹴って「ナイッシュー!」って喜んでる。二人が蹴って遊んでたのは、俺のプーマの靴だった。

 それに気付いた瞬間、頭の奥の方で何かのスイッチがオフになるのを感じた。

 暗転する。真っ黒になる。それと同時に目の前が赤くなる。まるで燃えてるみたいに真っ赤に染まる。俺は黒と赤に飲み込まれて、自分を制御できなくなる。
 いつも、こうなんだ。
 ああまたこれかあ。お前、またそれかあ。少し上から俺を見下ろす俺の冷たい声が、一瞬だけ聞こえた。

 上履きのまま走り出す。吉村と斉藤の元へ向かう。俺に背を向けていた吉村の背中を思いきり蹴って、バランスを崩したその一瞬に髪の毛を掴んで地面へ押さえつけた。背中に馬乗りになって、髪の毛を引っ張って地面から少しだけ持ち上げる。それで、今度は下へ叩きつける。
 何回もやった。何回も何回も繰り返した。斉藤が慌てて駆けつけてきて俺と吉村を引き剥がそうとしたけど、俺はそれでも辞めなかった。
 吉村の足がジタバタ暴れて俺の背中を蹴ろうとする。でも届かない。馬鹿だ、死ね、今すぐ死ね、死ねないなら今すぐ靴を元通りにしろ、できないならやっぱり死ね。
「やめろ!やめろよ!」
斉藤のバカでかい声にきっと周りの人も気づいたんだろうけど、俺はひたすら吉村の頭を地面に打ちつけた。十何回目かのタイミングで吉村の体から力が抜けるのがわかったから、俺は立ち上がって今度は斉藤の顔を殴った。
「っにすんだよてめぇ!」
俺に殴られた斉藤が胸ぐらを掴んで、怒声と一緒に唾を飛び散らせた。俺より体が大きい斉藤は、だけど動きがとろい。だから殴り返されそうになるその一瞬に、今度は顔面めがけて思いきり頭突きした。鼻の上あたりに俺のおでこがまっすぐ当たる。俺の胸ぐらを掴んでる自分の手を離せなくて、斉藤はフラッと空を見上げながらよろめいた。

 バカだ。弱い。お前らクソだよ、弱いんだよ、弱虫ども今すぐ死ね。死んで詫びろ。俺の靴を、元通りにしろよほら今すぐ。今すぐ。

 俺の胸から離れない手を上から握って、反対の手で腹を殴った。最初の一発を強めに、それから追加で三発。「うげ」とみっともない声を漏らして斉藤はうずくまろうとする。だけど胸元にある手を離さない。うずくまることを許さない。
 斉藤が口の端からヨダレを垂らして俺を睨んだ。まだやる気なんだ。まだ自分の方が上にいる気でいる。まだ足りないんだ。
 人の形をした砂袋に見えた。いつも頭の中のスイッチがオフになると、相手が人間じゃなく思えるんだ。ただの砂袋、だからどれだけ殴ったって蹴ったっていい。何したっていい。死ね。死ね。死ね。
 もう一度拳を握った時、斉藤は白目の部分に赤い線を少しだけ走らせて、笑った。
 昇降口の方から誰かの走ってくる音が数人分聞こえる。遠くで誰かが「安藤!」と俺のことを呼ぶ。でも直らない。真っ赤になった視界が直らない。スイッチがオフにならない。
 俺は六年生の学年主任の先生と溝端先生に両脇を抑え込まれて羽交い締めになった。
「やめなさい!今すぐやめなさい!」
大人二人分に抑えられて、次の一発を繰り出せなくなる。
 離せよ、今すぐ離せ、足りないんだこいつら、バカだから、何回殴っても蹴ってもやめないんだ。今ここでトドメを刺さなきゃダメだ絶対に。またやる。こいつらは何度だってまたやる。だから邪魔すんなよ離せ、離せ今すぐ。
「安藤くんやめなさい!聞こえてるの!」
聞こえないよ。全然聞こえない。記号だって言っただろお前らなんか。やめてほしいんなら俺の靴返せよ。真っさらだった、ピカピカの状態に戻してよ。
 俺が何したって言うんだ。俺からお前らになんかしたことなんて一度でもあったか。
 いつもお前らはそうだよ、お前らから勝手に、冷たい目をして嫌な顔で笑って、遠巻きに何かを囁いて、俺の言い分なんか聞きもしないで、俺からいろんなことを奪うじゃないか。
 奪ってばっかりだみんな。奪われてばっかりだよ。奪われてばっかりだったよ今までずっと。ずっとずっとそうだったんだ、そうじゃない時なんかなかったよ。
 もう奪うなよこれ以上。返して。返せよ、俺のプーマを返して。

「安藤!」
学年主任の先生が俺の頬を数回軽く叩いた。頭に血が上った俺を正気にさせるためだったんだろう。頬がジンジン痛くて、そこでやっと真っ赤な視界が普通の色に戻ってきて、頭の中に照明が灯った。
 俺から解放された斉藤はその場にうずくまり腹を庇っていた。見下ろした先で倒れてる吉村はおでこから血を流していた。俺が蹴って叩きつけて殴った相手は、人間だった。
「………」
あーあ。ほらお前またやっちゃったな。何回同じことやるんだよ?お前の味方になってくれる人なんてどこにもいないのに。だめなんだってば。手を出したら負けなんだってば。
 頭の中でもう一人の自分がそう言った。今更、吉村の頭を掴んだ時の手のひらの感触が、斉藤に頭突きした時の痛みがジワジワ広がる。
 またやっちゃった。また負けちゃった。…どうしよう。
「安藤は私と一緒に職員室に来なさい。溝端先生は、すみませんが二人を保健室へ」
学年主任の先生が俺の腕を根元からしっかり掴んで、校舎の中へ連れていこうとした。
「……靴」
こぼれた言葉に先生が「なんだ」と、少し強めに聞き返した。
「俺の、俺の靴…取ってきていいですか」
「後にしなさい。溝端先生にお願いしておくから」
引きずられるようにして歩きながら、よろよろと、校庭の地面を見つめた。

 連行されてるみたい。死刑執行。頭の中に浮かんできたその単語に「本当だな」って、もう一人の自分が冷たく笑う声が聞こえた。
 俺がこれから味わう全部を、俺はもう知ってる。知ってるから、もういっそ死んじゃった方が楽かもなって、静かに思った。









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