Bird in a cage 3怪我を負ったあの時。 己の体で庇っては後がない。自己犠牲と変わりない事はよくわかっていたが、しかし他に方法がなかった。他人には最後まで諦めるなと言っておきながらこの様か。 躊躇していては間に合わない。子どもの体を腕の中に抱き締めて庇った。次の瞬間、右肩に重い衝撃が走った。まるで灼かれたように熱かった。 肉が裂け、骨も折れただろう。そこから溢れるように血が流れていくのがわかった。焔で塞いだところで、どうにもならない。 手遅れだ、ここで死ぬのか。まさかこんな場所で終わるとは思ってもいなかった。 大切な子どもを残していく事が、悔やんでも悔やみ切れなかった。泣かないでくれと言葉にはならず、視界に暗闇が落ちてきた。 記憶にあるのは、そこまでだった。 次に目覚めれば、薄暗がりの中、真四角の部屋で横たわっていた。窓にはカーテンが引かれ景色が見えない。どこだと思って、鼻をつく消毒薬の匂いに気づいた。 ここは病院か。そう意識した途端、傷口だけではなく、体中が痛んだ。肩をやられたのだから、右腕を上げる事はできなかった。 あれだけの傷を負って、自分は助かったのか。 生きている事を喜ぶよりも、それを訝しく思った。錬丹術を使っても難しかったはずだ。賢者の石も、もうなかったのだから。 一度目を覚ますと、痛みで目が冴えてきた。 あの子どもは無事なのか、それに自分の部下は。疑問は多く浮かんだが、夜更けでは誰に尋ねる事もできなかった。 鎖骨の下も、また熱を持っている。気づいて何故だか違和感を覚えた。 左手で触って確かめたが、傷はついていないようだ。放っておくには、妙に気にかかった。しかたないので腕を伸ばし、横の引き出しを開ける。中には細々とした日用品が入っていた。紙にペン、櫛や鏡といったものまで。 ホークアイが用意してくれたんだろう。 明るい夜で助かった。灯りがなくとも目を凝らせば、何とかわかる。 鏡を当ててみると、熱を持っていると感じたそこには黒い痣が刻まれていた。最初は傷かと思った、血が固まっているのかと。 しかしそれは傷ではなく、六芒星に尾を噛む竜の形をしていた。 ウロボロスの証。業火で焼き尽くした女の胸にあった。隻眼の男の眼にも刻まれていた。そして、リンという少年の手の甲にも。 意識を失った時を狙って、取り込まれたのか。 リンは自ら宿したものだとエドが話してくれた。人の体に宿る精神体。力を増幅させる働きがあるという、身体能力、錬成の力さえも。そしてきっと治癒力も上がるのではないだろうか。 だったら助かった事も納得がいく。この痣のおかげか。自分の体に逃げ込み、死なせない為に傷を癒したのか。 人に見られるのはまずい。どうにか左手で錬成陣を記し、痣を隠した。 翌朝ハボックやホークアイと顔を合わせたが、彼らは刻印について何も言って来なかった。もし痣を見ているのなら、自分が隠した事について触れてくるはずだ。 しかし二人の態度に不審なものは感じられなかった。この意識を取り戻す共に、それは肌に浮き出てきたようだった。 シン国の青年はウロボロスを宿してから、表情、態度、声音さえも違っていた。自分もまたこの体を奪い取られるのか。 怖れよりも、そうなった場合の策を考えなければいけなかったが、手立てがなかった。 予想に反して、数日が経っても自分の意識を侵食される事はなかった。このままで済むという保障はなく、それは明日、明後日。突然訪れるものかもしれなかったが。 もし変化があった場合の事を考えて、エドは近づけなかった。見舞いに来たエドに逢わなかった事を、ホークアイは訝しく思ったようだが、何も言っては来なかった。 ホムンクルスには七つの大罪の名が冠せられていたはず。 強欲、怠惰、暴食、嫉妬、傲慢、憤怒、色欲。リンに宿っていたのは、強欲だった。望みのものを力づくでも手に入れなければ気が済まない。心に潜む欲を露わにして、欲しがり奪う性質。 ならば自分の欲はあの子どもに向かうだろう。 触れたいと、腕を伸ばすはずだ。意識がないのに、そんな真似をしてたまるか。自分の体であっても許せるわけがない。 