犬と盆暗




「児島、悪ぃがちょっとツラ貸せ」
ある日の夜、会長サン直々に呼び出された。俺は奥の大広間に続く廊下を少し緊張しながら進んだ。会長サンがえらく真剣な様子だったからだ。
 ここ最近の自分の行いを振り返りながら、呼び出される理由は何かあったかと思い返す。…いや、ない筈だ。面倒ごとや不始末を散らかした覚えはない。
「…失礼しやす」
大広間に到着し、ゆっくりと襖を開ける。中には兄貴がいた。俺に気付くなり「おう」と呟いて、自分の隣に目配せする。
「…へ、へい」
兄貴の隣で正座をして、握り拳を二つ揃え膝の上に並べた。俺と兄貴の向かい、会長サンが胡坐をかく。腕組みをしながら「さて」と呟かれた瞬間、俺の全身に力が入った。
「まあそう固くなるな児島。すぐ終わる」
会長サンがいつものようにカカカと笑って「なあ風間」と兄貴に同意を求めた。だけど兄貴は頷かない。黙って目を伏せるだけだ。
「あのな児島。どうやら俺のシマん中のどっかに、横田が居るらしい」
「……」
会長サンの言葉に息を呑んだ。廊下を歩いている時、もしかしたらと思っていた。そうじゃなきゃいいなって。何か聞かれるとしたら、だってテメェのこと以外に思いつかない。
「まだ正確な居場所を突き止めた訳じゃねえがな。興誠会の奴ら相当必死だ。血の滲むような思いでやっとここまで漕ぎ着けたんだろう」
「…そう、だったんですかい」
耳の奥の方で小さく、キーンという音がした。それはただの耳鳴りだったんだろう、だけど俺には警告音のように聞こえた。
「興誠会の残党が何人いるか知ってるか?児島」
「…いや…」
首を横に振ると、会長サンは片手を親指と小指以外広げて俺の前に差し出した。
「三人。たった三人だ。たったそれだけの人数で奴の居所をここまで突き止めた。大変だっただろうよ。よっぽど奴に戻ってきてほしいらしい」
「……」
弁当屋のおばちゃんが言っていたことをその時ふと思い出した。ああそうか、おばちゃんが見た黒塗りの車ってのはきっと、横田の居場所を探してる興誠会の奴らのものだったのだ。
 どうして気付けなかった。疑おうともしなかったんだ。
「そいつら、俺の所にまで頭を下げに来やがってよ。見つけたら教えてください後生ですから、礼の品なんぞ用意できねえ何しろウチはもうボロボロだからそれでもどうかって、何度も頭を下げやがる」
会長サンが電話で話していた相手。それもきっと興誠会の連中だったのだろう。新しく仕入れた横田の情報はないかと、何度も何度も会長サン宛に恐らく電話が入っていたのだ。
「泣かせるじゃねえか。我ながら他の組に手ぇ貸してやるなんざ賢いとは思えねえがよ、それでも俺たちにだって、人情ってもんがあるだろ」
そこまで言うと会長サンは一区切りつけるように溜息を吐いた。数秒の間を置いてから、決意を込めて会長サンは続ける。
「ここは一つ、手ぇ貸してやろうじゃねえか。ウチの何人かにも奴を探すよう頼んだ」
会長サンは膝を一度叩き、そう俺に宣言をした。
「横田の事情は知らねえが、残された連中の泣き顔見てたら放っておけねえ。どんな思いで余所の門叩いて、頭下げたのかって考えたらよ」
「……」
横田の意思とは関係ないところで話が勝手に進んでいく。そんな気がして、胸がザワザワとした。けれど俺は同時に気付くのだ。そもそも俺は横田の意思など、欠片も知らない。
「…児島よ。この話を今日までおめえさんにしなかったのは風間の意思だ。おめえさんには言うなと、この男から頼まれててな」
「…なんで…」
兄貴に目を向ける。伏せていた目を真っ直ぐ正して、兄貴も同じように俺を見つめた。
「…お前は一切関わるな、児島」
「……」
ああ、そうか。全ては兄貴が手を回してくれていたのだ。だから会長サンは俺の前では電話を切った。だから兄貴は一度だけ俺に探りを入れた。俺が興誠会の連中と関わらないように、他所の面倒ごとに首を突っ込まねえように。俺がまた、馬鹿な真似をしねえようにと。
「…兄貴」
なあ兄貴、ごめんな。俺はきっと兄貴が思うより何倍も馬鹿な真似をしている。自分でも頭がおかしいのかと思ってる。
 だけど俺は今、兄貴とは全く別のことを考えている。…なあ横田。テメェの意思は誰からも無視されて、好き勝手周りの言い分や都合に振り回されて、テメェはまるで野良犬のようにいくつもの地獄を渡り歩いた。
 テメェの人生は、退くも進むも地獄。…なあ、それが嫌で逃げたんじゃねえのか?そんなの本当はもうやめたくて、だから逃げてるんじゃねえのか?
