chapter.2-5




 夕方の手前。早めにお風呂入っちゃいなとおばあさんに言われて、今回はほすけが一番、俺が二番の順でお風呂に入った。ほすけは自分がお風呂から出た後、脱衣所に俺を呼んでタオルや着替え、ドライヤーの使い方と位置を教えてくれた。
 畳んである着替えは、もともと俺が着ていた服だ。洗濯されて畳まれた自分の服はなんだか昨日とは別のもののように思えた。
 お風呂から上がるとおばあさんが台所でご飯の準備をしていた。部屋を左右見渡しても、おかしい。ほすけがいない。
「あ、あの…」
キャベツを細かく切っているおばあさんに声をかける。包丁が野菜を切る音の方が大きくて自分の声は負けていたが、何度目かの「あの」で、おばあさんは気づいてくれた。
「ああ、はいはい。なあに?」
「あの、ほすけは?」
おばあさんは「タバコよタバコ」と言って困り顔をした。
「ほんっとよく吸うんだから…あたしが料理してる時はね、仕方ないから外行くのよ。たぶん玄関出たとこにいるんじゃないかな、探してみな」
「はい。ありがとうございます」
おばあさんにお礼を言って、玄関へ向かった。
 ほすけが視界の中のどこかにいないと、妙に落ち着かない。ほすけがいると全然そんなこと思わないのに、いないと途端に、この家の匂いもおばあさんも余所余所しく感じてしまう。
 廊下より一段下がった、靴を履く場所。そこに真新しい黒のスニーカーが置いてある。さっきほすけが買ってくれた俺の靴だ。
 買ってもらった時は戸惑いの方が大きかったけど、今になってじわじわと嬉しくなってきた。かっこいい。ツヤツヤだ。プーマだ。嬉しい。俺の靴だ。
 昼の時より緊張しないで履けた。柔らかいクッションが自分の足を包む感触が、気持ちいい。
 玄関のドアをゆっくり開けて右と左を見る。ほすけは、すぐ近くに立ってタバコを吸っていた。手には小さいサイズのペットボトルと、オレンジ色のライターがあった。
「ん?どしたの」
ほすけが口にタバコを咥えたまま器用に喋る。喋ると唇が動くから、タバコも上下に動くんだな。見てると何かの装置みたいに見えて、なんだかおもしろい。
「…ううん」
何してるのかなって思っただけ。言おうとしてやめた。何だかそんなの鬱陶しいなって、自分でも思ったからだ。
「ばーちゃん何作ってた?」
「え、あ、えっと…わかんない」
「そっか」
「…キャベツ切ってた」
「うわーきた、生姜焼きかトンカツだ多分」
ほすけは空いてる方の手でガッツポーズを作って「しゃー」と言った。食べ物の話をしてる時、やっぱりこの人は子どもみたいな振る舞いをするんだな。ちょっとおかしくて、ちょっと笑った。
「ごめん、これの後もう一本吸っていい?中入ってていーよ」
「……」
ほすけの言葉に、少し俯く。もう一本の時も、近くにいたら迷惑だろうか。…いや、迷惑だろうな。この人に迷惑と思われるのは、なんだかすごく嫌だな。
「…えっと、はい」
それだけ言って中へ戻ろうとした時、ほすけが「ここにいてもいーよ」と付け足した。
「中入っててもいーし、ここにいてもいーよ」
「……」
右か左か。ほすけの言うことは本当にいつだって単純で、簡単だ。
「…俺、あの…」
「うん」
「ここにいる」
その時やっと、やっとだ。初めて俺は右か左かを自分の意思で答えることができたんだ。すごく、すごく嬉しかった。迷わずに、恐れずに言えたことが…いや違う。それよりも「こっち」と、はっきり選べた自分のことが、すごく嬉しかった。タバコの根元を吸いながらほすけもちょっと嬉しそうに笑ってくれたから、俺は余計に嬉しくなった。
 タバコを吸いながら、ほすけは取り留めのないことをいくつか俺に聞いた。何組なのとか、一クラス何人くらいいんのとか、学校って朝何時から始まんの、とか。どれもこれも答えが一個しかない、俺の気持ちとかは全然必要ない質問ばっかりで答えることが楽だった。もしかしたらほすけはこの時、答えることの練習を、俺にさせてくれたのかもしれない。
「そーなんだ、結構朝早いね」
「うん…つらい」
「そーだね、俺も朝起きんのつらい」
ほすけがそう言うので、今度は俺から何時に起きるのか尋ねた。ほすけは「んー」と数秒考え「早出なかったら七時くらい」と答えた。
「…ほすけは、仕事してる人?…なんですか」
「あれ?言ってなかったっけ」
ほすけは灰皿がわりのペットボトルに灰を落としながら「働いてるよ」と答えた。
「自動車整備」
