BENNU | ナノ


▼ 020 風葬

 傾く西日に照らされた草原が、緩やかな風に撫でられさらさらと鳴いている。
 その涼やかな音色の向こうには、微かな潮騒が聞こえた。海が近い。漂う潮の香りに誘われ、アークは海の見える丘へと足を向けた。
 防風林の木立を抜け、緩やかな坂を上る。一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、潮の香りが強くなる。波が巌を打つ規則的な音が、アークの歩調を早めさせた。
 自然の奏でる深い息遣いは、ちっぽけな人間を圧倒する。そんなところに、心にぽっかりと穴を開けた者が、一人で佇んではいけないのだ。
「見つけた」
 坂を上りきった先、開けた視界に飛び込んできたのは、昼と夕が混交する茜の空と、夜をはらんだ藍の海。海を臨む岸壁の端では、白い髪が揺れていた。
「ラナ」
 名を呼ぶと、けだるそうに振り返る。頬にかかる細い髪を耳にかけながら、ラナは不機嫌そうに眉をしかめた。
 いつもこうだ。不意にどこかに姿を消し、いつまでも帰らない彼女を探しに来るアークを、笑顔で出迎えたことなど一度もない。
「帰ろうよ。もうすぐ日が暮れる。夜は、一人は危ないよ」
「……うるさいな。余計な心配しないで」
 憎まれ口を言いながら、ラナは立ち上がって服に付いた草を払う。目が合った。逸らされた目は赤かったが、それは夕日のせいではないのだと、アークは知っている。
 おずおずとハンカチを差し出してみるけれど、「いらないわよ」と一蹴された。これもまた、いつものことだ。それでも、アークはラナを放ってはおけなかった。
「ラナ……一人は、駄目だよ」
 『一人』は、胸に巣食う悲しみの穴を深く掘り下げるばかりだから――
 彼女が一人で泣く姿を見るたびに、アークは胸が締め付けられる。ダアトが見せた夢のせいで、ラナの孤独を知ってしまったからだ。
 冷たい塔の最上階、たった一人の理解者であるダアトを待ち続けていたことも。ラナの世話をする女官たちはいたけれど、その中で腫れ物のように扱われていたことも。そしてたった少しのわがままで、彼女が犯してしまった消えぬ罪も。
 重すぎる荷物を背負う彼女を、少しでも助けてやれたなら。
「夕飯の支度ができたんだ。シバ様たちも君を待ってる。冷めてしまう前に、あの……一緒に、食べよう?」
 ぎこちなく笑う頬に、熱が上がる。きっとリンゴみたいに赤くなっているだろうけれど、それは夕日のせいにする。
 ラナの返事は、いつまで待ってもない。潮騒が沈黙を埋める時間が永遠のように思えて、アークの心臓は徐々に冷静でいられなくなる。
 ラナが、すん、と鼻をすすると、ようやく足を動かした。帰る気になったようだ。
「足元に気をつけて」
「……また余計なお世話」
 気遣う言葉が、むなしく風にさらわれる。ラナは迎えに来たアークを追い越し、さっさと一人で坂を下り始めた。
 黒く伸びるラナの影を追い、アークも坂を下った。さくさくと草を踏みしめる、小気味よい音がする。
 不意に、その音の中に何かが混ざった。ラナの声だ。よく聞き取れずに「えっ、何?」と聞き返すと、また機嫌を損ねたてしまったようで、短い溜息をつかれてしまう。
「だから――」
 足は止めない。顔も上げない。けれど、ラナは絞り出すような小さな声で、アークに言った。
「私の心配なんかしてる場合じゃないでしょ。今はあんたの方が、ずっと……」
 みなまで言わず、最後の言葉は尻すぼみに消えてゆく。それでも、アークには十分通じた。
 ラナの小さな呟きは、ざわめく草の音に吸い込まれていった。太陽がガラク高原の西に彼方に落ち始め、冷たい夜風が空から降りてくる。
 どこかで、夜鳴き鳥が鳴いている。そのよく透る高い声は、波打つアークの心を慰めるようであった。