「もし横田のことで何か分かっても単独で動くな。わかったな」
「……」
すぐに頷かない俺に何かを思ったのか、会長サンが「児島」と、少し低い声で俺を呼んだ。
「おめえさん、横田の居場所を知ってるなんてことはねえよな?」
「……」
冷や汗が背中を伝った。だって俺はしらばっくれるのが本当に苦手だから。
 …兄貴、会長サン、本当にごめんなさい。
 だけどそれでも俺は、今からあんたらに嘘を吐くよ。
「…分からねえ。役立たずで……申し訳ねえ」
項垂れると会長サンが「何言ってやがる、謝るな」と笑いながら言った。俺は俯いたまま、今の自分のセリフに自分で驚いていた。
 今まで生きてきた中できっと一番だった。一番上手に、嘘を吐いた。
 話が終わり、会長サンが一足先に部屋を後にする。残された兄貴と俺はしばらく互いに黙ったままだったが、先に沈黙を破ったのは兄貴だった。
「児島。お前は利口な方じゃねえが、言っても分からねえ馬鹿でもねえ」
「…はは。なんだよ兄貴、急に」
兄貴は多くを語らない。言葉で分からせようともしない。だってアンタをずっと見てきたんだそれくらい知ってるよ。
 ドスのように鋭い目。本当に大事なことを言う時、アンタは一度だって目を反らさないんだ。
「関わるな。お前が敵う相手じゃねえ」
「……」
やだなぁ兄貴。なんて顔してんだよ大丈夫だよ下手に首突っ込んだりしねえからさ。頭の中でセリフを唱えるのに、どうしてだ、一つも口の外へ滑り落ちてはくれない。
 やっとの思いで「へい」と返事をしたが、その声がやけに歪だったから自分が嫌になる。
 馬鹿野郎。誰より一番嘘がバレちゃいけねえ相手だっていうのに。もう少し上手くやれよ、さっきはできただろうが。
 畳の目をじっと見ながら思う。兄貴に嘘を吐く日が来るなんて思ってもなかった。それもまさかテメェが絡んだ事柄でよ。
 一月前の自分に言ったってどうせ信じない。いいかよく聞け、一ヶ月後テメェの頭ん中はあのボンクラ野郎のことでいっぱいになってるぜ。冗談だろって?そうだな、俺も冗談にできたらいくらかマシだと思ってる。笑えねえよな。…もう、笑えねえ。

 その後、客間で酒盛りが行われた。良い酒がたんまり入ったからと会長サンは笑いながらどんどん栓を開け、自分の周り左右前後に集めた幹部らと共に次から次へと酒瓶を空にしていく。
 その会がお開きになる頃、俺は部屋からこっそりと抜け出した。会長サンはよっぽど酒が口に合ったのか終始上機嫌だ。兄貴も会長サンの隣について結構飲んだようだったから、俺が本邸を抜け出そうとしたことに二人とも気付いてはいなかった。
 酒盛りには参加していなかった面子と玄関付近ですれ違い、少し不思議な顔をされる。その若僧はまだ入門したてのひよっこで、いつも電話番をしながら雑用をこなしている奴だった。
 ちなみにコイツは歳が近いので俺のことを「児島くん」と呼ぶ。他にも同世代は何人かいるが、くん付けにするのは俺だけなので何か理由があるのかと聞いたことがあったが…その時のコイツの答えには若干面食らった。
「だって児島くん、下っ端顔じゃないっすか!」
明るい調子で、そう言われた。そう、説明しなくても分かると思うがかなりの無礼者である。
「児島くん、こんな時間に出かけるんすか?」
「おう、あー…まあ」
うまい言い訳が出てこず曖昧な返しをすると、若僧はニヤニヤしながら小指を立ててきた。
「コレっすね児島くん」
「はっ、はぁ
動揺して自分の顔が赤くなったのが分かる。くそったれ、なんでこんなひよっこ相手にこんな動揺させられなきゃならなえ。くそ、他に言い訳も思いつかないからもういいや。乗っかってしまうことにした。
「そっ…そうだよ!」
「児島くんの女ってどんな人なんすか、すげえ気になるっす」
若僧がますますにやつく。ちくしょううるせえ。生まれてこのかた女と付き合ったことなんかねえやい。
「どっちからいったんすか、超気になる」
「っち…うるせえ!んなことより会長サンらに言うなよじゃあな!」
