Liar 1総統府から官舎に戻ってきて、何時間経っただろう。 黒い帳が、空を覆い尽くしている。陽が落ちて、月も星もない昏い夜がやってきてしまった。 今日は長い夜になる。 執務室から逃げるように去って、いつもどおりの顔を装い、仕事をこなして。その間にも、彼の言葉が頭を離れなかった。 夜に逢いに来てくれという意味の声は多くの事を思い出させる。彼の体温や、匂い、腕の強さを。 官舎の部屋に戻ってきてから灯りもともさないまま、エドはベッドに腰掛け、手の中にある銀時計を玩んでいた。その度に銀の鎖が瀟洒な音を立てる。東方司令部で君のものだと手渡されてから、五年が経つ。 『おめでとう、これで君も軍の狗だ』 ロイは不敵な笑みを浮かべて、言い放ってきた。 どれだけの年月が経とうが、その声はつい先刻聞いたかのように思い出せる。 嘘が上手いな、大佐は。 旅をしていた四年の間、一度だって軍の任務を果たした事はなかった。俺はずっと大佐に守られていたんだ。 時折、彼のいる司令部に立ち寄って、報告書を提出する。旅の話をしてくれとロイに請われ、話して聞かせる。 無茶をして怪我をしないように。何か困った事が言うようにと司令部を送り出されて。そうして年に一度査定を受けて、レポートを出せば済むと信じていた。ロイがそう言ってくれたからだ。 莫大な研究費に、将校格の待遇を与えられて、それで済むわけがないだろうに。 気づかずに過ごしてきたのは、彼の嘘のせいではない、自分が甘かったんだ。ロイはそれを咎める事も叱責する事もなかった。 そして自分は無意識の内に思っていたのではないか。ロイは何をしても怒らない。望めばどんな事でも叶えてくれると。 「……馬鹿でやんなるな、俺は」 独り言を呟く。室内に空しく響き、消えていった。まだ決心がつかない。立って、行かなければいけないのに。 手の中の銀時計、過去の思い出にすがったところでどうする事もできない。エドは名残惜しげに表面に刻まれた模様を、指で辿っていく。 六芒星に捕らわれた獅子、直轄府の紋章。総統府の付属機関のはずなのに、その獅子を星の中に閉じ込めるなんておかしいだろう。 これを見れば、錬金術がアメストリスでどれだけ重要視されているかわかる。野心ある軍人は優秀な錬金術師を手駒に欲しがる。自分のような人間に声をかけてくる者も多い。 国家錬金術師資格を取り、使えるようになるまで数年。後見を務めたロイを、辛抱強く待ったものだ。 その間、子どもの躯を楽しんだのかと、揶揄する声も聞いた。そういった雑音を旅をしている間、聞いた事がなかった。彼が全て封じ込めてくれていたに違いない。 もうあの頃のロイはいない。ウロボロスに奪われてしまった、だから取り戻さなければ。 時計の蓋を開けて、閉じる。その動作をエドは何度か繰り返した。もし、あの男の誘いを無視したらどうなるのか。わかりきっている、もっと酷い事になるんだ。 今日告げられた言葉のとおりに自由を奪われるのだろうか。外に出してやるのも、今の内だけだと思った方がいいと、口にした男の眼差し。脅しではない、あれは宣告だった。彼がその気になれば、現実になってしまう。その前に方法を見つけなければいけない。 こんな事になるなんて、一年前は思っていなかった。あの日は今日よりも暗かった。しかし夜の深さなど怖れるものではなかった。 それよりも、久しぶりに彼に逢える期待や喜びの方が、ずっと大きかった。浮かんだ不安など、気づかないふりをした。 彼に逢ったら何と言おうと、歩く道すがらずっと考えていた。 まずは助けてくれた事に礼を言おう。 助けてくれてありがとう、大佐がいなかったら俺たちはどうにもならなかった。旅を続ける事ができたのも、アルの体を取り戻す事ができたのも、全部大佐のおかげだと、彼の目を見て伝えるんだ。 そうして怪我をさせてしまった事を謝るんだと、繰り返し思っていた。 エドは脳裏に浮かんだ一年前の情景を消し去るように。数瞬、きつく目を瞑る。 行こう。 いつまでも、ここに座り込んで逃げている場合ではない。 そう決めてベッドから立ち上がって、制服を脱ぎ捨てる。 