His name 4



そうして夜、エドはベッドに入って眠る前にロイの名を何度か声にしてみた。この分ならどうにかなりそうだ。きっと明日は呼べるに違いないと思って目を閉じた。
ほぼ一日外にいたので、眠気はすぐにやってきた。その夜また夢を見た。いや、夢なのかどうかはわからない。
もしかしたら過去の記憶なのかもしれなかった。目覚めれば、全て忘れてしまっているだろう事もわかっていた。

目を瞑っている自分の頭の上で声がした。誰かがいて喋っているらしい。女の声だった。泣いているのか、声が細く震えていた。
「あの人、何で逢いに来ないの。エドが目を覚ましたっていうのに」
自分の名前が聞こえた。エドワードというのが自分の名前らしい。らしい、というのは、まだ色んな事を覚えられず、確証が持てなかったからだ。
ここは病院のはず、壁も床も真っ白で、目に眩しい場所だった。
エドワードという自分の名前。
三度目に目覚めた時、二人が教えてくれた。僕はアルフォンス。彼女がウインリィ。あなたは僕の兄さんで、エドワード・エルリックって言うんだよ。
回らない舌で、エドワードと言おうとした。うまく言葉にする事ができなくて落ち込んだ。こんな事も言えない自分に、彼らは失望して見捨ててしまうのではないかと思ったのだ。
アルフォンスと名乗った彼は無理に喋ろうとしなくても大丈夫と笑いかけてくれた。
『気にする事ないよ、これからずっと一緒だから。ゆっくり色んな事を覚えていこう』と。
あなたの事は、兄さんって呼んでもいい?ウインリィはエドって呼びたいって。僕たちの事は名前で呼んで欲しいな。今じゃなくて、その内に。
幼い子どもに噛んで聞かせるように、彼はゆっくり話してくれた。そうだ、アルの優しげな表情。ウインリィは長い金髪が綺麗だった。

「エドの事見捨てちゃったの?だから逢いに来てくれないの。エドはもうっ」
「そうじゃない。ウインリィ、ここに来る事なんて無理だよ。少将も。兄さんを助ける為に……」
犠牲を払ったはずだ。自分達が思っている以上のものを。
アルがそう答えれば、彼女は押し黙った。室内に落ちる沈黙は暗く重かった。
兄さんとはやはり自分の事だろう。だってアルがそう呼びたいって言ってきたから。
二人が話しているのは自分に関する事だ。
自分のせいで、誰かを傷つけてしまったらしい。怪我を負ったなら、それは謝って済む問題ではないだろう。
少将。それが自分が傷つけてしまった相手の名なのか。脳裏に深く暗い藍色の眼差しが閃いて、消えていった。

どうしてそんな事になったのか。理由を聞きたかったが、瞼を開ける事はできなかった。体を動かす事もできなかった。ただ一人、エドは暗闇の中に立ち尽くしていた。前に進めばいいのか、後ろに行けばいいのかもわからなかった。
理由を知らなくては、贖罪の方法もわからないのに。
自分の持っているものを差し出せば、許してくれるだろうか。そんな事では駄目か。それを聞く相手もいない。
「少将が逢いたがってくれても、回りがそれを許さない」
たかが子飼いの部下一人。庇って責任を負うなど、美談になりはしない。
部下の暴走を止められなかった無能な上司。その上司を守る事もできなかった幕僚。将軍の地位につく者が何をやっているのかと、ロイは今頃、中央の総統府で糾弾を受けているだろう。
そんな中ロイがエドを見舞っては、エド自身が標的になってしまう。それをわかっている彼がここに来るはずはない。
何も覚えていなくても、エドが責任を取らされる事になってもおかしくない状況だ。
「……っエドが悪いっていうの」
アルが兄さんは悪くないよとウインリィを慰めている。
アルの言葉を聞いて、自分が到底許されない事をしたのだと分かった。
償う方法などないような重い罪を犯したのだ。持てるもの全てを差し出したところで、許しなど与えられない、そんな罪を犯したのだ。
「でもセントラルにはもう二度と来ない」
アルの声には固い決意が秘められていた。

今回の事件。総統府の一室で自殺を図ったエド。原因は全て兄がついた嘘にある。アルにもわかっていた。
ロイに嘘をついた兄、その嘘を知っていた自分。悪いのは自分達であり、ロイではない。彼が償いを望むなら、兄の代わりに自分の力を差し出してもいい。
軍に入れば少しは役に立つのではないか。等価には成りえないかもしれないが、何もしないよりはましだろう。
それを望まぬ彼だからこそ、自分たち兄弟は中央を離れた方がいい。ここにいれば、彼の邪魔になる。
エドが移動できるまで体力を取り戻したら、リゼンブールに逃げなければ。中央の彼らの目が届かぬ場所まで。
「アル。あたしたちどうすればいい」
「三人でリゼンブールに帰ろう。今度こそ。失ったもの全部取り戻したら、家を建ててあそこで暮らすって」
約束したよね。兄さんと呟くアルの声は優しく、哀しみに満ちていた。そんな声を出させているのは自分の行いが原因なのだ。どうする事もできない、エドは心が苦しさでいっぱいになり、体が震えた。