「ひひ、楽しんできてください児島くん」
若僧は握った拳の人差し指と中指の間に親指を差し入れて俺を見送った。舌打ちで返事をしながら不思議に思う。なんだよ、その変な拳の握り方。

 二駅分電車に揺られて、見慣れた町に着く。駅を出てから俺はずっと駆け足だった。何から聞けばいい。どこから話せばいい。とにかくテメェが誰かに見つかってしまう前に、俺はテメェに聞きたいことがある。
 数時間前も通った路地を曲がって数十メートル。その先に横田のアパートがある。夜の暗闇に佇むアパートはいつもよりずっと小さく、そして頼りなく見えた。
 階段を急いで駆け上がり、手前から二番目のドアを叩いた。叩きながら息を整えていると内側から鍵の開く音がして、いつものようにかったるそうなテメェの顔が覗いた。
「…何してんだお前」
横田からしてみりゃそりゃあ理解し難いだろう。俺だってどうかしてると思う。こんな夜中に突然息切らしてやって来たんだから。
「なんだよ、布団でも干しに来たか?」
横田が少しだけ笑ってそう言った。いつの間にテメェは、そんなに自然に笑うようになったんだろう。
 息をゆっくり整えながら、俺は一番聞きたかったことを言葉にした。
「…テメェはどうしたいのか、聞きに来た」
「あ?」
「興誠会の残党がテメェを血眼んなって探してる。このへん一帯に居るってことまで、もう突き止めてる」
「……」
俺の言葉に溜息を一つ吐くだけで、横田は特に驚きもしない。もしかしたら居場所をある程度突き止められていると、既に知っていたのかもしれない。
「だから?」
面倒臭そうに頭をかく横田をじっと見上げた。なあ、俺は知りたい。テメェが何を考えているのか。何を望んでいるのか。
「テメェを本気で必要としてる奴がいる。テメェは…どうしたいんだよ。このままずっと隠れて、相手が諦めてくれんのを待つつもりか?」
俺の言葉に横田は俯き「頭ん中にクソでも詰めてんのかよ」と、何故か小さく笑って、それからゆっくり頷いた。
「まあ、そうだな」
「……」
鈍った黄色がそっぽを向く。なあ、それは本当にテメェの望んだ未来なのか。誰かには心底求められ、そして違う誰かにはきっと怨みだって抱かれたまんま。それでもそれらをかわし続けて、隠れるようにして、一人生きてくつもりか。
「…テメェが、本気でこの生活を望んでるんなら…俺は何も言えねえ」
足元に視線が落っこちた。なあ俺は、テメェの一番奥にある、本当の気持ちを知りたい。
「だけどそしたら…テメェはこれから先もずっと一人じゃねえか」
「…はあ?」
「熱出しても誰も駆けつけに来ねえ。一緒に飯を食う相手もいねえ。味噌汁作ったって、それを旨いって言う誰かもいなくて…そんなの…虚しくねえのかよ?」
「……」
言いながら俺は気づいた。ああ、虚しいのは俺だ。一人きりで生きてるテメェを見ていることが、俺は我慢ならねえんだ。誰かが傍らにいてほしいと思ってしまう。差し出した手をいつでも握れる距離に、誰かがいてほしいと願ってしまう。
 だって俺は嫌と言うほど味わったから。日の当たらない路地裏、ゴミを漁る野良犬みたいな日々の中、誰にも知られず生きる惨めさと寂しさを、知ってるから。
「…クソみてえな冗談だな。それとも本気で言ってんのか?」
横田の乾いた笑い声がして、俺は目線を持ち上げる。俺を半殺しにしたあの時と同じ、鉛玉みたいに暗く光るテメェの目が俺を見下ろしていた。
「虚しい?そんな大層な感情持ち合わせてる訳ねえだろ。俺たちゃ人の形したただの畜生だ」
「…横田」
なあ、俺もそう思ってたよ。だけど違う。違うんだよ、そんな訳ないんだ。兄貴に手を差し伸べられたあの時、初めて知ったことが俺は沢山ある。一人のままじゃ知らなかったことがさ、沢山あるんだよ。
「俺は…兄貴に見つけてもらうまでずっと、寂しかったよ」
「そうか。興味ねえ」
「自分が寂しいって思ってることすら知らなかった。…テメェも、そうなんじゃねえのか」
「……」