まさかこの格好のまま行くわけにいかない、誰かに見咎められた場合を考えて、なるべく人目につかない格好をしなければ。 こんな夜に彼の邸に入るところを見られたら、またろくでもない噂が立てられる。コートについたフードを目深に被れば、顔を隠せる。 身分証にもなるが、銀時計は持っていかない事にした。これは彼がくれたもの。捕らわれた獅子に口吻けをして、机に置いた。 昼間と同じ雲が覆っているのか、夜空には月も星も見えなかった。 ロイの住まいは街の郊外にある。 歩いていくには距離があったが、頭を冷ますのにちょうどよかった。外に出てしばらく歩くと、いつもと違うようだと気づいた。 セントラルは夜であっても騒がしい。しかし不思議な事に、今日はやけに静けさを保っていた。まるで嵐の前触れのよう。生ぬるさを含んだ風が、エドの頬をなぶっていく。 こうも静かだと、初めての夜を思い出す。 考えないように努めても、ふとしたきっかけで甦ってくる。 考えないようにして、また思い出して、目的の場所まで辿り着く。彼の邸までとうとう誰とも行き会わなかった。まるで自分一人しかいないと錯覚させられるようだ。 手入れのされていない庭は、もの寂しい。荒れるに任せているといった風情だ。庭師を入れるつもりもないんだろう。 邸を見上げても、部屋のどこにも灯りは見えない。鍵はもらっている。投げ捨ててしまおうかと何度思ったか。結局できないまま、その鍵を使って扉を開けると視界の先には暗い廊下が広がっていた。 試しに、大佐いないのかと呼びかけるが、返ってくる声はない。ロイはまだ戻っていなかったらしい。こんな時間までまだ総統府にいるのか。 主のいない邸で、一人待つのは初めてではない。 廊下を進んで、部屋の扉を開ける。そうしてソファに腰を下ろす。 火の気のない室内は、肌寒かった。夏が近づいているのに、夜ともなれば冷える。暖炉に火を入れるのも面倒だ。耐えられない程ではない。 もっと便利なところに越せばいいのに。 俺は何を考えてるんだ。そうしたらもっと心配しなければいけない事が増える。どうやって人目につかずに、ここまで来ようかとか。 「来ないなら、帰るからな」 あまりの静けさに負けて、独り言を口にする。声はしんとした室内に吸い込まれるように消えていった。 軍の中において、彼の評判は二つに分かれている。 上には自分達の席を脅かされるという理由で嫌われ、下には英雄としての名が通り、好かれているからだ。下士官達は彼を信頼している。司令官としての彼は怖ろしく有能で、彼の指揮ならば生還率が高いからだ。 彼は軍人としての美徳を数多く持っていた、合理主義であり、実利主義。 こんな関係を築いていなければ、自分も疑わなかったに違いない。彼の中に、ウロボロスが潜んでいるなど。痣を見た今でも、信じたくないという自分がいる。 彼の中に潜む欲は、何を望んでいる。 この国に再び血の錬成陣を築きたいのか。しかしその気配は見えない。彼が内政に力を入れようとして、法案を出している事も知っている。 「何がしたいんだよ……」 いくら考えてもわからない。 痣がある以外、元の彼と何も変わりないように思う。それが怖い。変わりがなくても、あれは自分の大事な大佐ではない。騙されてはいけない。 本当の彼は囚われていて、あれはロイのふりをしているだけなんだ。だからそばにいる、そして取り戻す。誓ったはずだ。 それまではこの体を抱こうがどうだっていい。相手にとっては、ただの暇つぶしに過ぎないとわかっている。 手足は機械鎧。肉もない柔らかみに欠ける男の体を抱いて何が楽しいのかわからないが、女を犯すよりは、ずっといい。 彼に、そんな真似はさせられない。だったら自分で済ませてくれた方がましだ。体なんて大した事はない。自分に言い聞かせる。大した事ではないんだ。 大切なのは彼を取り戻す。それだけだ。 一時間も経っただろうか。窓の向こうから、車の止まる音がした。ああ、帰って来たのか。 鍵を開ける音、扉の開く音。そして規則正しい軍靴の音が聞こえる。姿を見せたロイは羽織っていたコートをそばの椅子に投げ捨てて、軍服の襟元を緩めてきた。 