犬と盆暗




 その日は見回りに行く曜日だった。会長サンと兄貴は出払っていたので電話番をしていた若僧に出かける旨を伝え、少し重たい足取りで本邸を出る。重たい理由は…認めたくねえが、奴だ。見回りのついでに横田の部屋へ寄るか寄らないかで、ずっと迷っている。
 顔を見に行く理由があればいいのにと思った。だけど今日はない。本当に、一つだってない。
 また天の神様の言うことにでも従ってみようか。けれど試そうとして、やっぱりやめた。もし「行かない」の方に止まったら?その後俺は何を思う?他に何か方法はねえかって、考えちまうんじゃねえのか?
「…馬鹿か、俺ぁ」
一人こぼしたセリフがセミの声にかき消される。…いいよ、もう。おかしいだろ好きなだけ笑えよ。俺はもう長いことずっと、テメェのことばっかり考えてる。今世紀最大の冗談みてぇな話だ。笑えよ。
 「馬鹿犬」って、頭の中でテメェの声がしやがるから、俺は初めて「そうかもな」と頷いて、呆れるように笑った。

 電車に数駅分揺られ、いつもの見慣れた駅に着く。まずは最初に用心棒をしている二店舗周辺の見回りと、それから少し足を伸ばして、めし処や飲み屋が連なる商店街も。
 町は今日も平和だった。昼間はあまり思わないが、夕暮れ時を過ぎるとどうしてか夏がもうすぐ終わるような気配がする。豆腐屋のラッパの音が遠くで聞こえて、無性に侘しい気持ちになった。
「あら、児島くんじゃないの」
ふと声をかけられ目線を上げると、弁当屋のおばちゃんが気の良さそうな顔をして俺に笑いかけていた。そういえばちょっと前、ここで何度か弁当を買ったことがある。その時に会の名前と自分のことを少しだけ、世間話の延長で話した気がする。
「おう、元気かい」
サングラスを額の上に押し上げ笑うと、おばちゃんも「元気だよぉ」と笑った。
「こないだまで夏バテしてたんだけど、最近涼しくなってきたでしょ。だからすっかり食欲も戻っちゃってね。やだわぁ」
「なんでぇ、健康ってことじゃねえか」
「そうも言ってらんないわ、ほら、食べるくせに動かないから私」
「あはは」
ショーケース越しにそんな雑談をしていると、おばちゃんが途中で何かを思い出したように「あ、そうだそうだ」と言った。
「今日ね〜ちょっと弁当余っちゃってて。良かったら持ってく?」
おばちゃんは言いながら会計皿を端に寄せ、弁当を二つほど並べた。
「…いいのかい」
「いいよいいよ。今日もお勤めでしょ?お疲れ様の気持ちも込めてさ」
「……」
俺は並んだ二つの弁当を見つめる。から揚げ弁当と魚フライ弁当。どっちも旨いのだ、何度も食ったから知っている。
「…本当にいいのかい」
「いいよ。あ、お弁当二つも要らない?一つにしとく?」
「…いや、もらうよ。二つもらう」
弁当と割り箸が入った袋を受け取り「ありがとう」と伝えると、おばちゃんがまた思い出したように「うちであっためてってあげようか?」と俺に尋ねた。
「今日ほら、珍しく車で来てんでしょ?帰ってすぐ開けるんだったらさ、あったかいうちに食べられるんじゃない?」
「いや?俺は今日も電車で来てるよ」
俺の言葉におばちゃんは「あれ?」と言って少し首を傾げてみせた。
「なんだ、さっき見た車てっきり児島くんかと思っちゃったわ。やたら大きい黒塗りの車でさ。児島くんもなんだか偉くなっちゃったのねえって思ってたんだけど」
