まものの心
二寸の恋心B
03

 執務室の扉の向こうでは、大方の予想通り満面の笑みの魔王がキノを待ち構えていた。朝の光が差し込む大きな窓を背景にしたその姿は眩しくも爽やかで、それだけを見れば見目の良い好青年に違いない。

「おはようございます。陛下におかれましては本日もご機嫌麗しく」
「どうだった?」

 キノの儀礼的な挨拶に応えはない。魔王の奔放さには慣れたもので、垂れた頭を正すとキノは一切を無視して自らの執務机に目をやる。昨日、帰宅する時よりも確実に増えている積み上げられた書類の嵩にうんざりと溜息を吐いていると、突然視界が明るく広がった。

「あ、ちゃんと戻ってる」

 目深に被ったキノの真っ暗なフードを勝手に払った魔王が、ぐふふ、と気味の悪い笑いを白皙の顔に浮かべる。乱れた銀糸が頬にかかったの二、三首を振って避けたキノは、魔王の興味に応えて愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

「おかげさまで大変でした」
「えー?」

 ひらひらと袖を振って見せたキノに、口角を吊り上げてひゅーひゅー囃し立てていた魔王の片眉がすいっと持ち上がる。ピタリと固まった表情は元の造作が美しい分、凄みが滲む。

「腕?」
「ええ、両方」
「う、わ。ええっー? 何でえ!?」

 ずるずると長いマントのようなキノの黒衣を魔王が暴くが、そこにあって然るべき二つのたおやかな腕は、右は肘を残してその下が、左は肩のすぐ下から先がごっそり欠落している。残されたビーナスの如き真白の柔肌には、鮮血滲む傷こそないものの、ピンクの真新しい皮膚がいくつも歯型模様を刻んでいるのが痛々しい。切断面も柔らかな皮膚に包まれていて酷たらしさはないものの、頬を染めてはにかむキノの表情に似合うものではない。

「何で……」
「ハイルはあれでいて治癒系の魔法も得意ですから」
「いやあ、僕、そんな事聞いてないんだけどねえ」

 ハイルはこの国を支える四将軍の一峰である。強大な魔力を誇っているのは勿論であるのだが、同時に物理的な攻撃力も強い。地形を変えるほどの怪力、大柄で厳しい獅子の外見や鷹揚な態度もあいまって大雑把な印象を与えがちだが、実はかなり繊細な力加減が得意だ。今朝、たてがみを寝乱れさせたままのハイルが指先でそっと触れていった傷跡の一つ一つを、ふふ、と嬉しそうに見つめるキノに、流石の魔王も苦笑を漏らす。

「よほど腹に据えかねたようです」
「何が?」
「あの姿の私を抱くのが」
「あ、抱かれ? え? 抱かれたの?」
「ええ。たっぷり」

 キノの顔は昨夜とは打って変わって少女のように可憐であるのに、その表情はどこか淫靡で、弧を描く小作りの唇がおぞましい。それもそのはず。体に残る昨夜の名残すら愛おしく、まるで今もなおハイルの腕に抱かれているようだと、キノの頭の中は子供にはお見せできないピンク色のアレコレが上映中である。

「喧嘩の後のセックスは燃え上がる的な? あれ、でも戻る前?」
「ええ」
「おお! え? どうしちゃったの、ハイル。何その劇的な心境の変化? 前ってさ、確か蛇蝎の如く嫌われてたよね? 触れるどころか同じ空気も吸いたくないって感じだったよね? え? え?」

 本心から驚いたらしい魔王の間抜けに開いた口から、わりと失礼な質問が飛び出す。失礼ではあるが、事実であるから仕方がない。羽化を促されてからこちらの状況とは真逆であったのをキノ自身にもしっかりと記憶されており、否定のしようがない。
 
「私は『ある程度触れてください』とお願いしただけですよ」
「ん?」
「そしたら。……ふふ。獣の姿でのしかかられて。体が二つに裂けて死ぬかと思いました」
「エゲツな! ってかさ。あれ? 僕、そんな条件付けしたっけ?」
「ええ。『ハイルとある一定時間触れること』で解ける幻術、と仰ってました」
「…………ん?」

 あれえ? などとワザとらしく首を傾げる魔王に、キノは笑みを濃くして相対する。
 キノはハイルを心の底から愛している。それはそれは、大切に思っているのだ。そんな彼に嘘をついたことは一度もない。だが、恋愛の賭けに引きに秘密を残すのは常套手段である。今回は、ほら、言葉が足りなかった、ただそれだけのことで、何一つ嘘はついていない、とキノは信じている。


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