chapter.3-3




 日曜日はそれから、寝る時までずっとおばさんの機嫌が良かった。俺に穂輔のことをいっぱい尋ねて、俺がボソボソと答える度に「あら」「まあ」「へえ」「それで?」と明るい表情で相槌を打った。
 聞かれたのは本当に、穂輔のことばっかり。年齢とか何してる人なのかとか、結婚してるのかとか。
 こっちからお礼言いに行こうかと言って住所を聞かれた時は慌てた。そういえば知らない。答えられない俺におばさんはちょっと嫌な顔をしてみせた。
「どうして聞いておかないの?馬鹿だねぇ」
だけど、少しホッとしたのも本当だ。だっておばさんを穂輔の家に向かわせるのは、なんだかいやだったから。
 夜、インスタントの味噌汁とふりかけご飯を食べた。食パンよりずっとずっとご馳走だ。その後も、お風呂や玄関で寝ろと言われないかヒヤヒヤしていたけど、言われないで済んだ。一番奥の畳の部屋、ぺたんこで全然あったかくないけど、床ではなく布団で眠ることができた。
 物置みたいで、埃っぽくて暗い、小さな部屋。いくつかのゴミ袋に囲まれて眠る。掛け布団を半分に折って、足の先がはみ出さないように縮こまる。寒い夜にちょっとでもマシになるようにと編み出した、俺の技だ。

 月曜日。起きて食卓へ向かう。そっと中の様子を見ると、おばさんは朝ごはんを食べているところだった。
「ああ、おはよう」
「…おはようございます」
顔色を伺う。あ、そんなに悪くなさそう。おばさんの機嫌が昨日に引き続き良好なことを確認して、それからテーブルに近づいた。俺の朝ごはんは食パンだったけど、今日は一緒にマーガリンとインスタントのコーンスープも並んでいた。
「ほら、早く食べなさい。遅刻しちゃうでしょ」
おばさんがそう言って席を立つので、俺は入れ違いで自分の椅子に座った。おばさんが背中を向けてる間に、パンの上に大量のマーガリンを塗る。「勿体無いからやめて」と言われる前に急いで蓋を閉める。この人を無駄に怒らせない技は、他にもたくさんある。

