Bird in a cage 2口づけを落とされた後に、抱き締められる。濡れてしまうからと力なく腕で押し返したが、ロイは聞いてくれなかった。 もう他に手段は残されていないのか。目をきつく瞑りながらまだ絶望はするなと、エドは己に言い聞かせる。 「俺に大佐、返してくれ」 返してくれと、ともう一度呟く。 自分が敵わないものだから、こうやって幼い子どものように言うしかない。力がないというのは罪だ。だから罰を受ける。 大切な人間を奪われるという罰を。 「私は君のものだと言っただろう」 慰めるようにロイは髪を、背を撫でてくれた。触るなよとその腕を払おうとする。こんなのただの八つ当たりだ。 「……っ俺のだって言うなら、その痣消してくれよ」 そしてロイの体から出ていってくれ。何でも聞いてくれるって言った癖に、嘘ついてばかりだ。ロイの軍服の胸元を両手で鷲掴む。何かにすがっていないと、床に崩れ落ちてしまいそうだった。 「痣が気に入らないなら、灼いてしまおうか」 灼くなど、思ってもみなかった答えが返ってくる。 その言葉にエドは目を見開いた。伏せていた顔を上げて、彼を見つめる。 「何、言ってるんだ」 喘ぐように、問い返す。 灼いてしまうなど、できるわけない。刻印には、ウロボロスの魂と力が宿っているはずだ。錬成陣と同じく、形がなければ保てないはず。 けれどロイの声に嘘は混じっていなかった。真意はわからないが、それが偽りではない事はわかる。 その痣の存在を知ってから、彼に何か変化はあっただろうか。態度も表情も、気配も、自分がよく知っている彼のままだった。 ただ、そこに痣があるだけの違いで、もうウロボロスなんて滅んでしまったのではないかと思う事もあった。それは有り得ない。エドは心に生まれた可能性を必死で否定する。 ウロボロスがいないのなら、ロイが自分に腕を伸ばしてくるはずがないのだから。 好きに抱かれた。 男に抱かれる事に慣れてしまった、無理やりそうさせられた。それが一年続いた。彼が。そんな真似をするはずがない。 そうだ、この間の言葉。 『君に憎まれるというという代償を払った』 刻印になど支配されておらず、彼のままであったというなら、あの言葉の説明がつく。 嘘だ。気づけば口に出していた。嘘だろ?と。 ロイは何も言わない。それが答えのようなものだったが、わかりたくなかった。 嫌だった。 「だって痣がっ……痣があるだろ!もう、俺の事騙そうとするなよ」 首を横に振れば、濡れた金の髪が乱れて、頬に降りかかってくる。彼に男を抱くなんて、そんな真似できるはずがない。自分が、ただ彼を好きだっただけだ。 「これか?病院で目を覚ました時に痣がついていた。ただの印に過ぎない」 だから君が望むなら灼いても構わないんだと。自分の動揺とは裏腹に、ロイは静かに答えてきた。 「強欲などいないんだよ、鋼の」 ロイの軍服から、エドは手を離した。もうそれを掴んでいる気力もなかった。 床に膝をついて座り込む。自分の描いた錬成陣が目に入る。黒炭で刻まれた円環を消し去ってしまいたい。こんなものは必要なかった。全て無駄だった。意味がなかった。涙も出なかった。 あれだけロイの前で泣いたから、涙はもう枯れてしまったのかもしれない。呆然としていれば、ロイが床に落ちた銃を拾っているのが目に入った。銃なんて、どうするつもりだ。彼を撃とうとしたから、今度は自分が撃たれる番なのか。 だったら殺される前に、一つ聞かなければいけない事がある。 「……いつから」 一言声をこぼす度に、喉が痛んだ。 ロイの意思によるものだとしたら、それは『いつから』そうだったんだ。 「いつからだと思う?」 ロイは問い返してくる。答えを聞くのが怖かった。わからないと、エドは首を振る。答えなくていいと言ってしまいたい。 ロイの答えは、自分の望むものではない。 きっと、彼は。こう言うだろう。 「初めから私は正気だった」 雨の音が、絶え間なく聞こえる。銃声を掻き消すには十分な激しさだ。 自分を殺しても、ロイが裁かれる事はない。焔で全部燃やしてしまえばいい。 エドは何度か瞬きを繰り返す。ロイはそれ以上何も言わなかった。二人の間に落ちる沈黙。それを破ったのは、エドの声だった。 「……俺を嗤っていたのか」 もがく様はおかしかったかと、エドは自嘲の笑みを浮かべながら問う。 俺は馬鹿だから。 「あんたが元に戻って、俺の事軽蔑したらどうしようかとまで思ってたんだ」 抱かれていく事に慣れて、少しずつ拒まなくなっていった。受け入れていった。 だって好きだったから。ロイが好きだったから、十一の時からずっと。 そしてこんな事になった今でも。 「軽蔑されるべきは私だ」 何言ってるんだよと、エドは幼い子どものように呟いた。 その声は小さく掠れ、エドがどれだけ傷ついているか、ロイにはよくわかった。 悔いはしない。エドを傷つけるのは、最初からわかりきっていた事だ。告解も懺悔も必要のないものだった。そんな事をするくらいなら、最初から罪を犯さない方がいい。 ロイは床に落ちる細い肩を、ただひたすら見つめる。 君を抱きたかった。数年もそんな欲を抱えて生きてきたんだと告白すれば、エドはどれだけ怯えるだろう。その様は容易に想像がついた。 欲しいのは、十四も下の子どもだった。 狂っているとしか思えない。それは戦争に行ったせいではない。自分という男は、最初から何かが欠けている。人に知られれば、唾棄される想いを抱えていた。 祝福される恋ではないとわかっていながら、それでも。女の柔らかさも重みもないこの子どもだけが欲しかった。 七年前に東部で出逢った。禁忌を犯す事を躊躇わない歪んだ一途さ。 失った全てを取り戻すというなら、それを助けて見届けてやるのも面白いと思ったのだ。 一年、二年。年を経る毎に、自分に見せてくれるエドの表情が増えた、甘えられ、願いを聞いてやるのが楽しかった。 意地を張った口調で礼を言われ、それを受け止めて。照れたように笑ってくる。 少しずつ惹かれ、溺れていった。 柔らかい唇に触れたいと願ったのは、いつだったか。想いを抱くだけならまだしも、それだけは許されなかった。 堕ちるわけにはいかなかった。 この子どもは数年後には自分の元を離れ、誰かのものになるのだろう。思っただけで、相手を焼き殺してやりたい程だった。 まだ見ぬ相手に嫉妬する自分を嗤うしかなかったが、執着は増すばかりだった。自制心でエドに腕を伸ばす事に、必死で耐えていた。告白などできるわけがない。一度でも金の髪に触れて、口づければ終わる。 笑みを見られるだけで十分なのだと、言い聞かせてきた。どれ程の執着を抱こうとも、一生耐えなければいけない。これはそういう感情だ。 その代わり、誰よりも慈しむ。持てる限りの力を尽くして護ってやる。望みなら幾らでも叶えてやるから。 理解ある、優しげな大人の態度を取って、一年前まで過ごしてきた。 どうかそばにいてくれと、卑怯にも願っていた。 床に座り込んだまま。エドはゆっくりとロイを見上げてくる。純金の両眼は潤んで揺れていた。 「どうして。俺が大佐を軽蔑なんて。するわけない……」 君を辱めた男にも、こうやって優しい言葉をくれる。好きだよ。 だからどうしても欲しい。 この痣が刻まれ、機会を与えられたと思った。 |