もしも、そんな真似をするなら、この首を切ると決めた。 目覚めてから二週間が経った。 意識を侵食され、空白の時間が生まれる。そういった兆候は一度としてなかったが、印は依然肌に刻まれたままだった。 錬成陣を描いて試してみたが、威力が高まったという事もなかった。傷だけが驚く早さで、塞がっていった。右腕が使えなくなるかもしれないと言われていたが、この分では元通りになりそうだと医者が教えてくれた。 もしかしたら、自分の躯に潜むウロボロスは残り火であり、命数が尽きようとしているのではないか。そんな可能性が浮かんだが、確証は持てなかった。 痣が刻まれようと、自分には日常がある。療養だけに時間を費やしているわけにはいかず、こなせる範囲で病室に仕事を持ち込んだ。 医者には呆れられたが、傷の治りがいいせいで、一月程度で退院できるとの事だった。そんな中で、兄弟二人から見舞いの手紙をもらった。弟の手紙に比べて、兄の手紙は短かった。 逢わずに追い返した事を気にしているだろうに、よく手紙をくれる気になったものだ。便箋に綴られた言葉はそっけないものだったが、エドの想いが篭められていた。 読んでいる内に、自然と笑みがこぼれた。どんな顔で書いたのか見てみたい。 君は今、何を思っている? 私は君の手紙を読んで死なずにすんだ事を感謝し、生きているとようやく実感できたよ。 口元から笑みがゆっくりと引いていった。目を瞑って、便箋に祈りを捧げるように、口づけを落とす。 その瞬間、脳裏に純金の眼差しが甦ってきた。 どうしても欲しいと、喉が鳴る。これほど愛しい人間はもう現れないだろう。強く確信する。 あの時に決めた。 大切な子どもを手にいれる。もう触れる事を耐えない、抱いてしまおうと。 一度決めてしまえば、心は揺るがなかった。倫理観、罪悪感、そんなものは全て無視する事ができた。どの道、自分は地獄に落ちる。だったら怖れるものなどあるか。 あれだけの傷を負って助かったのは、運が良かったに過ぎない。 死の淵でエドを後に残す事を後悔した。自分以外の人間のものになるなど、到底我慢できる事ではなかった。 もうあんな想いは味わいたくない。 だから。どうか。 私のものになってくれ。代わりに全てくれてやる。私も君のものになるから。 その程度の事で許されるとは、もちろん思っていない。自分の行いがどれだけ残酷なものか、よくわかっていた。病院には医者の宣告どおり、一か月いた。退院して、自宅療養などするつもりはなく、すぐに総統府に復帰した。すべき事は、山のように溜まっていたからだ。 ブラッドレイというカリスマを失っても、軍部は瓦解しなかった。数十年かけて作り上げられた組織を破壊するには、相応の準備がいる。 人の代わりは幾らでもいるのだ、それが有能であるか無能であるかは置いてだが。 新たなトップが祭り上げられ、中央は祝賀ムードに包まれた。 数年後に、あの椅子を手に入れる。その前に欲しいものは、たった一つだけ。 決心はわずかでも揺らいでいなかった。迷う事もなかった。 街が浮かれ騒ぐ中で、まずは副官である彼女を東部に帰した。女は聡い生き物だ。自分が何を仕掛けようとしているか、遅かれ早かれ気づくはず。 阻まれるわけにはいかなかった。長年そばで尽くしてくれた部下を、私情で切るのはさすがに心が痛んだ。 エドは意外にも、彼女を帰した理由を聞いては来なかった。そして軍部に残りたい、そばにいたいと望んで来たのだ。あれは都合が良かった。 そばに置いておけば、以前のように護ってやれる。失う心配をしなくていいのだから。 竜の刻印を見せれば、自分の内に強欲が潜んでいると思うだろう。 騙して抱くのは、酷く簡単な事だった。 『自分』に対しての信頼は余程深いものだったらしい。この顔と声があれば、どんな淫らな事を望んでも従ってきた。 エドは心の内に入れた者に対し、甘い。そのエドを幾度となく求めて。何も知らない体を溺れさせて。一週間も閉じ込めれば、エドに情が湧くのはわかっていた。 抱かれる事に慣れた時に明かしてやろう。自分を憎むか、もしくは赦しを与えてくるか。 これは賭けだった。 |