chapter.3-5




 その後の体育の授業は結局受けられなかった。保健室のイスに座らされた吉村と斉藤の隣、俺は突っ立って俯いていた。
 保健室の先生が二人の手当てをテキパキする横で、学年主任の先生と溝端先生が俺を囲む。何があったのと聞いてきたのは溝端先生。俺を挟んで反対側、深く溜息をついたのは学年主任の先生だった。
「…靴を、ボロボロにされた」
俯いたまま呟くと、溝端先生は「それで?」と続きを催促した。それでもなにも、それが全部だ。
「それだけ?他にもなにかされたことがあるんじゃないの?」
「……」
俺が黙っていると、今度は学年主任の先生が低い声で「それだけのことでここまでしたのか」と俺に尋ねた。
「そうだよ。そいつ頭おかしいから」
吉村がイスに座ったまま答える。斉藤も頷いて「俺らちょっとからかっただけだし」と続ける。
「安藤くん…あのね、そういう時は「やめて」って、言葉で伝えればいいんじゃないかな?言葉でちゃんと伝えたらね、伝わることはもっとたくさんあるんだよ」
違う。
「人をからかうのはもちろん良くないことだけど、それでもこんなに暴力を振るってしまったら、安藤くんの方が加害者になっちゃうよ。そうでしょ?」
違う。絶対に違う。
「言葉で伝えられる人になろう?ね?そしたら吉村くんも斉藤くんも、安藤くんの気持ちがちゃんと分かるんだから」
そんなの違う。そんなの絶対に違う。

「なんとか言ったらどうなんだ」
何も答えないでいる俺に、学年主任の先生が急に声を荒げて怒った。俺はますます俯いた。
 でも、俯いていてもわかる。イスに座ってる二人は今ニヤニヤしてるんだろう。ニヤニヤしながら、俺の負けと自分らの勝ちを確信してるんだ。
「…保護者の方に連絡するから、みんなここで待っていなさい」
先週と全く同じ流れだった。あいつら二人の母親に連絡が行った後、最後におばさんのところへ電話がかかる。
 誰も、吉村と斉藤の二人に「なんでそんなことしたの」とは聞かない。二人を俺以上に責める大人はいない。怪我をした人は手当てをされて、手を上げた人は問いただされる。反吐が出るような「当たり前」だ。
 だけどホントはそんなのおかしいだろって思う。なにがおかしいのかと聞かれたらうまく答えられない。答えられないけど…なんで?って。
 手を上げればその度に俺側には「暴力」が積み重なっていくのに、×が増えていくのに、吉村と斉藤には何にも積み重ならない。いくら俺をからかってもバカにしても、こいつらには「人をからかった」「バカにした」が積み重なっていかない。二人に×を付ける人は、いない。
 言葉で伝えたって意味がないに決まってる。余計笑われるに決まってるんだ。俺の言い分に「そうだ」って頷いてくれる人が一人もいないんだから、誰にも支えてもらえない言葉を放ったところで、効果なんかない。蹴って、殴って、その体を抑えつけてやらなきゃ伝わらない。やめてくれるわけがない。

 しばらくして戻ってきた学年主任の先生が「出られそうなら授業に出ておいで」と言ったのは、俺ではなくイスに座っている二人だった。
 二人は「はーい」と間延びした返事をして、けろっとした様子で保健室から出て行った。取り残された俺は一人、記号にしか見えない人達に囲まれたままだ。

「…安藤は、今日はこのまま帰るように」
やっぱり。この前と一緒だ。
「お家の方が、帰ってくるようにと。話がしたいそうだ」
そう。それも全部一緒。たぶんあの人のことだ、電話の向こうで先生に言い過ぎなくらい謝ったんだろう。謝って、泣き声混じりの「申し訳ありません」を繰り返して、それで俺が帰ったら、何十回も繰り返し叩く。何時間も繰り返しひどいことを言う。そして頬や耳が疲れ切った頃、風呂場にいなさいと言うはずだ。朝までずっとコース。長くて冷たい、あれが待ってる。
「溝端先生、家まで付き添ってもらえますか。お手数ですが」
「分かりました。…安藤くん、教室に行って荷物を持っておいで。先生、下で待ってるから」
「……」
今、全てを打ち明けたらどうなるのか。
 帰ったらあの人に叩かれるんです。沢山ひどいことを言われるんです。夜は電気の点いてないお風呂場で、テープの貼られた場所から動かないよう命令されて、朝までそこで過ごすんです。
 言ってみようか。言ったら未来が変わるかもしれない、少しだけ。

「……先生」
先生が「なんだ」と返事をするより先に、心が凍った。今、先生という言葉を「先生」だと思いながら言えなかった。
 言えない。言えるわけないよな。この人たちが俺の「先生」だったことなんか、だって…ないじゃん。
 伸ばしかけた手を、もう一人の自分が笑うのがわかった。かっこ悪いよ、だって目の前にいる奴ら全員「記号」なんだろ?記号に助けを求めるなんてバカだよ。やめときな。
 …そう。そうだね。

