▼ 019 臆病者
誰も、何もしゃべらなかった。時折風がいたずらに窓を揺らし、沈黙が満ちた部屋に雑音を放り込む。
「一緒に、宿に戻りますよ。……話はそこでしましょう」
ブロウを探し当て、それだけ呟くとロイは踵を返した。ほんの数秒だけ合わせた彼の目には、今までにないほどの怒りが秘められていた。
今もまだ、その怒りは消える気配を見せない。その後ろに立つゴディバとナディアが所在なく寄り添い立ち、プルガシオンは初めて会うロイを興味深そうに観察しながら、ベッドの上で丸くなっている。
ただ一人、ダアトだけがいつもと何も変わらぬ微笑を投げかけてくる。それが、ブロウは堪らなく腹が立った。
「すまない、ブロウ殿……今朝方、ロイ殿に正体は明かさないと誓ったばかりなのに」
初めに沈黙に耐えかねたのは、ゴディバだった。申し訳なさそうに切りだした彼女の言葉に、ロイが首を振る。
「謝らないで下さい、殿下。あなたは何も悪くない」
「そうだよ。全てをばらしたのは私だからね」
悪びれもなく、ダアトが言う。
「てめぇ……」
「ブロウ。今は法王ではなく、俺を見て下さい」
ロイが、静かにブロウの言葉を遮る。
「この俺の目を、真っ直ぐに」
一歩、ロイが距離を詰める。それだけなのに、圧迫感が増す。ブロウは思わず一歩引いしまった。
「俺は何かを知るなら、あなたの口からと思っていました。でも、思いがけず、法王から多くのことを聞かされてしまった。多くを……知ってしまった。そうなった以上、俺は……もう何もせずにはいられない」
ふっと、ロイが意を決したように短く息を吸い込んだ。
「ブロウ……旅はここで終わりです」
ロイとは反対に、ブロウからは長い息が鼻から漏れる。
背を向けてきたこと全てが、今、ブロウに覆い被さろうとしていた。その口火を切るのがロイであることが――こんなにも重いとは。
「ラルガラ雪山の一件であなたが竜族であると知ってから、何となくですが、その矛盾に気がついてはいました。竜族は、三百年前に聖祉司によって封印されたはず。ブロウ、あなたは……同族を裏切り、ただ一人、強大な力に屠られる大陸側についた竜だったんですね。聖祉司に協力し、竜族とその僕たる煤を異界へ封じるための『鍵』を提供した。それが……あなたの左目だ」
ブロウの縫い合わされた目蓋を見ながら、ロイは言う。
「しかし先の白の庭の炎上で、それは失われた。だから……あなたはあの時、あんなにも無いはずの左目を痛がったんだ」
「そう。そして過去のように、もう一度助けてほしいと頼みに行った私を追い返した。私に関わるということは、再び同族を裏切るということだから。そして同時に君の想い人を――『ルドラクシャ』を思い出すことだから」
「てめぇ、よくもべらべらと……!」
「聞け、ブロウ。君はそろそろ前を向くべきなんだ。いつまでも腐り続ける友を、私はもう見たくないよ」
「ロイを、無関係なやつを巻き込んで何を偉そうに」
「おや、心外だ。彼を最初に巻き込んだのは君だろう」
ロイを指さし、ダアトは微笑を深くする。
「いくら慕われようと、拒絶しようと思えばできたはずだ。それをずるずる連れだって旅を続けたのは、君だ。この状況を招いたのは、間違いなく君の甘さ故だよ、ブロウ。その証が、今手にしているロイの分の武器だ」
反論のしようもなかった。それはつい先頃、自分でさえ気がついた矛盾だ。それをずばりと指摘されることが恥ずかしく、また憤ろしかった。
知らぬうちに、求めていたのだ。そして間違いなく、ロイは失い難いと思う存在となった。だがそれを手にするかと己に問えば――それは。
ベッドの上のプルガシオンが、すっと立ち上がり、ブロウのそばに来る。上手く服を駆け上がって肩の上に収まると、頬ずりをした。
僕はその甘さが好きだよ、ブロウ。だいじなひとなら、一緒にいたいのは当然だもの。
「……うるさい。お前は黙ってろ」
すり寄るプルガシオンを払いのけると、彼は驚いて一目散に主人の胸へと飛び込んだ。
「ブロウ……どうして、殿下とナディア姉さんのことを、俺に隠したんですか。法王がいなかったら、俺は大切な幼馴染が生きていたと知ることのないまま、ルルカ諸島を目指していた……」
プルガシオンを目で追ったロイは、二人を指さす。
その理由を吐露することなど、できるはずもない。胸にわだかまる矛盾は、決してロイにだけは知られたくなかった。
