Chapter.3-6





数日後、俺は欠伸をしながら店のカウンターの中に立っていた。寒さは少し前に比べて和らいだと思う。路面の雪ももうほとんど残っていない。たまに鳴る入り口の鈴の音に慌てて欠伸を殺し、誰かの「いらっしゃいませ」に続いて自分も適当な声で同じ言葉を唱えた。
今日はとーこさんが来る曜日じゃないから、もしかしたらテーブルにはつけないかもしれない。ただ突っ立っているだけの時間はひどく退屈だった。あと10分して何もなければ裏に行って煙草を吸おう。
何度目かの欠伸が出そうになった頃、また出入り口の扉が開いて鈴の音がした。「いらっしゃいませ」と形式的に言ってそちらへ顔を向けると、こちらに対して少し遠慮がちに手を振るとーこさんの姿がそこにあった。
とーこさんはそれから俺の元までやってくると「…また来ちゃった」と、カウンターの向こうで恥ずかしそうに笑った。
「…」
好きとか、恋しいとか、そういう感情で今俺はこの人を見てるのか分からない。自分のことなのにどうして分からないのだろうと思う。そして分からないままとーこさんの頬に手を伸ばす自分に、つくづく嫌気がさすんだ。
「…嬉しい、会いたかった」
脳みそを通過しないまま思いついた言葉をこの口は吐く。とーこさんは俺の手を振り払おうとせず、眼を細めて「手、あったかい」と幸せそうに言った。

いつものようにとーこさんはマンハッタンを頼んで俺をテーブルへ誘った。座るテーブルはその日によって違うが、今日は一番端の、少し奥まった所に設置されたテーブルが空いていたためそこに座った。
「よかった、ほすけくん出勤してて」
とーこさんが俺にも見えるようにメニュー表を広げながら言う。
「あ、でも大丈夫だったかな…他に来る予定のお客さんとか…」
とーこさんの体に自分の身を寄せて、俺は「いないよ」と答えた。
「とーこさん以外いない」
事実、俺には本当にとーこさん以外の固定の客などいない。しかしじっと目を見つめてそう言うだけで、どこかに熱が宿るような感覚がする。あんたしかいない。俺の言葉を隣で受け取ったとーこさんは、少し目を伏せて「うん」と、小さな声で頷いた。
「…今日はね」
とーこさんのつぶやきに「うん?」と相槌を入れた。
「…ちょっと、悲しいことがあって…だから会いたいなと思って、来ちゃった。…ごめんね」
「なんで謝んの、俺は会えて嬉しいしかねーけど」
「……うん」
とーこさんが俯く。髪に隠れて顔が見えない。片側の髪をそっと指ですくってみると、涙を溜めた目がその奥にあった。
「……どしたの」
綺麗な髪を耳にかけて尋ねる。とーこさんは俺の問いかけに答えることはなく、ただじっと、それ以上涙が出てこないようにと食い止めているように見えた。
とーこさんにどんな悲しいことがあって、今どんなことを考えているのか俺には分からない。多分聞いても多くを教えてはくれないだろう。彼女は吐露する為じゃなく、きっと忘れたくてここに来た。
「…俺になんかできることある?」
顔を覗き込んで聞くと、とーこさんは少しだけ微笑んで「ありがとう」と言った。柔らかくて優しい声だ。泣かないでほしいなと、ただ純粋に思う。
「ほすけくんは優しいね」
「俺が?あはは、とーこさん見る目ないな。全然優しくねーよ俺」
「でも私、元気出たよ。ほすけくんが優しくしてくれたから」
とーこさんはそう言って俺の頬に唇を寄せた。ほんの一瞬のことだったが、唇が触れた感触はしっかり頬の上に残っていた。少し驚いてとーこさんを見る。とーこさんは照れた様子で「優しくしてくれてありがとう」と笑った。
「……どーいたしまして」
「…」
「…」
見つめ合ったまま無言になる。とーこさんの目は俺から逸れることなく何かを訴えるようにこちらを見つめ続けていた。彼女の思考を汲み取るため、俺もじっと見つめ返す。さっき涙を溜めていたせいか、とーこさんの睫毛は少しだけ濡れていた。
「…ここだけ?」
キスをされた頬を人差し指で指し示すと、とーこさんは少し目を見開いて「え」と漏らした。口の端を緩く持ち上げて笑うと、とーこさんの顔がちょっとだけ赤くなった。
「口にもしてほしいんだけど、俺」
戸惑うとーこさんを待たずに顔を近づける。額を寄せてとーこさんの返事を待つ。考えることを放棄するのに慣れきった俺は、いとも容易くこんなことをやってのけるのだ。
嘘みたいに滑らかな一連の動作にああそうかと、俺は見切りをつける。俺は、真性のクズなのだ。間違いなく、これが俺なのだ。俺の血の中に混ざる腐った赤色は今もずっと、そしてこれからもずっと、この全身をダラダラと流れ続けていく。

…二度と顔も見たくない、死んでほしいと何度も願ったある人の顔がその時ふと浮かんだ。
俺はきっとあんたに似ている。あんたから生まれたこの体の中には、吐き気がするような汚いものが紛れている。確かに混ざっている。死ぬまで取り除けはしないのだ。死ぬほど嫌いなあんたの細胞が、生きている限りずっと。
理解して、そうしたら楽になってしまった。ああ諦める以外に方法なんて、元からなかった。

「…うん」
とーこさんがゆっくり目を閉じる。濡れて少しだけ光る睫毛を最後に視界に収め、それから俺も目を閉じた。とーこさんの背後、ソファーの背もたれに腕をかけて、俺はとーこさんとキスをした。





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