おばちゃんが顔をほころばせながら「でもやっぱり違ったのね。そりゃそうだよねえ」と付け加えるので、なんだか複雑な気持ちになる。
「…おう、今のはどういう意味だい」
「あはは。そのままの児島くんでいてほしいってことよ」
「……」
少し腑に落ちなくて「ちぇ」とこぼしたが、最後にとびきり明るい顔で「また寄ってってよ」と言われ、それ以上は何も言えなくなってしまった。やっぱり俺はもっと箔をつけるべきだ。それこそ睨み一つで相手を怯ませられるような、凄みと迫力が必要である。
 弁当は結局、店で温めてもらうことにした。あの部屋にゃ確かレンジなんてなかったから。

 弁当屋の茶色い袋をぶら下げて、夕焼けに背を向け歩く。この道を歩くのはこれでもう何度目だろう。…何度目か分からなくなるくらいテメェの顔を見に行ってるなんてな。やっぱりそんなの、何かの冗談みてえだ。
 会いに行く理由を今日もこさえてしまったのだからと溜息を吐く自分の他にもう一人、別の自分がいる。もう誤魔化しが効かなくなってきちまったじゃねえかクソッタレ。
 確かにいるんだよ、もう一人さ。何してんのかなって、会いに行ったらどんな顔すんのかなって、会いに行ってやろうかなって、理由がなくてもぼんやり考える俺が、俺の中のどっかにいるんだ。…まいるなあ。もう暑さのせいにできるほど、夏が、真っ只中じゃねえや。

 錆だらけのボロい階段を登って、手前から二つ目、表札のない扉の前で立ち止まる。
 扉が開かれる時、奴はどんな反応をするだろう。目が合った瞬間に「帰れ」と言われるかもしれない。いやもしかしたら、そんな一言だってないまま締め出される可能性も。そうだったらどうするかな。…そうだったら、やだな。
 ノックの一つもできないまま突っ立っていると、扉の向こうから鍵の開く音がした。
「……」
隙間から横田が顔を覗かせる。言葉がないまま目が合う。黙って俺を見つめる横田はいつもと同じかったるそうな顔をしていたが、それでも少し、表情の中に驚きが混ざっているように見えた。
「……」
待てよ。まだ締め出すな。俺を追い返すな。短気なテメェの為に今、言葉を捻り出そうとしてんだから。今日はちゃんと聞けよクソ野郎。
「…弁当」
「…あ?」
「弁当食うかと思って。から揚げと魚フライどっちか選べや」
袋を見せてそう言うと、盛大な溜息を吐かれた。ウンザリした様子で横田は俯いて、片手で顔を抑えてみせる。
 だけど今、見えた。俯く手前、一瞬だけテメェの目尻に皺が寄ったのを。
「…お前はどっち食いてえんだよクソ犬」
「あ?…え、えーと、から揚げ」
「じゃあ俺がから揚げで、お前がフライな」
顔を上げた横田がニヤリと意地の悪い顔で笑って扉を大きく開く。俺は「あぁ」とメンチを切って、だけど内心、ホッとした。
 …なんだ、良かった。また笑った顔が見れた。……いや、やっぱナシ。今のはなかったことにしてくれ。
 靴を脱いで部屋に上がると何だか出汁の効いた良い匂いがした。台所に目を向けると、小さな一口コンロの上に小鍋が置いてあり、そこから湯気が昇っている。横田は流し場近くに重ねられた食器の中からお椀を出すと、片手で器用に鍋の中身を注いだ。
「テメェもいるなら自分で注げ」
「…え」
「味噌汁だよ、この辺の器適当に使え」
そう言うと横田はいつものように窓際の壁に背を預け、胡坐をかきながら味噌汁を啜った。ちなみに俺は、信じられなくてその場に突っ立ったままだ。え、だって、横田が味噌汁?あの横田が?
