chapter3-2




 お父さんに玄関先まで見送られ、俺と穂輔は出発した。穂輔にもらった靴を履いたら、靴をもらった時の嬉しい気持ちとこれからあの場所へ戻る憂鬱な気持ちが一緒に湧き上がって、心の中が急に散らかった。
 穂輔が助手席側のドアを開ける。中に入ってシートに座る。俺が座ると穂輔も反対に回って運転席に座った。お互いにドアを閉める。「バタン」という音が両方から聞こえて、俺は何かから閉ざされてしまったような気がした。
「住所なんだっけ」
穂輔に聞かれ、あの家の住所を伝えた。穂輔がナビにそれを打ち込んだら、この場所からあの家までの地図が出来上がった。「所要時間、約三十分」の文字が表示される。たった三十分。俺が雨の中、逃げたいと思って歩いた長い道のりは、違うどこかに行かなきゃと必死に歩いた遠い遠い道のりは、車でたった三十分の距離だったんだ。
「じゃー行くわ。シートベルトできた?」
「うん」
「ん」
車が走る。俺が毎日過ごしてきた、それでも俺の居場所ではない場所へと向かう。車は途中、俺が歩いてきた道とは全然違う行き方になった。見慣れない景色がどんどん流れる。
 もうおばあさんの料理は二度と食べられないんだと気付いて、なんでもっと食べておかなかったんだろうって後悔した。もっと食べれば良かった。お腹が破れるくらい食べれば良かった。さっき食べた朝ご飯の時だって、おかわりが欲しいと言ったら味噌汁をもう一杯飲めたかもしれないのに。馬鹿だな、なんで言わなかったんだろう。
 忘れたくなくて、せめてもの思いで生姜焼きの味を思い出そうと目を瞑る。最初の数十秒はうまく思い出せたのに、段々口の中に広がる思い出は食パンの感触にすり替わってしまって、俺はますます悔しくなった。
「あ」
穂輔が運転中、急に何かを思い出したのか「やば、忘れた」とこぼした。
「龍彦の靴忘れてきちゃった」
穂輔は赤信号で停車すると、俺の方を見て「ごめん必要だった?あれ」と聞いた。
「いるんだったら取りに戻るけど」
「……」
ボロボロで、穴が空きそうで、クラスの奴に何度も「きったねぇ」と言われたあの靴。下校の時靴箱を見たら、誰かが噛んだ後のガムや飴のゴミが入っていた、あの靴。
「…ううん」
「そー?」
「いらない。あんなの」
自分の足元に目をやる。新しいプーマの靴に、ちょっとだけいい気持ちになった。ランドセルの中のヨレヨレになった教科書も、シミ付きのクタクタになったこの服も、穂輔からもらったこの靴があれば大したことじゃないように思えてくるから不思議だ。かっこいい。この靴が俺、大好きだ。
「これがあるから平気」
プーマを指差して笑ったら、穂輔も笑った。
「したらさー、古い方も一応捨てないどくから、必要んなったら取りに来て。いつでも」
穂輔からもらったものを一つ持って、穂輔の家に持っていたものを一つ残す。なんだかそれがちょっと嬉しい。もうこの人に会えるかは分からない。だけど例えどんなに細くても微かな糸が一本だけ、繋がっているような気がした。
 「取りに来て」と「いつでも」を胸にしまって、俺はプーマに守られた自分の両足に、ギュッと力を込めた。穂輔がくれるそういう言葉が、嬉しい。

 少しして車は目的地に到着した。見慣れた光景、あの人たちの住む家の前だ。
 集合住宅なので、建物には住居者専用の駐車場が隣接している。穂輔は「ちょっとだけここ停めちゃおっか」と言って、空いているスペースの白線の内側に車を収めた。
「…ばーちゃんがさー、言ってたじゃん」
穂輔がエンジンを切った後、ぽつりと言った。
「…なにを?」
「誘拐と一緒だって。言われた時は何それって感じだったけど、まー確かに俺、無責任だったかもって」
顎をぽりぽりかきながら「ごめんね」と続ける穂輔は、フロントガラスの向こうを見たままだったから、俺が首を横に振ったことに、今、気づかなかったかもしれない。
「…難しいこと分かんねんだ、俺」
「……」
そんなことない。俺の方がなんにも分からないよ。だって穂輔のいう「難しいこと」が何なのかも、こうして隣にいるのに、よく分からない。
「でも、言われたら分かるから」
「…うん」
「言われないと分かんないけど、言ってくれたら分かるからさ」
「……うん」
「…あー…そんだけ」
「……」
やっぱり最後まで、穂輔が何を伝えようとしてくれてるのかはよく分からなかった。分からないって、素直に言えば良かったのかな。だけど迷ってるうちに時間だけが過ぎて、沈黙に、置いていかれる。
「……なんかさー、ペン持ってない?」
「ペン?えっと…あ、筆箱の中にあるけど…」
「ほんと?ちょっと貸して」
唐突な言葉に内心戸惑いながらランドセルの金具を外して、中から筆箱を取り出す。ペンを渡すと穂輔は「あー、なんか紙あったかな…」と、前方のダッシュボードを漁った。
「あの、ノートもいる?」
「あーいる、ごめん貸して」
一番取りやすかったから、国語の時に使っているノートも渡した。穂輔はパラパラとめくって空いてるページを見つけると「ちょっとここ書いていい?」と言った。
「うん」
穂輔が、ペンを動かす。何かを書いている。覗き込もうとするより先に穂輔は書き終えてしまったみたいで、すぐさまペンとノートを返された。
 開かれた一ページを見る。そこには080から始まる電話番号が、右上がりになった斜めの向きで書かれていた。
「それ、俺の番号だから」
「……」
「なんかあったら電話して」
「…いいの…?」
「いーよ」
「…ほんとに?」
「うん、仕事中は出れないけど。履歴残してくれたらちゃんと見るから」
「……」
ノートに書かれた数字をもう一度見つめる。なんかあったら、ここに電話する。なにかあったらかけてもいい電話番号が、自分にある。
 まるで命綱みたいだ。そう思った。この11桁の向こうは穂輔に繋がっている。どうしようもなくなった時は、今度は逃げるんじゃなくて、電話をかけられるんだ。
「…わかった」
「うん」
「……ありがとう…」
穂輔が笑うから、笑ってくれるから、俺は胸が苦しくなって上手に笑えなかった。言葉は耳から聞こえてくるのに、笑った顔は視界に映っているのに、どうして穂輔のなんでもない言葉と笑顔は、いつも耳や目より先に胸の方へ届くんだろう。