「なんだ、安藤」
「……」
なんとか言ったらどうなんだって言ったよな、さっき、お前。心の中で言いながら学年主任の先生を見上げたら、先生が嫌な顔をして「なんとか言ったらどうだ」ってまた言うから、俺はお前の全部を諦めた。

 誰もいない教室に戻って荷物を取ってきた後、俺は溝端先生に連れられて帰った。靴は拾ってくれてなかった。忘れてたんだろう、空っぽの下駄箱の前に立つ俺を見てやっと「あ、そうだったね」と先生は慌てた。
 そうだよね。どうでもいいんだもんな、俺の靴なんか、みんな。
「ごめんね。先生、今から靴を拾ってくるね」
「…いい」
「え、でも…」
「自分でやるからいい」
 また諦める。諦めるとちょっとだけ楽になる。楽になった心と体で、上履きのまま校庭に転がった自分の靴を拾う。
 拾っている俺の様子を、授業中のクラスの奴らが見ていた。ヒソヒソ話して、何人かは「帰れ」って野次を飛ばして、吉村と斉藤は笑いながら中指を立てて、体育の先生が「コラ」って、軽く注意する。
 諦めてる、全部。だからいい。つらくない。俺、今、楽だよ。

 右手と左手に一つずつプーマの靴をぶら下げて、俺は上履きで帰った。泥と砂で汚れたプーマは、朝とまるで別の靴みたいだった。
 水を吸ってるから重たくて、ごめんねって心の中で謝った。
 プーマのマークが汚れて隠れて、全力疾走するのをまるで誰かに邪魔されてるみたいだ。
 ごめんね、嫌だね。誰より速くかっこよく、せっかく走ってたのに。あんなにかっこよかったのに。…汚させて、ごめんね。

 溝端先生は家に着くまで何も喋らなかった。この人は二人きりになるといつもこうだ。ちょっとだけ距離を置いて、ビクビクしながら黙り込む。
 俺に怯えてるんだろうな。…バカみたいだ。諦めてるからいい。別に全然、いいけど。
 あの人の家に到着した。先生がインターホンを鳴らす。中からドアを開けたあの人は、すぐに頭を深く下げて「申し訳ありませんでした」と先生に謝った。
「この子が、本当にご迷惑を…」
先生が片手を胸の前で左右に動かしながら「いえいえ」と言っている間にも、おばさんは頭を下げたまま「すみませんでした」と繰り返す。
「いえ、あの、安藤くんに今日のことはしっかり聞かせていただきまして」
嘘つき。
「あの、私もクラスの子たちにはきちんと言っておきますので」
嘘つき。
「今後こういったことにならないよう、私も最善を努めてまいりますから」
嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 先生の平べったいセリフが一通り終わると、おばさんは頭を上げて「先生、ごめんなさいねありがとう」と言って、先生の手をそっと握った。
「頼りにしています。私一人では…もう、どうしたらいいのか……」
「いえ、そんな…生徒たちに寄り添うのは、私たち教師の役目ですから」
「はい…はい…もう本当に…ごめんなさいねこんな…ご迷惑ばっかり…」
「いいんですよ。大丈夫。一緒に向き合っていきましょう」
「…はい…はい…」
心が凍っていく。凍って、ひび割れていくみたいな感覚がする。
 この人たちは何を言ってるんだろう。おばさんは何に対して頷いていて先生は何に向き合っていこうと言っているのか。本当にわからなかった。

「それでは私はこれで…。安藤くんとゆっくり話してみてください」
おばさんの手を優しく解いて、先生は穏やかに会釈をした。おばさんも丁寧に頭を下げて先生を見送る。
 先生の姿が見えなくなるまで、おばさんは何度も頭を下げ続けた。それで、先生が一つ目の角を曲がって完全に見えなくなった後、俺を見下ろして「ふう」と息を吐いた。

「あんたは、なんなんだろうね」
「……」
「なんなの?答えてごらん。あんたはなんなの?」
「……」
両手ににぶら下げていたプーマの靴の、かかとをぎゅっと握った。何も答えない俺におばさんは更に「ダメだね本当に。ダメなのから生まれたから」と付け加えた。
「入りな。ほら、早く」
「……」
「早く!」
頭のてっぺんを強く叩かれる。声を出さないまま俺は敷居を跨ぐ。玄関のドアが閉められて、やけに明るいふざけた効果音が頭の中で鳴った。
 タッタラーン。地獄の始まり。終了のお知らせです。

 ファンファーレとクラッカーの音が聞こえた。誰が鳴らしたんだろう。聞こえたんだ、本当に。













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