「待たせたか」 何もかも、昔のロイと変わりない。こうして見ても違いがわからなかった。 「仕事好きだよな、そういうところだけは変わらねぇの」 嘘だ、全てが同じだった。 「私はいつだって真面目だぞ。君が知らないだけだ」 「嘘つけ。中尉に無能って言われてたくせに」 依然のような軽口の応酬。 こんな風に話したいわけではない。決意が鈍ってしまいそうで怖かった。 本当は顔も見たくない、声も聞きたくない。取り戻す方法がわかるまで離れていたい。理性ではそう思うのに、感情が相反する。 その姿が自分を惑わせる。 エドは口を閉ざし、ロイを見つめる。どうしたと問いかけてくる、これは彼の癖だった。頼みづらいと思って口ごもっていると、そう言って促してくれる。言葉にすれば、何だって叶えてくれた。 声も響きも同じだが、違いが一つある。もう自分の望みを聞いてくれない事だ。けれど言わずにはいられない。これで何度目だろう。 無駄な言葉を口にすると、眼前の男は嗤うだろうか。 「返せよ、俺の大佐を……」 それが望みだった。たった一つだけだ。ロイはエドの横に腰掛けて顔を覗き込んでくる。 「私は君のものになった覚えはないが」 涼しげな声で、容赦のない皮肉をぶつけてくる。物言いも、声の響きも、ロイ以外の何者でもなかった。エドの赤みが差す。屈辱を感じ、手が震えた。 そんな事は自分がよくわかっている。ロイに言われるのならまだしも、偽者に揶揄される覚えはない。奥歯を強く噛んで耐えるしかなかった。 悔しく、悲しい。 「それは悪かったな。言い直すよ、確かに俺のものじゃない。でも『あんた』のものでもないんだ」 「だったら、誰のものだと言うんだね」 腕が震える、感情が爆発しそうになる。力がないのに怒鳴ったって何もならない。エドは乱れる息をどうにか整えて、ただ一言、強く言い切った。 「大佐のものだ」 強欲など大罪の名がつく者が宿っていい人間ではない。俺の大事な大佐のものだ。返せよと、エドは呟く。何でもするから返してくれと響きは懇願に変わる。 誇りなんてないに等しい。彼を返してくれるなら、何だって良かった。 そしてロイの姿をした者に切り捨てられる。 「君の言うことはよくわからない」 私は私だと。 「……わからないなんて、嘘だ……っ煉獄に帰れ、大佐の体から出ていけ」 「言いたい事はそれだけか。鋼の」 男は値踏みするような視線を、投げかけてくる。 「俺のことを、そう呼んでもいいのは大佐だけだ!呼ぶなよ」 銘を呼ぶ声が憎い。これが彼の声でさえなければ、冷静でいられるのに。 己の無力さに、胸に熱いものが込み上げる。 「何故そんな事を言う?君をセントラルまで連れていって、銀時計をくれてやっただろう」 セントラルで私を脅してきたじゃないか。 懐かしい思い出を語るな。ロイのふりをするのは止してくれ。 「……言うなよ。何も知らないくせに」 拒めば、ロイが腕を伸ばしてくる。その手で頤を取られた。顔を背けようとしても叶わない。嫌だと呟くが聞き届けてはくれない。 「文句は聞き飽きた、もっと可愛い事を言ってくれ」 しゃくりあげそうになる声を、エドは殺す。泣きたくない。泣きたくなんてないのに、熱い塊が喉までせり上がってきそうになる。耐えられなくなったら、これが涙になる。 ロイはエドの頤を離し、頬を撫でてきた。髪を梳いて、すまなかった、私が言いすぎたと謝ってくる。 エドはその言葉に奥歯を噛み締めた。 何て卑怯な真似をするんだ。 そうして左の手首を取られ、肌に口吻けを落とされる。いつも最初はここにキスしてくる。それが抱かれる合図だった。暖かい唇の感触に、心にさざ波が立つ。 彼に触れられる事を、どこかで喜んでいる、自分が一番醜く汚れている。 金の両眼に涙が溢れ、頬を伝っていった。泣かないでくれと請うロイの声もまた優しく、先程見せた冷たさは嘘のようだ。 ロイが眦にもキスを落とし、舌で涙を舐め取ってくる。こんな時だけ、昔の彼のような顔をするのは卑怯だろう。わかってやっているのか。そうに違いない。 そして簡単に落ちる自分を嘲笑っているに違いない。 |