 穂輔と一緒に車を降りて、あの人のいる家の玄関ドアまで向かった。穂輔は片方の手をポッケに入れながらインターホンを鳴らした。
 部屋の中から「はーい」という声がして、ドアがすぐに開いた。ドアの向こうにはいつもよりずっと穏やかな顔をしたあの人がいた。
「…あら、あらやだっ、まあ〜ご足労おかけしちゃって。ごめんなさいね?お待ちしてました」
おばさんは穂輔の顔をまじまじと見て、それから目線を上から下に何度も動かして穂輔の全身を眺めていた。
「やだわ、ずいぶんお若い方で。どうしましょう、ごめんなさいねそんなに広くはないんですけど、上がっていきます?良ければお茶でも……」
「はあ、別に」
穂輔はおばさんとは対照的に無表情だった。返事も素っ気ない。怒っているのかなとハラハラしてしまったけど、おばさんはそんなのちっとも気になっていない様子だ。
「本当にこの度はご迷惑をおかけしまして…あの、ありがとうございました。ほら、龍彦くんお礼は?言ったの?」
「…ありがとうございました」
言う通りにしないと後で不機嫌になることを知っているから素直に従った。穂輔に向けて頭を下げたけど、穂輔は俺じゃなくおばさんをじっと見つめたままだ。
「…ん?やだわぁふふ、私の顔になにか付いてるのかしら」
「……いや、別に」
穂輔はおばさんから目を逸らし、そのまま少し俯いてしまった。
「あの、稲田さん?本当にご迷惑かけちゃってごめんなさいね?でも、ふふ。稲田さんで良かったわ、こんなに親切にしていただいて」
「……」
「それもこんなにお若くてねぇ〜?ね?龍彦くん。良かったよねぇ?」
隣にいる穂輔とおばさんを交互にチラチラ見ながら俺は頷く。若いと何が良いんだろう。全然分からない。
「かっこいい人ねぇ?すごくかっこいいよね?そう思わない?龍彦くん」
「……」
戸惑いながら、でもやっぱり仕方なく頷いた。かっこいいは間違いなく褒め言葉のはずなのに、隣にいる穂輔の機嫌がどんどん悪くなっている気がしてしょうがない。頷きたくない。穂輔がかっこいいとかかっこよくないとか俺には別によく分からないし、どうでもいいのに。俺に振らないでほしい。
「もし良かったら上がっていかれません?なんだったらそのままお昼ご飯もご馳走できるし…ふふ。ねえ?」
最後の「ねえ?」で、また俺の方を見る。もうやめてよと思った。だからランドセルのベルト部分をギュッと握って、穂輔の真似だ。俯いてやった。
「けっこーです」
ぶっきらぼうな一言が、俺たち三人の真ん中に大きな石のように投げ出される。穂輔のその一言はあまりに唐突で、おばさんもきっと受け取り損ねてしまったんだろう。だから言葉は誰にも拾われることなく、玄関先の床に真っ直ぐ落ちた。
「……あら、あらあら。そう?あら〜…。そうですか、残念だわ」
おばさんの笑顔にも穂輔はちっとも反応しない。ポケットに手を入れたまま突っ立って、おばさんに形だけの会釈をして「失礼します」だけを置き土産にして、ここから立ち去ろうとする。
「…じゃーまたね」
穂輔が、立ち去る間際、俺の頭に手を軽く乗せてそう言った。
「……」
俺の言葉も待たないで穂輔は行ってしまった。しばらくして駐車場の方から車のドアを開ける音と閉める音が聞こえて、休む間もなくエンジンのかかる音が響いた。
 穂輔は、行ってしまった。
「…なんだかちょっと怖い人だったねぇ〜?」
おばさんに同意を求められたけど、俺は首を縦にも横にも振らなかった。プーマの靴を見下ろす。穂輔は怖くない。穂輔を怖い人だと思ったことは、一度もない。おばさんの目は節穴だ。
「さぁ、それじゃ龍彦くん。お家入ろっかぁ?」
俺の背中をさするおばさんの手が知らない人みたいで、どうしてかゾッとした。玄関を跨ぐのに緊張した。俺はまた自分の居場所ではないここへ戻るんだ。いよいよ、戻らなきゃいけないんだ。
 喉の奥がギュッと締まって苦しい。両足がすごく重たい。だけど入らなきゃ。戻らなきゃ。早く中へ入ってしまえ。なんでだか分からないけどおばさんは今機嫌がいい。それを損ねてしまう前に、早く。早く。
 穂輔の手のひらの感触を思い出したくて自分の頭のてっぺんを触った。プーマに守られた足に力を込めた。電話番号が書かれたノートのページを頭の中に思い描いた。
 自分の片足が、玄関の敷居を跨ぐ。
「おかえり、龍彦くん」
おばさんの明るい声が耳にまとわりつく。
 今までよりずっと、逃げた金曜日の前よりずっと、怖くて気持ち悪いと思った。













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