犬と盆暗




 翌朝、蹴られた腹をさすりながら俺は布団から起き上がった。さするとまだズキズキと奥が痛む。あのクソ野郎、本気で蹴りつけやがって。
 朝刊をポストから抜き取って会長サンのいる奥の部屋まで運ぶ。扉をノックして「失礼しやす」と言うと、中から「おう、児島か」と会長サンの声が聞こえた。
「ときに児島よ。おめえさん昨日はどこ行ってた」
「へっ」
部屋に入って第一声、会長サンがそんなことを尋ねてくるので俺の心臓は跳ね上がった。もしかしたら全てバレちまってるんじゃねえかと思い、一瞬息が止まる。
 しかしそれは要らぬ心配だった。会長サンはやけにニヤついて「いいねえ若者は」とどこか嬉しそうに言うのだ。
「へ、あの…」
「心配してたんだ実は。おめえさんは本っ当にいつも、口を開きゃあ風間風間でよ。俺ぁてっきり、おめえさんが風間の乳でも吸ってんじゃねえかと」
「あ、あっ、兄貴の乳
何を言い出すのかと思えば、会長サンはそんな冗談を言ってカカカと笑う。それにしても一体どうして会長サンはこんなに嬉しそうに笑っているのか、よくわからない。
「でも良かった。ようやっと、一丁前に惚れた腫れたやってるってことだろ。風間も子を持つ親の心境だろうなあ」
「……」
さては。電話番をしていた若僧のことを瞬時に思い出す。…あんの野郎、会長サンに何か言いやがったな。
「多少はいいが、浮かれ過ぎて羽目外すんじゃねえぞ」
朝刊を受け取った会長サンは片眉を上げて俺をチラと見た。…大丈夫だ。横田へ会いに行っていたことはきっとバレていない。
「へへ、まいったな。会長サンはなんでもお見通しだ」
また上手に嘘を吐けた気がして、少し気が滅入った。

 アロハシャツを羽織りサングラスをかけて、靴を履く。俺はテメェの言う通り馬鹿で愚図で、そのくせ諦めも悪い。だから今日もこれからテメェの所へ行こうとしている。
 もしもあれで話が終わったとでも思ってんならそんなの冗談じゃねえ、俺は認めねえからな。まずは蹴った回数分テメェにゃ土下座してもらう。それから今度こそ質問にきっちり答えてもらう。昨日はテメェ、答えねえまま逃げやがっただろ。
 笑えばいい、馬鹿は救いようがねえなって。俺もいっそ笑いてえよ最悪だぜ。
「…へ」
おかしいよな。だって今更さ、あの日テメェが呟いた言葉を思い出しちまった。
 テメェのことを初めて町で見かけたあの日。
 高熱に浮かされて、真っ赤な顔して、苦しそうに息をする、駆けつける誰かだって居やしねえ、たった一人でうなされ続ける横田。
 火の点いてない煙草を咥えながら、俺は部屋を後にしようとする。苛立ちながら最後にテメェを振り返る。六畳一間のボロアパート、万年床の他には何もねえ部屋の隅っこ。
 …一度は聞こえないフリしてやるつもりだったんだけどよ、やっぱりそんなの癪だから、死ぬまで覚えててやることにした。
「死にたくねえ」
 目を閉じたら、テメェの声が蘇った。他の誰にも届きゃしねえだろう。だけど俺だけにはちゃんと、届いてたよ。届いてたからさ。
 …なあ横田。あの時から全部始まってた気がする。俺がこうすることもきっと全部、決まってたんだ。
 ほっとけない。見限れない。テメェを一人にはできない。
 絶対に、させない。

