One years after 2



男から目を離せなかった。網膜に灼きつく、その姿。立ち尽くし、逃げる事もできない自分の元へ男は歩み寄ってくる。
何をするつもりだ。
のうのうと生きている自分を殺しに来たのか。だったら殺してくれ。今すぐに。
さっきから頭が混乱している、取り留めもをつかない事を思ってしまう。見知らぬ男が自分を殺そうとする訳がないと、少し冷静に考えればわかるはずなのに。
「驚かせてすまない」
冷たい体温を思わせるような声だった。聞いた覚えのない声であった。顔も声も何も知らないのに、何故彼に対して、こんなに緊張を覚えるのか。

エドの目の前に立って、男は手を差し出してくる。何かと思えば、先ほど散らしてきた花が幾つかあった。全てを集める事はできなかったと謝ってくる。
「あ……」
エドはそこでようやく首を振った。ここにいるのは幽鬼でもなく、幻でもなかった。
摘んだ花を集めてきてくれた生身の男だ。心にある恐怖心が薄れて、エドはようやっと声を出す事ができた。喉が痛い。口の中が乾いて、からからだ。唾も出ない。緊張が解けない。
「いいんだ。また……後で摘むから。いいんだ」
エドが両手を差し出すと、男はそこに花を落としてきた。アザミ、白つめ草。花からは甘い匂いが漂ってきた。
そうして二人きりだった世界は、唐突に終わった。男の背後から聞き慣れた声がした。
「大佐!」
アルだ。帰ってきてくれた。デンも足元にいる。エドはほっと息をつく事をできた。

男もアルの声に振り返る。アルの姿を認めた男はわずかばかりの笑みを浮かべてきた。笑うと目元の鋭さが薄れ、冷たい印象が消えてゆく。それを見てエドは目を見張った。笑うなんて、思ってもみなかった。
弟も男に向かって笑い返している。ああ、何だ。アルの知り合いだったのか。
自分を捕まえに来たわけでも殺しに来たわけでもないらしいと、エドは安心する事ができた。当たり前だ。だって何も悪い事はしていない。『悪い事』なんて、一つもしていないんだ。
だから平気だ。暗示をかけるかのように心の内、繰り返した。

「大佐なんて呼んですみません。もう少将ですよね。着くのがもっと遅くだと思っていて。迎えに行けなくて。家わかりましたか?」
つい昔のくせでと、アルは照れたように謝る。
「階級など大して変わりはない、それより元気そうで安心した。彼を見かけて声をかけようとしたんだが、驚かせてしまったんだ」
男はもう一度自分に向かって謝ってきた。二人は親しげに言葉を交わしている。
この男がアルの知り合いなのはわかったが、何故アルに軍人の知り合いがいるのだろう。わからない。というより、自分が知っているのは、アルとウインリィだけ。それで世界は完結していた。明日も明後日も、自分はその世界の中で生きていくのだ。

二人が話す横で、エドは所在無くぼんやりと立ち尽くしていた。手を握り締めそうになって、受け取った花がつぶれてしまうと我に返った。
せっかく拾ってきてくれたのだから、後でコップに水を張ってそこに浮かべよう。
「兄さん」とアルに呼ばれて、エドは顔を上げる。
「ごめんね、兄さん。今日彼が来るって話せてなくて。僕の、僕たちの大切な人だよ。心配しないで」
アルはそっと自分に囁いて、男を家の中へと招き入れる。

だから今日は早く帰って来て欲しいと言ったのか。それに『僕たち』のとアルは言った。この男は自分の知り合いでもあるのか?様々な事を忘れてしまった、覚えているのはわずかな事だけ。忘れてしまった記憶の中に、彼は存在したのだろうか。
二人の背中を見送った後も、一人外に立っていると、アルにどうしたのと呼ばれ、家へと入っていく。
花をテーブルの上にそっと置いた。
ロイはアルに勧められて、ソファに腰掛けている。並んで座る気にはなれなかった。自分は覚えてもいないし知らないのだから、すぐに仲良くする気にはなれなかった。
エドは一人壁際に立ったまま、男をじっと見つめた。

アルがそれを見て「兄さんも座ったら」と促してくるが「俺はここでいい」と首を振る。
そばに寄る事なんてできない。安心なんてできない。だって心臓はさっきからこんなに痛い。破裂してしまいそうだ。自分に痛みを与えているのは、この男なのではないか。
自分の態度に、男は気を悪くした様子はなかった。
視線が合う。それにどう返せばいい、睨みつければいいのか、笑えばいいのか。それより男の名前さえ聞いていない事に、気づいた。
「……あんた誰だ」
随分ぶしつけな声になってしまった。口にしてから少しだけ悔やんだ。
だってアルが知っていても、自分はこんな男は知らないのだ。言い訳を心の中で呟く。不躾な態度を取ってしまうのもしかたないだろう。
もしかしたらアルは騙されていて、こいつは悪い奴かもしれないじゃないか。気を許すわけにはいかない。もしもの時は自分がどうにかしなければ。
「兄さん大丈夫だよ」とアルが声をかけてくるが、エドは男から目をそらさなかった。今すぐにでもそばを離れたいのに、どうして、こんなに視線を奪われるのか。彼のせいだと思いたかった。

男はわずかに目を見開き、口元にわずかな苦笑を浮かべた。笑うと本当にこの男は印象が変わる。優しげにすら見えるから不思議だ。
「これは自己紹介もせずに悪かった。私はロイ・マスタング。軍人だ」
男の名を、エドは心の内で繰り返した。
ロイ・マスタング。聞いた事のない名前だ。記憶のどこを探しても、そんな名前は掠りもしない。忘れてるだけなのかもしれないけれど、その可能性は無視した。忘れてるんだとしても、関係ない。だって今の俺は知らないから。先ほどから何度も思う。
まるで確認したがっているようだ。

数十分前までの平穏が嘘のようだ。彼の来訪はまるで嵐。睨みつけたところで、男は気を悪くした様子もない。自分の視線を受け流してくる。


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