Chapter.3-5




とーこさんはそれから、週に一回決まった曜日に店に来てくれるようになった。
最初にカウンターでマンハッタンを注文して、それから一緒にテーブルへ移動する。テーブルで話す時間は大体いつも二時間くらい。結構金もかさむんじゃないかと少しだけ気になり、一度だけ「いつも来てくれるけど平気?」と尋ねたことがあったが、彼女ははにかんで「大丈夫」と言うだけだった。きっと充分に稼いでいるのだろうと思った。とーこさんにはいつも余裕がある。
週に一度のとーこさんとの時間、それから気まぐれみたいにして月に数回だけ出勤する時間。たったそれだけで十万弱は稼げた。俺はその金を煙草とビールだけで毎月、当たり前のように使い切る。

「昨日は久しぶりに夜ゆっくりできたから、すごい時間かけてご飯作っちゃった」
とーこさんがグラスを両手で持ちながらにこやかに話す。俺はその様子を隣に座ってただじっと見ていた。髪が綺麗だなとか、いい匂いするなとか、そんなことをぼんやり考えながら。
「へー。とーこさん料理うまそう」
「ううん、全然普通だけど。でもロールキャベツは自分でもすごい上手にできたと思う」
「あは、そーなんだ。そんなこと言われたら食べたくなるじゃん。持ってきてないの?」
「あはは、ここに?ロールキャベツを?」
「そうそう。タッパーとかに入れてさあ」
「やだ、そんなことしないよあはは」
とーこさんがおかしそうに笑った。俺も一緒に笑いながらテーブルの上に置いていた煙草の箱に手を伸ばす。
「えー、なんだよ食いたかったな、とーこさんの手料理」
火を点けながらそう言うと、とーこさんは小さく笑って「またおいしくできたら報告するね」と言った。
「ほすけくんの好きな食べ物ってなに?」
「…俺ー?…んー…」
煙草のフィルターを長く強く吸いながら考える。記憶の引き出しから出てくるのは、あれもこれも全部思い出したくないものばかりだった。好きな食い物の匂いと、それからそれを作っている誰かの背中だ。
「…なんだろ、肉?」
俺がそう答えるととーこさんは笑って「うーん範囲が広すぎるなぁ」と言った。
「つかなんでも好き。牛乳以外だったら」
「牛乳嫌いなの?」
「うん、もう匂いだけで吐きそうんなる」
「そうなんだ、じゃあシチューとかグラタンも苦手?」
「いやそういうのはいける。肉入ってれば」
「あはは」
煙草を灰皿に押し付けて火を消し、とーこさんの髪の毛に顔を寄せる。目を瞑ってその香りを嗅いだ。ゆっくり吸い込んで、これ以上蘇るなと頭の中で唱えながら、記憶の引き出しをそっと閉めた。
「…とーこさんの髪の匂いほんと好き」
「…うん」
「…もうちょっとこうしててもいい?」
「…うん」
とーこさんの手の甲に自分の手を重ねながら、綺麗な艶の匂いを丁寧に吸い込む。こうしてる時間が心地よくて好きだ、生ぬるい海にただ浮かんでいるみたいで。

「ホスケはいいな〜可愛いお客さんが固定でついてさ〜」
その日の帰りは、たまたま近場にいたからという理由でクレさんが車で迎えに来てくれていた(クレさんが車で送迎してくれるのは半々くらいの確率だ。迎えがない時はタクシーを拾って帰っている)。
後部座席に並んで座ったメゾさんが、俺の隣でため息を吐きながらそうぼやく。
「えーなに、ホスケの固定の子ってどんな?気になる」
振り返らないままクレさんがそう言った。
「綺麗なお姉さんって感じの人。ホスケのちょっと上くらいかなぁ、いつも二時間くらいはいてくれてるよね?」
メゾさんがこちらに視線を向けて尋ねてきたので俺は無言で小さく頷いた。
「マジかー、さすがホスケくんですなー。 メゾは?いま固定の人何人だっけ?」
「俺〜?…んー、三人…いや一人は連絡だけたまに取ってるけど店に来なくなっちゃったからな〜」
「なんだ二人いるなら別にいいじゃないっすか」
クレさんの言葉にメゾさんが珍しく「よくないよ!」と勢いよく食いついた。座席のシートに背中を預けてダラリとさせていた上半身を乗り出して、前方座席のシートに手をかける。
「一人はメチャクチャ無口でさ、その子はまだいいんだよ一緒に座ってニコニコしてればいいだけだから。もう一人のオバサンがさ〜!」
「オバサマね、オバサマ」
「はい。そのオバサマが強烈で俺はもう心が折れそうです…」
前方座席のシートにそのまま頭を預けてメゾさんは力なく唸った。いつも穏やかで笑顔を絶やさず接客しているメゾさんがこんなことを言うなんて、一体どんな脚なのだろう。
「うはは、なんでそんな疲れきってんの。精気でも吸われたか〜?」
クレさんのその言葉に、メゾさんは顔を前方シートに埋めたまま「その通りです」とか細い声で答えた。
「…テーブルでベロチュー要求されてさ〜…あ〜ホントきつかった…長い地獄だった」
「だっはっは、そっかそっか吸い尽くされちゃったか!まあまあ、元気だしなさいよメゾくん」
「出ないよ〜、もうやだよ〜仕事行きたくない」
クレさんメゾさんの会話を横で聞きながら、俺は少し驚いていた。テーブルでそういった行為がされているなんて全く知らなかった。
「しかも下も触られたんだよ、勃つわけねえじゃんほんと勘弁してよ〜」
「あはは、でもメゾくんがそうやって頑張ったぶんメゾくんのお財布にお金が入りますからねぇ」
「世の中世知辛すぎるよ〜」
「あはは」
知らなかった。俺はてっきり、あの店は会話以外の接客はないところなのだと思っていた。薄暗い店内、眼を凝らさなきゃ見えない周囲の様子。考えたこともなかったが、もしかしたら今メゾさんが言っていたことより際どい行為をしているテーブルだって、あったのかもしれない。
「…知らなかったす」
ぽつりと呟くと、顔を埋めていたメゾさんが体を起こして俺のほうへ視線を向けた。
「うん?」
「…そういうの、していいんすか」
俺が問うとメゾさんはいつもの緩やかな笑顔に戻り「まあほどほどならね」と答えた。
「さすがにテーブルで本番してる奴はいないけど、キスと触るくらいならオッケーって感じかな。あれ?ねえクレくんなんか規約とかあったっけ?」
「ん〜?別にないよ、他のテーブルのお客さんに害がなければ」
クレさんの返答の後メゾさんは俺に「だそうです」と笑って付け加えた。
「…へえ…」
「話すだけでいいお客さんが一番楽チンだよ、だからホスケはホントにラッキー」
「…」
「もうさ〜キスは百歩譲って耐えるからさあ、せめて下触るのやめてほしい、ぜったい勃たないもん」
「だはは、そんなに嫌だったのね、お疲れお疲れ」
それからはクレさんメゾさんの二人で会話がずっと続いた。俺はぼんやりと窓の外を見ながら、とーこさんの髪の感触を思い返す。
彼女はどうして毎週俺に会いに来てくれるのだろう。暇つぶしか、それとも話し相手としてちょうどいいのか。…好きとか、恋しいとか、そういう感情が欠片でも俺たちの間にはあるのだろうか。不思議だ。まるで他人事みたいに遠くて、俺はなんだか傍からその光景を見つめているような気になった。




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