「そうなんだ」
「うん。土日やすみ」
知らなかった。そうなんだ、自動車整備の仕事をしてるんだ。…言われるまでは全然、この人が普段何をしている人なのか見当も付かなかったのに、それを聞いた途端すごくイメージが固まって他のことをしてる想像ができなくなった。なんだか不思議だ。
「…てかさ、聞いていい?」
ほすけがちょっと変な顔をして言う。ニヤニヤしてるみたいな、痒いのを我慢してるみたいな、そんな表情だった。
「俺いくつに見えてる?」
「……」
ほすけのことをじっと眺める。笑ってる時はちょっと若く見える。声がひっくり返るから余計そう思うのかな、二十歳前後くらいの感じがする。でも、見ないフリをしている時は違うのだ。大人っぽいと思う。三十より少し下か上くらい、にも思えるんだ。
「……25?くらい…」
だから、間を取った。ちょっとドキドキしながら顔を見上げると、ほすけは「え、すご」と言った。
「正解」
「え、ほんと?」
「うん。今25」
「…そうなんだ…」
へえ、ほすけは二十五歳なんだ。改めてその外見をじっと見る。本当の年齢と比べて老けているとも若く見えるとも思わない。また、本当の歳を知った途端その年齢にしか見えなくなった。
「たつひこは?」
「俺?」
「うん。いくつ?」
年齢を言ってなかったんだと初めて気付いて、十二と答えた。そうだ、俺もほすけと同じで、たぶんまだ名前とあの家の住所と電話番号しか伝えてなかったんだ。
「じゃー六年生?」
「うん」
「そっか」
この次に来る質問を瞬間的に予想した。「学校楽しい?」絶対これだ。だって大人はみんなそれを聞く。
「あともーちょいで中学だね」
「…うん」
…あれ、聞いてこない。ちょっと驚いた。
 この質問をされるのが、俺は好きじゃなかった。だって「楽しい」と答えることを大人はみんな待っていて、その答えは俺にとって嘘になるから。
 学校は楽しくない。会いたい人も好きな授業も、なんにもない。唯一楽しみなのは、お腹がペコペコの時に食べる給食だけだ。だから俺は学校を「昼ごはんを食べに行く場所」と思うことにして、毎日通っていた。…そっか、ほすけは聞かないんだ。やっぱり変わった人だな。
 聞かれないことに安心して、安心したついでに本音を打ち明けた。少し勇気が必要だったけど、ほすけには、何でだろう。打ち明けたいと思った。
「…学校、あんま好きじゃない。…です」
「そっか。じゃー卒業待ち遠しいね」
「……うん」
それで、その話は終わった。嘘みたいにあっけなかった。
 どうして聞かないのかを、逆に少し聞いてみたい。ほすけが他の大人とは違う理由が知りたい。だけどそれを聞いてみようかどうしようかと迷っている時にほすけが「あ」と、何かに気付いてちょっと慌てながらタバコの火を消すから、俺は聞く機会を失ってしまった。
 ほすけは灰皿代わりのペットボトルを足元に置いて、スウェットのポケットから携帯電話を取り出すとそれを耳に当てた。きっとポケットの中で震えていたのに気付いたんだろう。
「あーうん。お疲れ。うん、いる。これから晩飯。うん、そー、ばーちゃん昨日泊まってった。うん、明日の朝?わかった」
電話が終わったのか、ほすけはスマホを耳から離した後「俺の親父」と俺に伝えた。
「明日の朝帰ってくるって。したら車空くから」
「……うん」
ほすけのお父さん。今日一回だけほすけの口から出てきた人だと思い出す。
「…親父見てみる?」
俺の顔になにか書いてあったのか、ほすけはそう言って、携帯電話のカメラロールを親指一つでスクロールした。数秒後「あった」と言って、ある写真を俺に見せてくれた。
 画面には、おばあさんと一緒にどこかのお店でご飯を食べてる、ヒゲを生やした男の人が写っていた。
「……似てる」
ほすけに似てる。どこが似てるという具体的な部分は分からないけど、でも、似てる。表情というか、ポーズの取り方というか、顔じゃなくて雰囲気が、一枚の写真を見ただけでパッと分かるくらい、似てる。
「えーうそ、似てる?」
「うん」
「あははウケる。自分じゃ分かんないんだよな」
よく言われるんだろうな。ほすけは自分でその写真を見ながら「なんでだろ」と顎をさすったけど、それは写真の中のお父さんがしているポーズと、まるで一緒だった。
「……お母さんは?」
ふと、気になった。昨日真っ先にほすけが電話をかけたのはおばあさんで、今電話をかけてきたのはお父さん。じゃあ、お母さんは?
