BENNU | ナノ


▼ 006 親の想い、息子の意地

 唸るような低い声と険しい目をした壮年の男が、レニを見下ろしていた。
 眉間と口元に深い皺を刻んだ、少し老け顔のノイマン隊長。きっとこの皺は、レニの悪戯に振り回されたせいでついたに違いないとアークは思っていた。つい先日のナキア森での演習でも、隊長のテントに蛇を放り込んで大目玉をくらったばかりだ。そしてまた今日も、その皺を深くするようなことを、レニがしでかしたのだろう。隊長の皺に縁取られたアーモンドのような茶色い目には、呆れと怒りが見てとれる。
 アークの体を押し、隠れていたレニを引っ張って乱暴に向き合わせる。
「またやってくれたな、ヴォルテール」
 斜め下に目を伏せ、レニは俯く。しかし、アークには反省しているようには見えなかった。むしろ、笑いをこらえているように見える。
「隊長。レニ、今度は何をしたんですか?」
 アークがたずねると、隊長はふっと表情を緩めた。
「ああ、ベッセル。まったく、こんな大馬鹿者がそばにいるなんてお前も苦労するな」
「本当に。おかげで謝るのがうまくなったような気がしますよ」
 肩をすくめて見せると、隊長はくつくつと笑った。皺は深くなるが、しかめっ面をしているときよりもずっと若くみえる。張り詰めた空気が少し和らいだ。
「久しぶりだ。もう怪我はいいのか?」
「はい。おかげさまでだいぶ良くなりました。これからまたよろしくお願いします」
 隊長は満足そうにうなずいた後、申し訳なさそうに言った。
「復帰早々すまんなベッセル。今回も迷惑をかけることになりそうだ。私はこれから訓練があるが、この大馬鹿者一人には後始末を任せられん」
 レニの頭をつかんで揺すりながら、隊長は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「この愚か者、団長殿の執務室に鉄屑なんぞ投げ込んだのだ! おかげで執務室の窓ガラスは粉々だ。いったい何枚執務室の窓を割れば気が済むのだ!」
 開いた口が塞がらなかった。王都フラムが誇る蒼き草原の守護者、王国騎士団マルアーク――その長である騎士団長の執務室に、鉄屑を投げ込んだだって?
 驚きのあまりだらしなく口を開けたままのアークを見て、レニがぷっと噴き出す。それに隊長が憤慨し、レニの頭にげんこつを落とした。
「痛ってぇ!」
「このたわけが! お前の頭には反省という言葉がないのか! 早く謝罪と掃除をしに行け。私としては、掃除は女中に任せてお前にはもっときつい罰をくれてやりたいところだがな。団長殿は犯人にさせろと仰せだ。騎士団長殿直々のお達しだぞ、きっと相当お怒りなのだろう。しっかり怒られて来い、この馬鹿者が!」
 えっ、とレ二が驚きの声を上げる。緩んでいた頬はいつの間にかひきつり、冷や汗を浮かべ始めた。固まるレニのかわりに、アークが問いかける。
「団長、前線から戻られたんですか?」
「そうだ。先ほど戻られた。悪戯の時宜をたがったなヴォルテール。叔父上殿にたっぷり搾られてくるといい。ベッセル、しっかりと団長殿の所にこれを送り届けてくれ」
 一度だけにやりと嬉しそうに笑い、早く調練場から出て行けといわんばかりに隊長はレニの背を押した。そのまま、レニは振り返らずに門に向かって走っていく。アークも慌ててレニを追いかけた。
 集まる視線を振り払うようにして、少年達の間を走り抜ける。背後では、隊長が「整列だ!」と声を張り上げていた。
 門を出たところで、レニに追いつく。
「まさか叔父貴が帰ってきてたなんてなぁ。くそ、本当に時期を誤ったな」
 ひとり言をつぶやき、レニが悔しそうに舌打ちする。
 王国騎士団マルアーク団長、リリ・ヴォルテールはレニの叔父だった。昔、一度だけ会ったことがある。うろ覚えだが、アークよりも大きいがっしりとした大男だった。
「おい、あの馬鹿の言った事気にするなよ」
 レニは突然、追いついてきたアークに言った。一瞬、突然すぎてアークは「あの馬鹿」が誰の事か分からなかった。レニの険しい顔に、オレンのことだと気づく。
「別に他国からの移住者なんてめずらしくも何ともない。確かに、今は同盟国とごたごたしてるから厳しいけど、先代の王の時はよくあった話だ。蛮族だなんて、排他的で頭の固い一部の奴らの勝手な持論さ。実際、親父さんの店は昼時人でごった返すだろ? 親父さんを慕う常連客ばっかりじゃないか。みんなちゃんと分かってるんだ。ベッセル家に蛮族なんていねぇよ。絶対だ」
 そう言ったレニの目は真剣で、嘘はどこにも感じられなかった。
 澄みきった空のように、見上げてくるレニの瞳は透明でまっすぐだ。レニにはかなわない――アークは心底そう思った。
「ありがと。でも、言われなくても分かってるさ」
「おっと、一言多いな」
「そこは勘弁してよ。知ってるだろ、僕は素直じゃないんだよ」
「口だけな」
 隠し切れないはにかみを浮かべながらレニの肩をこぶしで軽く叩くと、「おう」と満足そうな返事が返ってくる。アークを見上げ、白い歯を見せていつもどおりの悪戯っ子みたいな満面の笑みを浮かべた。
 しかし、レニがはたと足を止める。はっとしたように目を見開き、突然アークの胸倉をつかんだ。前触れのないレニの行動に面食らう。
「な、何?」