「何してんだ、ずっとそうやって突っ立ってるつもりか」
横田の言葉で我に帰り、少し慌てながら適当な器(お椀はなかったから仕方なく茶碗を選んだ)に味噌汁を注ぐ。立ち込める湯気の向こう側に、綺麗に切られた豆腐とネギ、それからワカメが浮かんでいる。…だめだ、いやだって嘘だろ、どうやっても横田とこの味噌汁が頭の中で結びつかねえ。
 一人分の隙間を空けて横田の隣に胡坐をかき、弁当の入った袋を自分たちの間に置く。横田は当然のようにから揚げ弁当を取り出し、弁当容器に輪ゴムでくくられた割り箸を口と右手で割った。
 これはこいつにとっての夕飯にあたるんだろうか。夕焼け空を背に、胡座の真ん中に弁当を置いて中身を口に運ぶ。横田の一口はやたらデカくて、ごま塩の振られた飯とから揚げは一瞬で消えていった。
 奴が弁当を食らう様子を横目に、茶碗に注いだ味噌汁を俺は啜った。自慢じゃねえが俺は自炊なんて生まれてこのかた一切したことがないし、もちろん味噌汁を作る手順などまったくもって知らない。
 だから、よく分からなかった。味噌汁とはこんなに旨いものなのか、それとも横田が特別旨い味噌汁を作ったのか。
「…うめえ」
綺麗なサイコロ型の豆腐を見つめながら言うと、早々に弁当を食い終え楊枝を咥えている横田が「そうかよ」と短く返した。
 妙な気持ちだ。横田が味噌汁を作ること、そしてそれがこんなに旨いこと。それを知ってる奴はこの世界で俺の他に、どれだけいるんだろう。
 どうしてそんな風に感じたのか分からない。だけど俺は今、テメェの内側にそっと指先が掠めたような気がしてる。
「…片手でどうやって切ったんだよ、この豆腐」
やけに綺麗な切れ目が不思議で尋ねると、横田は少し考えるように「…あー…」とこぼし、それからどうでも良さそうに続けた。
「最初から切れてるやつ買ったんだよ」
「…へえ。そんなの売ってんのか。見たことねえけど」
「しのごのうるせえ。とっとと食い終われ」
横田が舌打ちと共に煙草を取り出す。見慣れない銘柄だ。やけに濃い煙に、きっと相当にタール数が重たいのだろうと思った。
 茶碗の中を飲み干して、魚フライ弁当の蓋を開ける。久しぶりに食べるあの弁当屋の味だ、相変わらず旨い。そこまで腹は減ってなかったが箸は淀みなく動いた。
「…お前の階段登る音は、癇に障る」
突然そんなことを言われたもんだから腹が立って、一瞬何か言い返そうと思ったが…結局俺は何も言えなかった。だって言葉とは裏腹にテメェの口元が、柔らかい曲線を作ったから。
「音、覚えちまった。…笑える」
「……」
みぞおちが、何でだろう。その時ほんの少しすぼまったような気がした。横田の声がいつもと全然違って聴こえる。なんだよ、もう。どうしたら良いのか分かんねえよ。
「……昔よ」
横田が窓の外をぼんやり見つめながら呟く。あんまり静かな口調だったから、独り言なのかそれとも俺に向けられたものなのかよく分からなかった。
「母親に味噌汁の作り方だけ教わった。作れるようになったら飯時は手伝ってくれって言われて」
「……」
「そしたらその分早く飯ができるからってよ。…もう顔も思い出せねえくらい昔の話だが」
「…へえ」
やっと打てた相槌に、横田がチラリと俺を見る。まだ弁当が三分の一ほど残っていることに溜息を吐かれ「とっとと食えよ」と吐き捨てられた。
「テメェがトロいせいでくだらねえ冗談言っちまったじゃねえか」
「……」
白い煙を窓の外に吐いて、吐きながら横田は遠くを見つめる。今その目に映ってんのは、なんだろう。…誰だろう。
 冗談だと片付ける横田が無性に侘しい。どうしてか哀しい。俺は夏の終わりをこっそり呪った。見るもの全てが哀しさを纏っているような気がしてしまうのは、だってきっと、この夕焼けのせいだ。
「…うめえよ」
他に言葉が見当たらないから、もう一度同じセリフをこぼした。結び付かなかったテメェと味噌汁の間に、誰も知らない思い出がある。テメェにも忘れられた思い出だって、きっと。
 うまいよ、横田。…ちゃんと、うまい。
「……」
吸いかけの煙草を窓のサッシの灰皿に置いて、横田が何か言いたそうに俺を見る。だから俺もつられて箸の動きが止まった。テメェと目が合うといつもこうだ。体が動かなくなる。
「…児島」
「……」
横田の右手が俺の口元に伸びてきて、その瞬間心臓が強く脈を打ったのが分かった。その音がテメェに聞こえてなきゃいいなって、馬鹿だなそんなもん聞こえる訳ねえじゃねえかって、瞬きを忘れたまま俺の思考は散らかっていく。
「…きったね、ソースついてら」