「どこ行くんだ児島」
靴を履き引き戸に手をかけたところで後ろから俺を呼び止める声がした。ああまるで、背中に刃を向けられてるみてえだよ…なあ、兄貴。
 振り返り明るく笑った。これから嘘を吐くという罪悪感は自分の笑い声で蹴散らす。
「へへ、あのさ兄貴!前に頼まれてた仕事、実はまだ一つ片付けてなくて」
俺の言葉に兄貴は訝しげな顔をした。俺は構わずに続ける。
「自分の部屋の掃除でさァ。そろそろどうにかしねえと、大家さんに怒られちまう」
「…そうか」
「ピカピカにしてくるからさ、待っててくれよ兄貴!」
引き戸にもう一度手をかけ、ことさら大きく笑った。兄貴の刃の切っ先が胸に触れて、さっき蹴散らした筈の罪悪感がまた顔を出す。
「…児島」
「へい!」
「……テメエを信じる」
…ああ、まいるなあ。本当に大事なことを言う時どうしてアンタは、やっぱり目を逸らしてくれねえんだろう。
「何かあったら戻ってこい。待ってる」
背中を追いかけることは好きなくせに、背中を見送られるのがこんなにも重たいなんて、知らなかった。
「…へへ、行ってきやす!」
だけど俺は駆け出した。兄貴のことを一度も振り返らずに走った。
 兄貴、ごめんな。信じてくれてありがとう。いつまで経っても相変わらず馬鹿でよ。…ごめんな。