「本当はこんなの、今すぐ辞めてえんじゃねえのか。誰かがこっから引きずり出してくれんの、待ってんじゃねえのか?」
言えよ、なあ。俺は聞くよ。笑ったりもしねえ。全部ちゃんと聞くからさ。俺は心の中で何度も横田の肩を揺すった。テメェが心の内を欠片でも見せてくれるんじゃねえかと、それだけを期待しながら。
「…じゃあなんだ?俺がいま仮によ、寂しいとでも言ったら」
横田はかったるそうにドアに寄りかかり、俺をじっと見下ろした。
「お前がこっから引き摺り出してくれんのか?」
「……」
なんで、そんなこと聞くんだ。だってそんなの最初から答えが決まっている。決まっているのになんでわざわざ聞くんだよ…そんなこと、聞くなよ馬鹿野郎。
「…俺は…兄貴に、死ぬまでついて行くって決めてる」
俺がそう言うと横田は鼻で笑ってから、まるで糸を切るみたいに、瞼を閉じた。
「…そりゃ、結構なことだな」
「……なあ、横田」
「さっきから聞いてりゃ…なんのつもりだよ?ちょっと世話でも焼いてやったら情でも湧いたか?可哀想にって?」
「ち、違え!そんなこと思ってね」
「優しくしてやってる自分に酔ってんだろ?あ?暇潰しにはもってこいのゴミにでも見えたか、俺が」
「そんなんじゃねえよ!そんな訳ねえだろ!なんで」
ああ、まただ。また俺の言葉を待たずにそうやって締め出そうとする。慌てて食い下がろうとしたが、だめだった。もう一度開かれたテメェの目は、薄暗い光を放つだけだ。
「うるせえ口だな…やっぱりあの時トドメ刺しときゃ良かったか」
顎を力任せに右手で掴まれ、空いている方の手で突然、思い切り腹を殴られた。
 咄嗟のことで体を支えられず俺はその場に尻もちをつく。殴られた腹が熱い。見上げると横田が、まるでゴミでも見るような目で俺を見下ろしていた。
「汚え犬に纏わり付かれてよ、いい迷惑だよこっちは」
横田は更に俺の腹を蹴り、何度も踏みつけた。衝撃が走る度に俺の喉からは呻き声が上がって、何発目かでいよいよヨダレが口の端から垂れた。
「勝手に人を自分と重ねやがってよ。反吐が出んだよ、ああ?今その顔面に全部ぶっかけてやろうかあっ?」
横田の蹴りが何度も何度も腹に入る。胃液の味が口の中に広がる。吐き気がする。
「っおぇっ……」
「一丁前に畜生ごときが、調子乗ってんじゃねえぞコラァッ」
…吐き気が、すんだよ。クソッタレが。
「…怖えんだろ、腰抜け野郎」
「……あ…?」
「そうやって吠えて、虚勢張るしかねえんだろテメェ」
「……」
「本当は今にも小便ちびりそうなんじゃねえのかよ、あぁ?…どうなんだよクソ野郎が」
いつもテメェがそうするように、俺もテメェを笑った。みっともねえ、馬鹿でどうしようもねえ、救いようがねえよ本当に。
 俺たちは同じだ。吠えて唸って、誰かに噛み付いては路地裏に逃げ込むような、そんなことしかできないような捨て犬だった。野良犬だった。
 あの時の自分とおんなじ目ぇして、ひとりぼっちで、隠れるようにして生きててさ。
 …ほっとけなかったんだ。ほっとけなかったよ、横田。
 また数発、今度はさっきより重たい衝撃が腹全体を襲った。
「げっ、げほっ…ぉえっ…」
「……俺が野垂れ死のうがどうなろうが、お前にゃ関係ねえだろうが」
横田の足が腹から退けられる。胃液の混じった涎が口から溢れて、玄関前の通路が汚れていく。
「…二度とそのツラ見せに来んじゃねえ」
「……ぇ、ぉえっ…」
「風間に慰めてもらえよ。股でも開きながらよ」
その言葉を最後に横田はドアを閉めた。俺はうずくまったまま動けない。しこたま腹を蹴られたせいで、ヨダレと胃液が止めどなく湧いてくる。
「……クソが…」
また締め出された。いつもこうだ。テメェに届かない言葉がいくつも周りに散らばって、そのままゴミになってしまう。
 なんでだ。どうして。涙が出るほど痛いのに、怒りより先に湧き上がるのは侘しさばっかでよ。
 …クソッタレ。視界が滲んだ。




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