まものの心
二寸の恋心B
02

 そっと差し伸べた朽木の様な手は、ハイルの体に届く前に大きな音を立ててはたき落された。

「…………」
「っ……!! ……すま、っく……」

 衝撃によろめき尻餅をついたキノを見て、ハイルの顔が複雑に変化し、歪んだ。彼の中で渦巻くのは生理的な嫌悪感となけなしの良心や倫理観。そして、自らの立場やこれまでキノと交わしてきた浅からぬ、いやむしろ、とろーり、むわーんとした濃密な関係。そこでまた目の前に存在する耐え難い嫌悪感に立ち戻り、低く唸る。キノに触れてしまった手のひらの穢らわしさが耐え難く、その感触をどこかで拭いたいのだが、“伴侶”という立場にありながら手を振り払った上でそれをするのは流石にマズイのではないかと、ハイルは寸分も動けずにいた。
 対するキノもじっとハイルを見上げる。愛する人の眉間を舐め回す様に見つめながら、ああ、実際にあの深く刻まれた皺を舐めたい、さてはてどのような代償を払えばそれが可能となるであろうか、……やるやらないは別にして、とほくそ笑みながらの算段に大忙しで、ジンジンと痛む手と尻には頓着ない。いくらキノだとて、頭の隅の方ではハイルの懊悩を察して気の毒に思ってはいるのだが、多くの魔物がそうである様に、まずは己の欲に従順なのである。

「……何故?」
「はい?」
「何故、そのような、ことに……」

 キノを振り払ったのとは異なる、もう片方の大きな手で額を覆ったハイルが、喉の奥から声を絞り出す。

「そんなの、あの人の所為に決まっているじゃありませんか」
「あの人」
「魔王様ですよ。いつもの悪戯です」

 ハイルのそのなんとも言えない掠れ声に、キノはぷるっと小さく身震いした。是非とも耳元に吹き込んでもらいたい美声、ダントツのナンバーワン(キノ調べ)である。頭の中では息を荒らげてびちびちと身悶えしつつも、キノが真剣そのものでハイルを見つめるのは、苦悩する恋人のひげの動き一つ見逃さないため。その視線にハイルが弱々しい緑の光を絡ませる。

「戻るのか」
「ええ」

 そう、それが本題である。

「では、戻せ」

 戻すのは吝かでないのだが、さて、そこでハイルの手助けが必要、となる。戻せ、すぐに、今すぐに、戻せ、と壊れた玩具のように繰り返すハイルに意味ありげに微笑んでみせると、キノの乾いた頬がパリパリと音を立てた。なるほど以前はこんな肌質であったかと懐かしく思いながら、カクカクと首をふるハイルに手のひらをすいと延べる。

「はい」
「この手は……?」
「ご協力、お願いします」
「協力」
「恐れ入りますが、触れてください」
「……な? ん、ん?」

 ゆらり、と緑の瞳に剣呑な炎が灯るのをキノはうっとりと見つめる。

「私に触れてください」
「キノ」
「さあ」
「キノ……」
「どうか、ハイル」

 一歩、今一歩と近寄るキノを威嚇するようにハイルの人型であった口がぐわりと頬を大きく裂き、よく尖った牙がむき出しになる。眉間に留まらず、鼻柱や頬に深く皺が刻まれ、かげろうのようなゆらぎの向こうに獣の本性が見え隠れする。
 美しく気高い獣(ハイル)。
 皮が弛んだ瞼に邪魔される狭い視界一杯に愛するものを映して、キノは陶然と瞳を潤ませた。

「触れてくだっ、さ……」

 顔面に浴びた咆哮の風圧で、流石のキノも口ごもる。目前に晒された口腔。上顎の凸凹に触れたいという欲求は、この場に相応しいものではないとキノは分かっていただろうか。

「貴様」
「魔王が! 言ったのです」
「……陛下が?」

 ただでさえ折れそうな程に細い首へと伸びてきたハイルの手の感触に、流石に我に返ったキノが、慌てて数刻前のトリックスターの言葉をそらんじた。

「あなたと……、『ハイル』と『ある程度』『触れる』ことでこの魔法は解ける、そうですよ」


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