 電車から降りて町へ駆け出す。階段を駆け上がって乱暴に扉を叩けば、きっとまたテメェの面倒臭そうな顔が隙間から覗くんだろう。今度はもう間違えない。締め出される前に、テメェの胸ぐらを掴んでやる。
 走っている途中、すれ違いざまに「あれぇ児島くんかえ。涼しくなってきたねえ」と声をかけられた。それはずっと前、セミの抜け殻を見つめる俺に笑いかけた婆さんだった。
「どうしたの、そんなに急いで」
「いや、はぁ…はは。ちょっと…はぁ…野暮用で…」
「そうかえ。さっきな?そこで騒ぎがあったみたいで。それとは違う用事かえ」
「…え」
婆さんは細い目を少しだけ開いて「本当にすぐそこよ」と、後方を指差した。婆さんが指差すその先には横田のアパートがある。
「…はぁ…騒ぎって……」
「いや私にもよう分からんのだけど。人づてに聞いただけでよ?三十分くらい前に黒塗りの車が通って、なんだろなあ、大きな音がしたらしくてよ?」
「……」
婆さんに別れ際の挨拶もせず俺はまた駆け出した。「もう誰もいないよぉ」と言う婆さんの声が聞こえたが、俺はそのまま振り返らずに走った。
 違う。きっとテメェと関係ねぇ騒ぎだ、そうだろ、そうであってくれ。祈りながら路地を曲がり、いつもと変わらないボロアパートの二階を見上げた。
 階段を駆け上がる。手前から二番目の扉を乱暴に叩く。しばらくしたら鍵の開く音がしてテメェが隙間からきっと顔を覗かせる。うるせえクソ犬って、しかめっ面で俺を睨むんだ。
 だけどいくら待っても中から鍵の開く音はしない。何度扉を叩いても、テメェの「うるせえ」という野次が飛んでこない。
 恐る恐るドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。薄っぺらいドアが軋んだ音を立てて開かれる。
「…横田?」
万年床以外には何もねえ六畳一間、見渡す必要もねえのに俺は左右に視線を動かして横田の姿を探した。だけど、返事はない。
 靴を脱いで中に上がろうとした瞬間気づいて血の気が引いた。…なんでだ、奥の壁と畳に血の跡が、何箇所も飛び散っている。
「…なんで…」
心臓がバクバクと音を立てた。なんでだ。どうして。訳が分からないまま奥へ進むと、畳に二発、銃弾で撃たれた跡も見つけた。
「……横田…?」
そんな、嘘だ、違うよな、違うだろ。だって興誠会の連中がもしここを突き止めたってんなら、戻ってきてほしい筈のテメェに銃を向けるわけがねえ。
「……」
 そう、そうだよ。テメェを必要としてて、今日までずっとテメェを探してて、他人に頭下げてまでテメェの居場所を知りたがった。なのにテメェが撃たれる筈がねえ。なあそうだよな?そうだろ?
「……横田」
なあ、俺は馬鹿だから分からねえ。テメェは今どこにいる。この血の跡はなんだ。これは誰が誰に向けて撃った弾だ。なあ今すぐここに来て全部説明しろよ。
 気付いたら手が、両方とも震えていた。一刻を争う事態だってことはなんとなく分かるのに、頭の中が散らかって、何一つ考えがまとまらない。
「……」
最悪の展開を思い描いて、それから乱暴にかぶりを振った。違う。違うに決まってる。
 部屋をもう一度見渡した。台所の洗い物置き場には、昨日横田の使ったお碗と俺の使った茶碗、それから小鍋が綺麗に重ねられていた。テメェと並んで弁当と味噌汁を食ったことが、まるで遠い昔のことのように感じる。
 なあ、一体どんな顔して洗い物なんかするんだよテメェ。小さい台所に立って、背中丸めてスポンジに泡を立てんのか。想像したら本当に笑えるぜ、その顔で綺麗好きなんて、んなこと言って誰が信じると思う?
 炭酸をちょっとこぼしただけで血相変えてよ、本気で怒鳴り散らしやがって。何が「擦るんじゃねえ叩くんだよ」だ、知らねえよ。布団干してやっても礼の一言もねえ、挙げ句の果てにゃ「ここ来たら毎回干せ」だと。誰がそんな面倒くせえことやるか馬鹿。
「……」
そう、そんな面倒くせえこと、やる訳がない。やたらしつこく念を押してきたのだってきっと、大した意味なんかない。
 敷かれたままの万年床を見下ろす。俺が炭酸をこぼしたせいでできたシミが、まだ薄っすら残っている。
 横田の言葉を思い出しながら、まさかな、と俺は思う。敷布団の端を両手で掴み、畳から引き剥がした。
 敷布団と畳の間に、小さいメモ紙が隠されていた。縋り付くようにそれを手に取る。書かれている文字を目で追いかけて、そうして俺は言葉を失くした。
『迎えが来た ドアの向こうにいる たぶんやられる 俺を追うなクソ犬』
「……」
 最悪の展開はそのまま、事実になってしまった。点と点が一つの線でつながっていく。
 興誠会の連中は横田を必要としてた訳じゃない。殺したくて、どうしても殺してやりたくて、だからずっと探していた。涙を誘う方便でも添えりゃ周りが手を貸してくれやすいときっと考えたんだろう。その手口は正解だった。だってまんまと会長サンは騙されていた。
 テメェは全て知っていた。テメェは命を狙われていた。明日見つかって殺されるかもしれない毎日を、一人でずっと送ってた。
 俺にそれを言わなかったのは、言えば俺が首を突っ込んでくると思ったからだ。昨日俺を何度も蹴ったのは、俺に見限ってもらうためだったのだ。
「……クソは…テメェだろうが…」
昨日の夜、きっともう猶予はないと悟った。だからテメェは最後に俺を全力で締め出したんだ。ご丁寧にこんな置き手紙まで残してさ、一人っきりで終わらせるつもりなんだろ、最後に格好つける気なんだろ。なあ、横田。
「……ナメてんじゃねえぞコラ…」
メモを持つ手が、また震える。テメェ馬鹿にすんのも大概にしとけよボンクラ野郎。こんなんで俺が引き下がるとでも思ったか?冗談じゃねえよ、甘えんだよ馬鹿。
 無様な死に損ないの紛れもねえ、どうしようもねえ命。それだけでいい、その一つだけでいいからよ、しっかり握って守っとけ。テメェが伸ばしかけた手は俺がちゃんと、掴んでやるから。
 待ってろ、今から迎えに行く。





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