『骸クンってお風呂好きなの?』
二時間近く風呂と洗面所にこもり、漸く出ていったときにそう言われた。
確かに好きなのもあったが、その日はずっと部屋にいた白蘭との空気があまりにも心地よすぎて逃げる為にこもっていたということもある。
流石に、言えなかった。
『潔癖症なもので』
『僕汚くないよー?』
『汚いとは言ってませんが』
何故そこにつっこんでくるんだ、という言葉を飲み込む。
いとも簡単に信じられてしまった嘘。それから白蘭が触れてくる回数が減ったような気がしてならず、しばしば複雑なジレンマに陥った。
『これ、あげる』
白蘭が贈り物をするのは珍しいことではなかった。
服だとか、ピアスだとか、花だとか、僕の好物だと知ってからはチョコレートだとか。
でも、それはいつもと趣向が違ったものだったから印象深い。
『何ですかこれ』
『入浴剤ってかバスセット?』
丁寧にかけられたリボンを解き箱を開けると、甘酸っぱい、爽やかな香りが漂う。
嫌いじゃない。
『ほらこの前、お風呂好きって言ってたじゃん…よかったら』
中の一つを手に取る。形と重さからして石鹸だろうが、梱包されている状態からこんなに香るのでは開けた時、そう思って苦笑いした。
『何ですかね…この香り、すごく強烈ですけど』
『ん、リンゴだってさ』
ああそうだ、リンゴだ。
石鹸を箱に戻し、静かにふたを閉める。
『ねぇ、骸クン』
白蘭の声に顔をあげた瞬間、ぐにゃり、と空間がゆがむ。
気持ち悪さに目をぎゅっと瞑り、そっと目を開くとそこは寝室だった。どういうことか、ベッドの上に横たわっている。
仰向けに寝そべる僕を、白蘭は馬乗りになって見下す。
「どうして僕を愛してくれないの」
あらゆる感情を抑えすぎて、平坦になってしまった声色。
その表情は、逆光で見えない。
目を見開いて何か言おうとしたとき、ひんやりとした手が喉仏に触れた。
「僕を愛してくれない君なんか、いらないよ」
違う、僕は、
そう言おうとしたのに、白蘭の手が喉を押しつぶしてくる。
口を開いたけれどヒューヒューという音しか出ない。すぐに息が苦しくなって、じたばたともがいた。
「…クン、骸クン!!」
優しい声が、聞こえる。
ああそうだ、僕が聞きたかったのはあんなに冷たい声じゃない。
「っあ…骸クン!」
目を開くと、覗きこんでいるのは…今度はちゃんと見える、心配そうな表情の、白蘭?
「びゃくら……」
思わず手を伸ばして、触れたものは柔らかい頬。それに少し違和感を覚え、意識がはっきりとするのを感じた。
「…鈴蘭」
「…うなされてたよ?大丈夫?」
鈴蘭は何か言いたげだったがそれ以上は何も言わず、タオルで僕の額を拭いた。
どうやら寝汗では済まないほどの汗をかいていたらしい。
「はい」
「ん…」
上半身を起こすと、水の入ったグラスを手渡された。本当によくできた子だと思う。
直ぐに口をつけて喉を鳴らし飲む。
食道を流れていく液体の冷たさは、夢の中喉仏に触れた彼の冷たい手を連想させた。
「落ち着いた……?」
「ええ、ありがとうございます」
まだ気遣っているような鈴蘭の頭にぽん、と手を置く。感触は本当に白蘭と変わらなくて、やはり兄弟だ。
「……着替え、持ってくるね」
一瞬きょとんとしたあと、僕の手をそっと退けて鈴蘭はベッドを降りて行った。
その時になって漸く気づく。林檎の甘い香りが立ち込めていることに。恐らく昨夜の残り香だろう。
懐かしい夢の原因はこれか、と妙に納得した。
最後が悪夢であったのも、何となく頷ける。
「…」
目に見えなくても、耳で聞こえなくても、手で触れられなくても、まだ感じられるものがある。
酷く憂鬱な、気がした。