薄青の蝶が飛び交う、真っ暗な死出の道から戻ってきた事を後悔した。あの時は無意識だった。ロイを戦争に行かせたくなくて必死だった。戻ってきた所で何ができるわけもないのに。
生きている価値などないのに、ここに残ってしまった。
あの闇の先に行けば、罪を償う方法があったのではないか。順当な罰が下されたはずだ。
戻ってくるべきではなかったと、何度も何度も思った。それでも涙は出なかった。泣き方も忘れたか。もしくは体の中に水が残っていないのかもしれない。


病院には、しばらくいた。
その間二人に、スプーンの使い方から何から全てを教えてもらった。少し訓練すれば何とか握れるようにまでなった。
トレーには必ず牛乳が乗っていて、嫌だと拒めば、飲みなさいとウインリィに怖い顔をされた。まるで母親のようだと思った。
アルは弟、だったらウインリィは自分にとって何なんだろう。
妹じゃないよな、そうだ、幼なじみなんだと誰に教えてもらわなくても、それだけはわかった。けれど次の日はまた忘れてしまった。
せめて彼女の顔を忘れないよう覚えていたくて、見つめていれば視線に気づいたウインリィが、「なあに」と笑いかけてくる。
その笑顔に照れて、エドは目を逸らした。
「変なエド。あたしの顔なんかじろじろ見て」
「……だって忘れたくねぇから」
言い訳するみたいに呟けば、ごめんねと彼女は謝った。彼女は何も悪い事を言っていない。自分が何かまずい事を言ったのだ。
「今日は機械鎧の具合を見たいんだけど、いい?まずは右腕を。次に左脚を」
言いよどめば、それに気づいた彼女が「ウインリィって呼んで」と告げてくる。

顔を覚えるどころじゃない、名前すらあっけなく欠落する記憶。さっきまでは覚えていたはずなのに。いや、それも気のせいなのか。
自分が忘れるたびに、二人は辛抱強く名を教えてくれた。それを聞くたびに罪悪感が湧く。
忘れてはいけない事を忘れる。生きている価値はどこにあるのか。目が覚めてから、ずっと後悔に苛まれている。
ウインリィは工具を取り出して、自分の右腕の具合を見てくれた。どうして自分の手足は機械鎧なんだろうと、ぼんやり考えた。
「ウインリィ。体が治ったら、俺はどこに行けばいいんだ」
「決まってる」と、顔を上げて彼女はまた笑みを見せてくれる。
「リゼンブールよ。アルとエドの家がある、そこで皆暮らすの。アルは錬金術を教えて、あたしは機械鎧の修理をやって……エドは、そうね。羊を飼うの」
他にも何だってできるよ。エドのしたい事を一緒に探すから。
「俺の、したい事」
果たしてあるのだろうか。全てを失ってしまったのに。
うんと、ウインリィは頷く。
「三人で話して探そうね。きっと楽しいよ。それにデンって犬がいて、エドに会いたがっている、後はリゼンブールを見せたい。もうすぐ秋になるから収穫祭があるの」
一晩中、火を炊いて周りを踊ったり。その年のワインを飲んで、皆で笑って、話をして。
ウインリィの話を聞けば、確かに心が浮き立った。目が覚めてから初めて後悔以外の感情を覚えた。
「本当に行ってもいいのか」
故郷には帰らないと誓ったのではないか。誰が?自分が?それも、もうわからない。
「……っそんな事言わないで」
尋ねた事に他意はなかった。途端に声を震わせ、顔を伏せるウインリィを見て、言ってはいけない事を言ったのだと気づいた。
どうしていいかわからず「ごめん」と謝るしかなかった。もっと何か他の言葉をと思うのだが、口を突いて出てくるのは謝りの言葉だけだった。
言葉まで忘れてしまったのか。思うとおりに話す事ができずに焦れた。おろおろする自分に、ウインリィはそっと笑みを見せる。

「違うの」と首を振るウインリィにまた謝った。心臓を鷲掴みされたように苦しい。自分は人を傷つけるばかりだ。
こめかみの傷が痛んでしかたなかった。その瞬間、脳裏に深く暗い藍色の眼差しが閃いて、消えていった。それが最後だった。彼の思い出が心に甦ったのは。心の奥底に沈んでいったきり、何も思い出す事はなかった。
一年後の再会の時まで。彼を丘で見かけるまで。


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