 でもすぐに聞いてしまったことを後悔した。不自然に感じるほど登場してこないんだ、そんなの、なにか理由があるに決まってるのに。
「…母親はねー」
ほすけが、ぼんやりと前方を見る。言葉を選んでるんだってすぐに分かった。持ってるタバコの灰が振り落とされないまま長くなるから、俺はますます聞いたことを後悔した。
「俺が子どもん時にはもういなくてさ。今どこで何してんのか知らない」
「……」
本当にただ知らないだけなのか、それとも、知りたくもないと続くはずだったのか。ほすけは笑いも怒りもしなかったから、分からなかった。
 ほすけが二本目のタバコの火を消してペットボトルの中に捨てる。それで「お待たせ、行こ」と言われたので、その話はそれでおしまいになった。

 夜ご飯はほすけの予想した通り生姜焼きで、ほすけはテーブルの上を見るなり「やったー」と言って喜んでいた。おばあさんが作った生姜焼きはもちろん美味しくて、ほすけが何回も空になった茶碗にごはんをよそい直すから、俺もつられて一回だけおかわりをした。給食以外でごはんをおかわりしたのは、それが生まれて初めてだ。
 食べ終わってみんなで一緒にテレビを観てる時(ちなみにNHKのニュースだった。どうやらチャンネル権はおばあさんの方が効力の強いやつを持ってるらしい)、おばあさんが「さてと」と言った。ほすけと俺を交互に見て、おばあさんは少しだけ言いづらそうに、続けた。
「…どうしようかね。明日の朝に、あんたが車で送ってくの?」
「…あー…」
ほすけもちょっと言いづらそうだった。頭の後ろをぽりぽりかいて、それから顎を手でさする。
「…どーしよっか」
チラッと俺を見て、ほすけが俺の答えを待つ。二択じゃない真面目な質問をされたのは、たぶんこれが初めてだ。
「……」
喉が詰まる。なんて答えたら一番良いのかはなんとなく分かってて、だけどそれは俺の望んでることじゃないから、上手に言葉になってくれない。
「…朝飯はここで食ってくでしょ?」
「……うん」
明日、朝ごはんを食べたら、俺はあの家へ戻る。当たり前だ、ずっとここに居させてもらうわけにはいかない。おばあさんが昨夜言った「誘拐」という言葉が頭をよぎって、心がすごく重たくなった。
 月曜日からは普通に学校も始まる。また、普通の毎日が始まる。どうしたってそっちに自分を戻さなきゃいけないんだ。そうしなきゃ、ほすけに迷惑をかけてしまう。
「たつひこ」
「……はい」
ほすけが俺の名前を呼んだ。こっち向いてと言われてるような気がして、ゆっくり顔を上げた。ほすけは、真面目な顔をしていた。
「帰りたくないって言ってたけど、もういーの?」
「……」
うん。うんって、言え。言わなきゃ。言えよ。知ってるだろ、もうやり方は分かってるだろ。本当の気持ちを飲み込むやり方を、俺はもうちゃんと知ってるだろ。
「……うん」
頷けた。しかも、ちょっとだけ笑うこともできた。よかった、よくやった。自分のことをえらいと思った。
「…そっか」
ほすけは短く答えて、数秒の沈黙の後おばあさんに「じゃー、そーゆーことなんで」と言った。
「…あの…ありがとう、ございました」
ほすけとおばあさんの二人に頭を下げたら、おばあさんが「いいよ」と言って笑った。安心してるような、だけどちょっと寂しそうにも見える、そんな顔だった。
「じゃー、一応俺から電話する」
「えっ」
ほすけの発言におばあさんはギョッとして「アンタが?」と続けた。ほすけは黙って頷いて、携帯電話をポケットから取り出して画面を見ながら「番号これだっけ」と呟いた。昨日おばあさんがあの家にかけた履歴が残ってて、履歴画面を俺に見せ「合ってる?」と言った。
「…うん」
「おっけー」
ほすけが発信のマークを親指で触る寸前「ちょっとやだ、大丈夫?」とおばあさんが不安そうに聞いたけど、ほすけは全然気にしてない様子で「うん」と頷くだけだった。
 ほすけが、電話を耳に当てる。その場から動かない。電話の向こうの呼び出し音を聞きながら俺を見る。聞いててと、言われている気がした。
 少ししてほすけが「あー」と言った。電話の向こうであの人が出たんだ。
「…稲田ですけど、えーと…たつひこ、あー、たつひこくん預かってて…はあ」
向こうであの人は、どんなことを言っているのか。ドキドキして全身に力が入った。ほすけは段々眉間に皺を寄せ始めて、電話を耳から離してからため息を吐いた。
 それで、携帯電話の画面の「スピーカー」というマークを触った。今度は無線子機のような持ち方に替えて、俺たちに電話の向こうの声も聞こえるようにしてから話を続けた。ビックリした。携帯電話にはこんな機能があるんだ。…知らなかった。