 普段より五分くらい早く家を出た。ピカピカのプーマを履いてドアを開ける。扉を閉めて歩き出してから、やっと一息つく。良かった。昨日の夜も今朝も、なんにも起きなかった。顔も頭も叩かれずに済んだ。
 交互に前へ進む自分の足元を見下ろしながら、このプーマのおかげかもしれないなんてこっそり思う。穂輔がくれたパワーアイテム、だったりして。
 俺と一緒に学校へ向かう二匹のプーマに心の中で「着いてからもよろしくな」と念を送った。
 学校に到着して、下駄箱の上履きを適当に落としてからプーマを脱いだ。薄汚れたボロボロの上履きの代わりに下駄箱の真ん中、左右綺麗に揃えてプーマをしまう。かかとの潰れた上履きを履きながら、上下左右の他の人の下駄箱を眺めた。
 すごい。俺のが一番ピカピカだ。自慢したくなって、他の奴らの靴や上履きに「いいだろ」と口パクで囁いた。それからついでに「ばーか」「アホ」「なめんな」も。
 自分のクラスに到着する。六年一組。体育が得意な男子が多くて、他のクラスより問題を起こす回数もちょっと多いクラスだ。
 担任の先生は溝端先生。背が低くて髪の毛が変にチリチリした、声の大きいオバサンだ。男子からそこそこ嫌われてて、女子の半分くらいからも「溝ババ」と影のあだ名で呼ばれてる。だけど一部の女子からはやたら人気があって、合唱コンクールとか作文とか、そういうのが好きな地味グループの何人かは、よく溝端先生に話しかけたり個別で相談をしたりしてる。
 俺は、別に普通。先生を好きとも嫌いとも思ったことがない。ただの記号みたいに思ってる。自分のクラスの担任というだけの、記号。
 誰とあいさつすることもなく自分の席に着いて、ランドセルの中身を机の中に入れた。穂輔が電話番号を書いてくれたノートは、なんとなく一番下。他のやつがラクガキしようとしても、まず一番下のこれに書こうとは思わないだろう。だから、一番下。
 一時間目は算数だ。ヨレヨレの教科書を机の上に出して、パラパラめくった。宿題があったような気がするなと思って、そうだそうだ、◯ページの問題を全部解いておかなきゃいけないんだったと思い出した。
 算数だけは他の科目よりちょっと得意で、家で宿題をやらなくてもこういう空いた時間に取り掛かればたいていできる。今回も大丈夫だった。
 算数は好きだ。答えがちゃんとあって、単純で簡単だから。なんとなく穂輔のことを思い出して、鉛筆を左手でクルクル回しながら、俺の口元はちょっとだけゆるくなった。
 始業のチャイムのスレスレに斉藤と吉村が登校してきた。一組の中で一番声がでかくて、授業中もずっとうるさくて、イスをシーソーしたり漫画やカードゲームのカードを持ってきてたり、とにかく先生に注意されてばっかりの奴らだ。
 二人は俺の席の横を通る時、机や椅子の足を数回蹴って笑った。そのせいで机の向きが曲がって、教科書に書いていた数字が変になった。
 でも、俺は何も言わない。二人も何も言わない。六年生になって最初の頃は二人ともニヤニヤ笑ってきたし「くせえ」「休めよ」とか言ってきて、俺もムカついて二人の足を思いきり蹴ったりしていたけど、もうそういうことはなくなった。
 ニ対一だと不利なのだ。ケンカで負けるとかじゃない。ケンカなら負けない。そうじゃなくて、先生や大人にチクられる。口裏をうまく合わせて、俺が一人で勝手にキレたみたいに、こいつらは大人に伝える。そうすると俺がおばさんにすごく怒られて、いつもよりいっぱい叩かれる。
 だから、反応しない。見えてない気づいてないフリをして、やり過ごす。こういう時に「フリ」ができると後が楽だ。だから俺は前よりずっと「フリ」が上手くなった。
 二人が立ち去った後、変になってしまった数字を鉛筆の頭についてる消しゴムで消した。ゆっくり書き直す。全然綺麗に消えないから、消し跡の上から何度も強く、答えを書き直した。
 斉藤と吉村は、自分たちの席についてどうでもい話をでかい声で話していた。二人の後ろ姿に小さな音で舌打ちをする。心の中で「死ね」と言った。死ねよ。バカ二人。早く死ね。
 でも、それくらいだ。その後も、その次の日だって特別大きなことは起きなかった。休み時間にからかわれて喧嘩になることだって下校の時に後をつけられて野次を飛ばされることだって。そういえば先週、ムカついて殴って鼻血を出させたことがあった。それが効いてるのかもしれない。あいつらビビってるんだ。かっこ悪りいの、俺が怖いんだ。
 あの時お前らが嘘とホントを混ぜて先生や自分らの親に伝えるから、そのせいで俺は、それを信じたおばさんに何時間も怒られて、何十回も叩かれたんだ。卑怯者、弱虫、なめんなよクソやろうども、死ね、死ね、死ね、早く死ね。
 おばさんもこの二日間ずっと穏やかで、叩かれたり風呂場にいなさいと言われることもなかった。なんて平穏な月曜日と火曜日だろう。ちょっと拍子抜けしたのも実は本当だ。だって穂輔と別れた日曜日、俺は密かに、これから始まる毎日にガンを飛ばして、かかってこいよと構えていたから。
 穂輔のプーマのおかげかもしれない、本当に。二匹のプーマは俺の守護神なのかもしれない。
 大事にしよう。大事に履こう。かかとを潰したり解けたヒモをそのまま引きずって歩いたり、絶対しないように。穂輔、俺大事にするよ。絶対大事にする。
 いつかこの穏やかな日々が…そうだな、一ヶ月くらい続いたら。穂輔、その時は電話する。すぐにしちゃうのはなんだか格好悪いから、とりあえず一ヶ月だ。
 一ヶ月後に電話をするよ。元気だよって、もらった靴は大事にしてるよって。それから電話越し、もしも俺の言葉に穂輔が嬉しそうに笑ってくれたら、その声が聞こえたらさ、ありがとうも一緒に伝えるよ。穂輔は、喜んでくれるかな。俺からの電話を嬉しいって思ってくれたら、嬉しい。

 心の中に打ち立てた自分だけの内緒の目標は、だけど次の日の水曜日、あっけなく砕けてしまった。













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