Chapter.3-1





 その夜、おばあさんは九時過ぎ頃自分の家へ帰ってしまった。ほすけのお父さんが車で帰ってくるなら、自分が停めている原付バイクが邪魔になるだろうから、という理由だった。
 口では「やっと帰った」なんて言ってたけど、おばあさんがいなくなった後にちょっとだけ、シンとなった部屋の中ほすけは口を尖らせていた。声がでかいって言いながらしかめっ面を何度かしていたけど、本当はおばあさんが帰ってしまったことが、ほすけは寂しかったのかもしれない。
 台所の方、コンロの上に置かれた鍋の中には味噌汁が、普段はきっと使っていないカウンターテーブルの上にはおにぎりがある。明日の朝ごはん用にと、おばあさんが作ってくれたものだ。
 ほすけと二人だけの夜だった。昨日、ゴミ捨て場で声をかけられたのがもう随分遠いことに感じる。
「明日の準備しとこっか」
ほすけがテレビを消して、その代わりに今度はコンポの電源を入れる。明日の準備の間のBGMを選んでいるらしい。
「たつひこ邦楽のが好きなんかなー」
昨日とは違うCDを取り出してコンポに入れ、ほすけが再生ボタンを押す。流れてきたのは日本語の歌だった。もちろん初めて聴く歌だ。
「ランドセルに詰めよっか、このへんの」
「うん」
ダンボールの上に並んだ教科書やノートをランドセルにしまった。ヨレヨレなのは結局直らなかったけど、中身はちゃんと乾いてる。これならちゃんと使えそうだ。
 せっせと詰める俺の隣にほすけがやってきて、ぼんやりと俺の様子を眺めている。いっぱいあんねとか、重そーとか、ほすけは思ったままの気持ちをひとりごとみたいにポツポツと呟いた。
「ふーん、たつひこってこーゆー字なんだ」
最後のノートをしまう時、ほすけが言った。安藤龍彦。ほすけが見ていたのは教科書の裏表紙にマジックで書かれた俺の名前だ。
「うん」
「画数多いね。書く時めんどくない?」
「うん。めんどい」
「だよね」
ほすけはゆるく笑って「でもかっこいーね」とも付け足した。
「…ほすけは?」
「あー、漢字?」
俺が頷くと、ほすけは携帯電話を取り出してインターネットの画面の検索部分に「穂輔」と打った。
「…俺より多い…」
「あは、俺の勝ち」
ほすけ。…穂輔。頭の中で漢字を数回なぞる。そっか、穂輔。画数は確かに多いけど、やっぱり知った途端にイメージが固まった。穂輔。ああ、似合ってるな。なんでそう思ったか理由はわからない。でも、漠然と思った。
「……穂輔は」
「ん?」
ランドセルに全てをしまい終わって、最後に銀色の金具を留める。二人きりだから、明日の朝にはさよならだから、もうちょっとだけこの人のことを知りたいと、思った。
「学校、好きだった?」
俺の質問に、穂輔が真っ暗な窓の外をぼんやり見つめながら「んー」と言う。こういう一瞬に、きっと言葉をちゃんと探しているんだ、この人は。適当に返したってきっとバレないのに。
「小学生ん時はあんま家にいたくなかったし、学校、好きだったよ」
「…ふうん…」
「給食毎日食えるし」
俺が思ってることと同じようなことを言うからちょっと笑った。俺も、給食は大事だ。
「豚汁とカレーん時は死ぬほどおかわりしたわ。今も出る?豚汁とか」
「うん、出るよ。俺も好きだ」
「うまいよね。あとミートソースも山盛り食ってた」
穂輔は話してると、すぐ食べ物の話になる。
「…ひひ」
「ん?なに」
「穂輔、子どもみたいだ」
「えー、なんでよ」
「食べ物の話ばっかりだ」
穂輔は「うっせ」の言葉と一緒に俺の頭に手を置いた。乱暴で、すごく急で、叩くと撫でるのちょうど間くらい。こんな風に誰かから頭を触られたのは、生まれて初めてだった。
「食うのは人間の基本でしょ」
「…うん」
当たり前のことを、そのまま言う。寒かったら寒いねって。眠かったら眠いねって。美味しかったら美味しい、好きだったら好き、嫌いだったら嫌い。きっとこの人は楽しい時も悲しい時も、それをそのまま言うんだろう。
「……」
この人といると安心するんだと、気付いた。構えなくてもいい。嘘を吐かなくてもいいし、無理をしなくてもいい。そのままでいいよって、言われてないのに伝わってくる気がする。不思議だった。…またちょっとだけ、泣きそうになった。
 スピーカーから日本語の歌が流れる。聴いたことのないその歌の歌詞は、英語じゃないからちゃんと文字になって、俺の頭の中に滑り込んでくる。
「…これ、なんて人?」
コンポの方を見ながら尋ねると、穂輔は「くるり」と答えた。
「あんま普段聴かないけどね。…龍彦好き?」
「……」
 安心な僕らは旅に出ようぜ。思いっきり泣いたり笑ったりしようぜ。
「…うん」
初めて「好き」と答えられた俺に、穂輔は俺より嬉しそうに「いーね」と言って、笑った。
 その夜は俺がソファーで、穂輔がそのすぐ横のカーペットの上で眠った。自分の部屋から掛け布団を持ってきた穂輔は「夜中なんかあったら起こして」と言って、早々に電気を消した。
 一人で寝るのがちょっと怖かったから嬉しかった。かっこ悪いから、それは結局穂輔に言えなかったけど。