俺の口の端を親指で拭って横田は笑った。その瞬間、今世紀最大に頭が煮えくり返った。そりゃあもう、ヤカンが沸かせるんじゃねえかと思うほどにだ。
「ふ、ふざっ…ふざけんじゃねえっ
「ふざけてんのはお前だろ、もっと綺麗に食えねえのかよ」
「お、おっ…俺に触んなっ
「そうだな、変な菌が付きそうだからもうやめとく」
「ふっ、ふざけんなよこのっ…ボンクラ野郎が
「おらとっとと食えよ。食い終わったら布団干せ」
一切悪びれる様子のない横田に俺の両手はわなわなと震えた。この野郎、本気で殴ってやろうか。いい加減堪忍袋の緒が切れるぞ俺だって。
「……ふ」
「あっなんだよ!ナメてんじゃねえぞ
横田はいよいよ堪えきれずに「あはは」と笑った。…なんだよ、知らなかった。そうやって笑ってりゃあ最悪の人相だって人並み程度になるんじゃねえか。
「お前といると笑える。なんでだろうな」
「……知るか」
「そうだな。お前は馬鹿だから知らねえな」
横田は楽しそうにそう言って煙草を灰皿に押し付けた。…わけが分からねえ。なんなんだよさっきから。調子狂うからやめろよ。
 弁当を食い終わった後、結局俺は言われた通り布団を干してやった。別にコイツの為に何かしてやりたかったとかそういうことじゃない。一応約束だったし、片腕しか使えないコイツがやったんじゃきっと時間がかかって仕方ねえだろうと思ったからだ。
 布団を干し終えると「やるよ」という一言と共に煙草を一本もらった。吸ったことのない銘柄だったので少し好奇心もあったし、まあ、くれるって言うなら仕方ねえし。俺は仕方なく貰ってやることにした。
 火を点けて最初の一口を吸い込む。吸い慣れたハイライトよりずっと重たい煙が、喉の中を強引に割って入ってくるような感覚がした。正直、慣れない葉の味とその感覚がキツかったが素直にそう言ったらナメられる気がしたので、俺は余裕を見せつけるように二口目を強く吸って笑った。
「…へ。悪くね……っゲッホ」
ちくしょう、喉の下に真っ直ぐ落とすのに失敗した。思わず咳き込むと横田がまた大笑いする。
「あはは!冗談だろお前」
「エッホっ…う、うるせっ…」
「あはは、はぁ〜笑える…お前ほんと…」
横田はそこまで言いかけて、何故か突然左手で口元を覆った。
「俺がほんと…なんだよ」
「いや、救いようのねえ馬鹿だな」
また人を見下したようないつものテメェの顔に戻るから、俺もいつものように「あぁ」とメンチを切って返した。
 途中何度か咳き込みながら、テメェからもらった一本をフィルターギリギリまで吸い尽くす。全然好きな味じゃなかったし、やるよと言われてももう絶対貰いたくねえけどよ。まあ、礼の言葉を伝えねえってのは、俺のポリシーに反するから。
「…どうも」
小さな声でそう言ったらテメェがニヤついて顔を覗き込んでくるから、舌打ちしながらそっぽを向いた。
 そろそろ帰る頃合いだった。色を深める夕焼け空にちらと視線を送ると、横田が見計らったかのように「そろそろ帰れよクソ犬」と言った。
「…言われなくても帰る」
「そうか。いつまでいるのかと思ってた」
「っ…うるせえ!邪魔して悪かったな!」
 玄関で靴を履いてドアノブに手をかけた時、横田に後ろから「おい」と声を掛けられた。続く言葉が気になって、俺はゆっくり振り返る。
 どうして俺はいつもテメェの言葉を、焦れてるみてぇに待つのか。みぞおちが締め付けられるような感覚がする。たまらず唾を飲み込む。この音が横田に聞かれていたらやだな、そういやさっきも似たようなことを思ったな、なんて頭の片隅で考えながら。
「またな、クソ犬」
「……」
はっきり分かった。いま、自分の顔面が赤くなったのが。
 俺は気づかれないよう慌てて前に向き直り、扉を閉めるのとほぼ同時、逃げるようにして「またな!」と言い残し駆け出した。
 金属音を響かせて階段を降りる。サングラスをかけ直して夕焼けに染まった町を走る。
 心臓がうるせえ。なんでだ、ああそっか走ってるから。そうだ、そうに違いねえ、それ以外に理由なんてあってたまるか。
 俺は馬鹿だからよく分からない。テメェの一言一句にみぞおちがすぼまる度、思わず逃げ出したくなる。なのに体が動かなくなって慌てる。どうしてかな。この現象は一体、なんなんだろう。
 横田が笑って「またな」と言った。たったそれだけのことを思い出して、ほらまた、みぞおちに変な感覚が走るのだ。





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