One years ago 1



馬鹿な真似をした。一週間の営倉行きを喰らうなど、つくづく馬鹿な真似をした。頭に血が昇って抑えがきかなかった。
視界が真っ赤に染まった。馴染みの少尉の「何をやってるんだ」と言う怒鳴り声が耳に届いた。我に返ったからといって、すぐに動きを止める事はできない。相手を殴りつけようとする腕をハボックに掴まれて、無理やり引き離された。
「もうやめとけって、大将。充分だ」
エドは乱れる息を整えて、ハボックを見た。彼は困ったように眉を寄せていて、そこから一気に血の気が引いて、ようやく周りの状況が目に入った。
軍部の廊下、遠巻きに眺める兵士たち、自分の足元には打ちのめした相手。左手の関節がやけに痛かった。それだけ相手を殴りつけたからか。
エドはハボックから視線を外し、辺りを見回した。誰も何も言わない、野次も飛ばしてこない。水を打ったような静けさだった。
化け物を見るような目を向けてくる。当然か、どう見ても俺が悪者だ。


「ハボック少尉。ありがとう、迷惑をかけてすまない」
いくらハボックが昔馴染みで年上であろうと、自分達の間には厳然たる階級差がある。エドは地位に相応しい言葉を吐いた。
ハボックは頷いて、それから掴んだ腕を離して「自分こそすいません」と謝ってくる。
エドは気持ちを落ち着かせる為に、深いため息を吐いた。どうして自分はこうなんだ。少し挑発されたくらいで、総統府の廊下で殴り合う馬鹿がどこにいる。後悔したところでどうにもならない。やってしまった事は取り返しがつかない。
自分の評価は、彼に降りかかるというのに。

イシュヴァールの英雄と呼ばれた彼に恥じない振る舞いをしなければ。彼の『錬金術師』として。真実は違っても、心では思っていたかった。
床に崩れた相手にエドは腕を伸ばす。立ち上がるのに手を貸そうと思ったのだ。
自分の手など取らないだろう。予想どおり、男は立ち上がって、エドに背を向ける。
野次っていた兵士も引き潮のように、一人二人と消えていった。
「……悪かった」
男の背中に声をかける。今更、何を言っても無駄だともわかっていた。振り返って、憎悪を宿した目で睨みつけられる。それに対しては何も感じなかった。この後始末をどうつけるかが、問題だ。
そうして最後に廊下にはハボックとエドだけが、取り残された。

「止めてくれてサンキュ。助かった。それに悪かった、ごめん。少尉に止められなかったら、俺まだやってたよ」
さっきとは打って変わった口調で、エドは心からの感謝と謝罪を告げた。
「大した事じゃない。それより怪我はないのか。大将は」
どこも痛くねぇよと笑顔を作ってみせる。
「なぁ。もひとつ、ついでに頼み事していいか」
「ああ、俺でできる事なら」
「少将には知らせないでくれ」
ハボックはすぐに頷かなかった。迷うように天井を見上げたり、床に視線を落としたりしている。優しい彼に無理な事を頼んでいる。どの道ハボックが言わなくても、この件はロイの耳に入るだろう。それが少しでも遅い方がいい。

子どもは失敗したら正直に言わないで、隠そうとする。それと一緒だ、俺は今年で十七になるっていうのに、少しも成長していない。ハボックの答えを聞く前に、エドは歩き出す。廊下の先にある一室に向かう為に。
「そんじゃ、俺は怒られに行ってくるから。健闘を祈って欲しい。少尉」
「ああ、気をつけて。俺からは……少将に言わねぇよ。黙っておくから」
エドはそれに手を振って答えた。
将校格である自分が下士官と殴り合うなど、失態もはなはだしい。始末書ものだった。多分、それだけでは済まないはずだ。ついでに営倉行きか。
先ほどの下士官の直接の上司は誰か。おそらくロイと敵対するアンバースだろう。そうでなければ、自分を挑発してくるはずがない。

相手を殴った手も痛ければ、相手に殴り返された顔も痛かった。機械鎧の右手を使わなかったのは、最後の理性だ。口の中に血の味が広がって、気分が悪かった。
明日には頬は腫れ上がるだろう。エドは口の中にたまった血を、誰も見ていないのをいい事に床に吐いた。それを軍靴で踏みつける。
それからまた足早に廊下を歩いていく。人気のある場所まで出てくると、すれ違う者の中に、ぎょっとした顔を見せてくる奴もいた。
そこまですごい顔になっているのか。足を進める毎に、自分に対する怒りが湧いてくる。殴りあった相手にではない。お前は何の為にここにいる。侮辱にいちいち応えて相手を殴りつける為か。違うだろう。そんなものは無視すればいいだけの話だ。
意識に刻み付けろ。軍に残ったのは、彼が名誉と栄光を手に入れる手助けをする為だと。それがわからないのなら、生きている価値もないと知れ。



些細な小競り合いは、皆に知れ渡るのが異常に早かった。やはり仕組まれていたようだ。
あっけなく嵌った自分はさぞかしいい笑い者に違いない。そして自分の後見人であるロイもまた笑われているという事だ。
エドは屈辱に両手を握り締めた。短い爪が皮膚に食い込み、左手の跡はしばらく消えなかった。もちろん始末書だけでは、足りなかった。結果は一週間の営倉行き。
『君の勤勉さは聞いている。休暇だと思って休めばいいじゃないか』と止めの一撃を食らった。
見事な嫌味だ。笑う事もできない。

押し込められた営倉は饐えた匂いがした。幾つか並んだ部屋、入居者は自分しかいない。今時、こんな場所に押し込まれるような馬鹿をするのは自分くらいだという事だ。
一応決まりですからと、やる気のない見張りが鉄格子に鍵を掛けていった。
遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなった。エドは壁によしかかったまま、ずるずると床に座り込む。
制服が汚れようが構うものか。こんな場所に押し込められたら、憲章に何本、線が入っていようが役に立たない。
髪に指を差し込んで、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
それから両手で視界を塞いだ。真っ暗闇の中に火花が生まれては、消えていった。
「……はっ。何やってんだ、俺は」
ひび割れた情けない声が出てきた。この役立たずがと自分を心の中で幾ら罵っても足りなかった。

嗤えば、塞がりかけていた口の端がまた切れて痛かった、それどころか奥歯がぐらつく。折れたのではないかと思い舌で触れば、血がどっと溢れた。歯は後で取ってしまった方がいいかもしれない。
顔の痛みは、先ほどより増していた。冷やしておかなければ明日腫れるだろう。それも構う事はないか、どうせ一週間、知った人間に会う事はないのだから。
俺はもっと保身を覚えなければいけない。保身じゃなくて、冷静さとか。色々足りなくて嫌になる。嫌になるのは、彼の方か。田舎で拾った子どもがこんな迷惑ばかりかけてくるなど、思っていなかっただろうに。
一人になって、少し頭を冷やした方がいい。


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