『申し訳ありません本当に…もう、何から何までお世話になってしまって…』
あの人の声だ。大人と話してる時専用の、あの人の話し方だった。
「…はあ。全然、いーですそれは」
『いえね、昨日は雨も降っていたでしょう?そんな中でずっと外にいたって聞いたものですから…風邪でも引いていないかって、心配で』
「はあ」
『彼、元気にしてますか?お熱は出てないかしら。ごめんなさいね、昨日はちょっと家の中のバタバタと重なってしまって…本当にご迷惑をかけてしまって』
「はあ」
『もうこういったことにならないよう気をつけます。ごめんなさいね。私も心配で…昨日はあんまり眠れなくて。ああでも良かった、悪い人に捕まったりしなくて本当に。稲田さんで良かったです、ありがとうございます』
「……はあ」
ほすけは素っ気ない返事しかしないのに、おばさんは構わずにペラペラと電話の向こうで話し続けていた。ごめんなさい、ありがとう、それらを何度も言い方を変えて、ほすけに伝えている。
「…で、あの、いーすか」
ほすけのぶっきらぼうにもとれる言い方に、おばさんが慌てて『はい、ごめんなさいね、どうぞ」と言う。ほすけがイライラしてるのが分かる。電話の向こうのおばさんにどこまで伝わっているのかは分からないけど、今目の前でほすけを見てる俺にはそれがよくわかった。ほすけは本当に、今にも舌打ちしそうだった。
「明日の朝、飯食って…あーじゃなくて朝食べてから車で送るんで。いーですか」
『あら、すみません明日の朝ごはんも?申し訳ないわ、でも本当に良いのかしら、こちらとしてはそれで問題はないのですけどね?ほら、今日もご馳走になってるわけでしょう?本当に申し訳ない…』
「はあ。じゃー明日の十時くらい行くんで。失礼します」
おばさんが最後にまた「ごめんなさいね」と言っていたが、ほすけは途中で赤いマークを押して無理やり電話を切った。それで切った途端、やっぱりずっと我慢していたのか大きな舌打ちを一つ、三秒後にまたもう一つこぼした。
「……なにこのババア」
ほすけの言葉に、おばあさんは立ち上がって思いきりその頭をはたいた。ほすけは「いて」と言ったけど、はたかれたことなんか全然構わないで更に「ウケんだけど」と、全然ウケてない顔で言った。
「もう、アンタは!無礼にもほどがあるんだよ!」
おばあさんが声を張り上げてほすけを怒る。だけどほすけも怒ってた。おばあさんにじゃなくて、多分おばさんに。
「超喋るじゃん、なにコイツ。途中から聞いてなかった俺」
「はぁ…もう…もう…黙んなさいホントに…」
おばあさんが深く項垂れている。ほすけは携帯電話をテーブルに置いて「タバコ」と言った後、面倒くさそうに台所へ行ってしまった。
「…はあ…もう本っ当…はぁ…」
おばあさんになんと声をかけていいか分からなくて、俺は一人慌てていた。どうしよう、ほすけも多分いまイライラしてるから、目配せもできない。
「…ごめんねたつひこくん」
おばあさんが長い溜息のあと、申し訳なさそうに俺に言った。
「…いえ、あの…全然…」
「あの子ね、本当にああなのよ。もうね…言っていいことと悪いことの区別が付かないっていうか…」
「……」
そんなことない。…絶対、そんなことない。
 ほすけは、すごく見てる。黙って見てる。見てるよって言わないのに見ていて、それで、なんにも考えてないって顔をしながら考えてて、言葉を選んでて、こっちの言葉を待ってもくれる。
 俺は、ほすけみたいな大人に出会ったことがない。おばあさんがここまで項垂れる理由がちっとも分からなかった。イライラを全然隠さない態度と舌打ちの音の大きさにはそりゃ、ビックリしたけど。…でも俺、全部、スカッとした。本当に、本当だ。
「…たつひこくんに、自分を重ねてんのかねえ…」
換気扇の下にいるほすけには絶対に聞こえない小ささで、おばあさんはポツリと言った。
「ごめんね、こっちの話。はあ…明日大丈夫かねほんと…」
おばあさんの不安をよそに、ほすけが炭酸のペットボトルを冷蔵庫から取り出して豪快に飲んでいた。
 明日なんか来なくていいのに。もし俺がそう言ってたらほすけは、なんて言ってくれるんだろう。

 今になって想像できるのは「なんで言わねんだよ」って笑って俺の頭を乱暴に撫でる穂輔の姿だ。でもあの頃の俺たちはまだ微妙な距離があったから、どうだろ、ちょっと違ったかもね。













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