「オレンのせいで忘れてた。お前、なんだあの剣の構え方は! あのなっさけねぇへっぴり腰、入団したころに戻ってるじゃねぇか!」
 ぎくりとした。この七日間に自分がしていた事を思い出し、気まずくてレニから視線をそらす。
 レニはそのアークの表情の変化を見逃さない。
「確かに鈍ってると思ったけど、ありゃないぜ。そんなに深い傷じゃなかったし、途中からはもう十分腕動いてたろ。それなのにお前……一度も剣を握ってないな?」
「そんなこと、ないよ」
 ぎこちない返事だった。ごまかせない。
「嘘つけ。もしそれが本当だって言うなら俺の目を見て言ってみろ。剣はな、お前の口と違って正直なんだ。休養の間、何をしてた?」
 レニの予測は外れていない。図星だった。ばれなければいいとずるい事を考えていたが、どうやら隠し通せそうにない。レニの見透かすような瞳が、これ以上の嘘をつくことをためらわせる。
 アークは降参だと両手を挙げた。
「分かった。白状する。レニの言うとおりだよ。七日間、剣の素振りをするどころか触ってもいない。一度もさ。来月からの新作メニューのレシピとか考えたりしてた」
 レニの口が、怒りの言葉を忘れてあんぐりと開いた。すぐに怖い顔に戻り、胸倉をつかむ手に力が込められる。喉元が絞まり、少し苦しい。
「なんで素振りのひとつもしねぇんだ、この間剣の腕がないせいで死にかけたばっかりだろう!」
「そんなの、僕が一番良くわかってる。だから、とりあえず離して。言い訳させてよ」
 怒りを必死で抑え、レニの手がゆっくりと離れる。締められた喉元をさすりながら、アークはふうと息をついた。
「父さんが、僕の剣を隠しちゃったんだ。それから団服も」
「親父さんが?」
 レニが訝しそうにたずねる。
「完全に治るまで触るなって。もちろん反論したさ。実際、自分が弱いせいで腕に怪我をしたんだから」
 治りかけの腕をさすると、森での恐怖が甦る。鼻につく腐敗臭に、鋭い爪と牙。目の前で大きく開いた、どこまでも真っ暗な口蓋。死者の国への入り口のようだった。あのとき、確かにアークの隣で死神が笑っていた。レニが来なかったら――そう考えるだけでも恐ろしい。
「だから僕もさ、少しはちゃんと剣の練習しなきゃって思ったんだ。剣で戦う事、今でも嫌いだよ。……できることなら、ただの市民に戻って料理を作っていたい。でも騎士団にいる以上、きっとまたこの前みたいに危険な目似合う。嫌いだなんて言ってられないこと、本当にやっとわかったんだ。だけど……」
「気づいて早々、親父さんに剣を隠されちまったってわけか」
「そうゆうわけ。昨日の夜、やっと見つけ出したんだ。訓練への復帰の説得も大変だったんだから。……本当は、父さんはまだ納得してないんだけどね」
 腰に佩いた剣の柄を握り、肩を落とす。
「……このまま騎士団に戻らないで欲しかったんだってさ」
 七日の間に、何度父親に「剣と団服を返してくれ」と言ったか分からない。その度に、最近心労で一気に老け込んだ父親の顔が辛そうに歪められた。それが嫌で、アークは返してくれと頼むのをやめ、自分で家の中のあちこちを探し回った。
 そうしてようやく昨晩見つけ出し、父親に復帰を説得したのだ。心配性の父親だ。予想通り、賛成の言葉はもらえなかった。今日の早朝訓練は、父親が開店の仕込みをしている間に、半ば家を抜け出すようにしてこっそり出てきたのだ。
 あのときは早く訓練に復帰しなければと焦っていたが、今になって思う。今日、なんと言って家に帰ればいいのだろう。
 レニは眉を顰める。そして妙に納得しように、腕を組んで頭を振った。
「お前が怪我した事が相当こたえたんだろうな。だから、つい思い余って剣を隠しちまったんだ」
 怪我をして演習から帰った夜、命に関わるような傷ではなかったが、父親は今まで見たことがないほど取り乱していた。家まで送ってくれた医療班の人を、アークまで身が竦むくらいの激しい剣幕で怒鳴りつけたのだ。
 ただの演習ではなかったのか。私の息子を殺す気か、この嘘つきめ――
 あんなふうに人を罵り怒鳴りつける父親を、アークは初めて見た。そしてあの日以来、父親は騎士団への不審と不満を募らせている。剣と団服を隠してアークの復帰を遅らせようとしたのは、息子への心配はもちろん、国への反抗心も多少含まれていたのかもしれない。
 レニがアークを見上げる。少し眉根を寄せてアークを見るその目は、映しこんだ空の青が揺らめいていて、吸い込まれそうなほどに深く潤む。泣くんじゃないか――そう思ったが、青は瞳の底でたゆたうだけで溢れはしなかった。その揺らぎはぞくりとするくらい、レニを大人びてみせる。
「俺さ、親父さんの気持ち分かるよ」
 そう言ってから、ふっと目を逸らす。そして不意にくすくす笑い出す。少し自嘲気味の笑いだった。
「俺も、俺の親父が生きてた頃同じ事したことあるんだ。ずっと昔のことだけどな」
 小さな呟きだったが、アークには聞こえた。
 言って、レニは空を仰ぐ。太陽が上がり始め、早朝の冷たかった空気が温かみを増してくる。雲ひとつない、快晴の空。その真っ青なキャンバスに、一羽の鳶が飛んでいた。空高く舞う鳶は、優雅に弧を描きながら風に乗る。レニの目はその鳶を通り越し、どこか遠くを見つめているようだった。

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