 翌朝。目を覚まして体を起こすと、穂輔は昨日の朝と同じように換気扇の下でタバコを吸っていた。起きた俺に気付くと「はよ」と短く言って、チラリと風呂場の方へ目をやった。
「親父いま風呂入ってて」
「あ、えっと…うん」
「出てきたら一緒に朝飯食べよ」
「うん」
もう穂輔のお父さんが帰ってきてるんだ。ちょっとだけ緊張した。見せてもらった写真を思い出すけど、声や背丈は、どんな感じなんだろう。
「龍彦の寝顔見てたよ」
「えっ」
「へーって言ってた」
「な、なにそれ…」
「あはは、わかんない」
笑いながらタバコの火を消して、穂輔は冷蔵庫を開け「なんか飲む?」と聞いた。穂輔が変なことを言うからうまく答えられなくて「いいえ」と答えたら「なんで敬語?」と、また笑われた。
 穂輔がテレビ前のテーブルにおにぎりを運んでいる時、お父さんがお風呂から出てきた。上下紺色のスウェットで、首にタオルをかけていて、写真と同じ、鼻の下と顎にちょっとだけ髭を生やしてる。背はたぶん穂輔よりちょっと大きい。緊張しながら「お邪魔してます」と頭を下げたら、お父さんは顎を手でさすって「はいどうも」と言った。
「なんもお構いできませんで。えーと、たつひこくん?だっけか」
「は、はい」
「うん。こいつから大体は聞いてるから。じゃあ早速食べるか」
お父さんは「よいしょ」と言いながらソファーの、俺から少し離れた場所に座った。それで、顎をさすりながらテレビを点ける。…穂輔とおんなじ仕草だ。
「雨ん中で外いたんだって?風邪引かなくて良かったなぁ」
「あ、えっと、はい」
「最初怖かったろ?あいつ。目つき悪いから」
お父さんがイタズラな顔をして笑う。…よく似てると思った。カカカというその笑い声は違うけど、話し方とか、話す順序とか、やっぱり体勢の取り方と仕草が、穂輔とそっくりだ。
「穂輔ー、茶ぁくれ、茶」
「んー」
台所へ移動して味噌汁を温める穂輔の背中に、お父さんが声をかける。穂輔は振り向かず、後ろ姿のまま返事をした。
 ほどなくして、重ねた空のコップを三つとお茶のペットボトルを穂輔が運んできてくれた。穂輔からそれを受け取るお父さんの手を目で追う。大きくて傷だらけだ。
「はいこれ、たつひこくんのな」
「あ、はい、ありがとうございます」
慌てて頭を下げてお茶の入ったコップを受け取る。いけない、俺も何か手伝ったほうが良いんじゃないか?
「…あ、あの」
「うん?」
「つ、つぎますか」
お父さんは数回瞬きをした後、またカカカと笑って「悪いな」と言った。
「俺もあんまり人相良くなくてよ。怖いか?」
「……」
首を横に振った。
「…穂輔と、似てる」
だから怖くない。心の中でそう続けたら、お父さんはちょっとだけ嬉しさを混ぜた顔で「まいったな」と呟いた。
「よく言われる。当事者だとよく分かんねえんだけどな」
そうか、これを言われると穂輔は「ウケる」で、お父さんは「まいる」なんだ。だけど二人とも、嫌そうじゃない。二人の反応を頭の中でこっそり並べて、なんだか俺は「いいな」と思った。
 親子って、こんな感じなんだ。いいな。…羨ましいな。
「あのさー親父」
今度は味噌汁が入った器を三つと、箸やフォークを器用に全部持って、穂輔がお父さんに言った。
「ん?」
「食ったらその後車貸りる。俺が龍彦乗せてくから」
「おお、いいけど。荒い運転すんなよお前、お客さん乗せんだから」
「しないし」
穂輔が着席して、いただきますを言いながらおにぎりのラップを開ける。お父さんも俺もそれに続いて、三人の朝ごはんの時間が始まる。
 おにぎりは一人二つずつ。一つは中身が鮭で、もう一つは塩味のわかめの混ぜ込みおにぎりだった。どっちもすごく美味しかった。出来立てじゃないのにご飯が柔らかい。すごいな、おばあさんの料理って何でも美味しいんだ。
 ご飯を食べた後、穂輔がタバコを吸うのを待っていた。穂輔が灰皿に押し付けたら、いよいよ出発だ。
「…あー、たつひこくん」
ランドセルを自分の隣に置いてソファーの端に座っていたら、お父さんに声をかけられた。ちょっと迷ってるような、決めあぐねてるような声だ。
「…帰った後、なんでも言える誰か、いるか?」
「……」
穂輔から大体は聞いてるんだろう、俺のことを心配してくれてるんだ。嬉しいよりも申し訳ないと思ってしまった。また誰かに新しく迷惑をかけてしまったんだ。自分の中に×のマークが一つ足された気がした。
「……」
黙って頷いた。そんな人、本当は俺にはいないけど、ここで首を横に振ってしまったらお父さんはきっと困ってしまう。
「…そうか」
お父さんは、もう何も言わなかった。なら良かったとも、本当に?と聞き返すことも。
 おばさんや学校のクラスメイトの顔がポツポツと浮かぶ。誰の顔も笑ってはいない。冷めた目と冷めた口元で、みんな俺を黙って見ている。
 こんな時穂輔は、一番最初にお父さんの顔を思い浮かべるのかな。思い浮かべたその顔は、やっぱり笑ってるんだろうか。…もしそうだったらいい。羨ましいではなくて、そうだったらいいなって、思う。
「お待たせ、行こっか」
穂輔が換気扇を消して俺の元へやってきた。違う世界に迷い込んだかのような二日間は、もうすぐ終わるんだ。













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