「フランベルグの二人と関われば、俺が余計なことを言うと思いましたか。……そうまでして、早くルルカ諸島へ行きたかったですか」
拳を強く握りしめながら、ロイがまた一歩ブロウに詰め寄る。彼の激しい感情の波が、どっと押し寄せてくるようだ。
「あなたは煤を使役できる力を持つ竜族で、その同族を封じる要となった人だ。だからこそ、封印の鍵が壊されたことも当然知っていて……あの煤の異常発生の理由も知っていた! なのに……あなたは逃げた。ウガン砦のみんなを置いて――!」
握りしめた拳で、ロイはブロウの胸を叩いた。ずしりと、重みのある衝撃が、ブロウの胸に響く。
「俺には、あなたの過去とか、想い人のこととか、そうゆうことに口を出す資格はありません。でも、ウガン砦に関しては違う。あそこには、俺の仲間、友達――大切な人がたくさんいる」
言いながら、ロイはよりいっそう拳を強く握りしめた。もう一度強く、ブロウの胸を叩く。
「法王から聞きましたよ。あなたはラルガラ雪山で、グローネンダール領の領主(ガルタ)に会ったそうですね。そこで聞いたはずだ。『副隊長が俺達の脱走を報告していない』と――領主は、とても厳しい方です。副隊長のしたことがばれたら、更迭じゃすみませんよ。これが何を意味するか……分かりませんか!」
またひとつ、ブロウの胸を叩く。まるで、そうすることでブロウに何かを訴えるかのように。見えぬ心の底まで、気持ちを伝えるかのように。
「あなたは信頼されているんです! イラが猛威を振るう最悪の状況下で、部下を見捨てるはずがないと、必ず、帰って来ると――それなのに……それを知ってもなお、逃げ続けたんだ!」
最後の方は、声が震えだしていた。それでも、ロイはブロウから目を離さない。たとえ、涙で視界がにじもうとだ。
「ブロウ、お願いです――砦に、帰りましょう。俺はもう……大切な人達がいなくなるのは、ごめんです」
消え入るような声で、ロイは懇願した。その脳裏には、今まさにロズベリーでの出来事が思い起こされているのだろう。
部屋は、再び静寂が満ちた。ロイの熱を持った息遣いが、規則的に静寂を揺らす。
その中で、ブロウがロイから一歩退いた靴音が、かつんと虚しく響いた。
――この命ある限り、俺はいつまでもお前を呪うぞ! ブロウ、この……裏切り者め!
頷けば、そう再び罵られるのだろう。
――もしも……もしもよ。恐れていた事になったら、その時は……
同族を裏切った報いで失ったものを、再び鮮明に思い出すのだろう。
ぞっとした。
とん、とロイの肩を押し、遠ざける。
甘かったのだ。ぬるま湯の居心地の良さに、すっかり惑わされていた。許されざるものを手にすることを――こんなにも、望んでしまっていた。
手に持ったままだったロイの分の武器を、床に放る。がちゃんと重い金属音に、ロイがびくりと肩を震わせた。
何も見ず、何も聞かず、何にも関わらず。そうすることで、ブロウは『生きる』ことを自分に課すことができた。それは一本の糸のような、か細く頼りない、ブロウの存在理由だった。
生き続けること。それは契約者であるダアトを生き続けさせ、彼の中で眠る封印の根源たるオーブをも、半永久的に存続させることができる。同族を裏切った罪も、想い人を失った失態も、そのか細い糸に縋ることで、全ての感情に蓋をすることができたのだ。
そんな自分が、何かを望むことは許されない。
ロイと過去。それらを天秤にかける勇気すら持つことができない、臆病者だった。
だから結局、選び取る答えはいつだって一つだけだ。
「持って行け。……餞別だ」
逃げる。
それしか、俺にはできない。
「お前とはここまでだ――ロイ」
名を呼ぶ声を背に、部屋から逃げた。
宿を飛び出し、大通りを抜け、宿場町を後にする。キャラバンに踏み荒らされた雪の地面の、雪の白と土の黒が、混ざり合って靴を汚す。
仰いだ空は、憎らしいほどに青く晴れわたっていた。風は凪ぎ、ラルガラの尾根にかかる雲は島のように動かず、ぽっかりと青の中に浮いている。
「ルー、俺は……どうすればいい」
ブロウの問いは高い青空に吸い込まれ、消える。
彼女の愛した風は、終ぞ何も答えてはくれなかった。
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