 それはうすら寒い、ある日の明け方のことだった。
「心ノ臓の音がよろしくない。肺腑に水がたまっているせいで、うまく息を吸えないようだ。これでは……陸にいながら溺れるようなものだね」
 バクゥの薬師は状況を教えてはくれたが、治す手立てを持たなかった。エイジェイは空気を求めて浅く喘ぎ、次第に意識が遠ざかっていった。
 苦しんでいるその様を、ただ見守ることしかできなかった。最期は会話らしい会話もできなかったけれど、必死で呼びかける息子へ返す言葉の代わりに、エイジェイは微かな力で手を握り返してくれた。
 その父の手のぬくもりが、まだ掌に残っている。この温度だけは、生涯忘れることはないだろう。
「すまないね……バクゥの薬師では、お父上を楽に逝かせてやることすらできなんだ」
 エイジェイの亡骸を清めながら、シバが悔しそうに呟いた。このバルクラム族長の優しさが、どんなにベッセル親子を助けたことか。
 自分こそ、父さんの何を助けられたのだろう――?
 何もできなかったもどかしさや、大切な存在を失った喪失感……それらに潰されそうになるアークの背を、ラナが何も言わず、静かにさすってくれた。
「……もし私が死んだら、骨を潰して高原に撒いて欲しい。そうすれば風に運ばれて、王都で眠る妻のもとへと行けるだろう?」
 まだ体の自由が利く頃に、エイジェイがぽつりと語った頼みだ。それは独り言のような小さな呟きだったけれど、聞き逃してはならぬ、違えてはならぬ頼みだった。
 「お父上が望むように葬ってやろうじゃないか」と、シバがエイジェイの亡骸を焼いて骨を潰し、アークがそれを撒くことにした。
 風の強い日を選んだ。できるだけ早く妻ヒルダのもとへ行けるよう、丘の上で長い間王都へ向かう南西の風を待った。
 ラナが隣で鎮魂歌を歌っていた。その悲しい旋律が風を呼び、草花のなびく音と共に強い風が吹き荒れた。
 骨壷の蓋を開け、中身を風に攫わせる。父の欠片たちが、高く高く、空へと昇った。
「父さん……どうか、安らかに」
 強い風は、アークの頬を伝う涙すら、空へと攫ってゆく。
 無念のうちに去りゆく父への、僅かながらの餞かのように。
――そうして最期を迎えた父が、息子に過去を語ることは、終ぞなかった。
 命尽きるまで、アークと『親子』でいることを望んだのだ。隠された過去を暴露し、偽りの親子であると言葉にすることができなかった。それはエイジェイの、最後のわがままであった。
 だから、父に聞きたいことは山のようにあったけれど、アークはその全てを飲み込み、残り少ない父との時間を大切にした。穏やかな時の流れるバクゥでの日常を過ごし、思い出を語り合った。また父の体調が許す限りは、共に世話になっている族長の家の手伝いをした。エイジェイの料理はバルクラム族にも好評で、「うまい」と言われるたびに痩せた頬が嬉しそうに綻んだ。それはまるで『踊る仔鹿』にいたときのような、幸せな時をアークに思い出させた。
 そうやって、少しずつ少しずつ、アークの心は別れへの準備をすることができた。けれどもやはり、父の亡骸を火にくべ骨へと還すそのときは、涙がとめどなく溢れ出た。潰した骨を撒いたあとも、胸にぽっかりと穴が空いてしまったかのようで、風も、空も、全てのものが色褪せ、冷たく感じられた。
 失ってしまったのだ。故郷も、友も――父親さえも。大切なものは、全てこの手からこぼれ落ちてしまった。
 しかし、アークは突き付けられた現実に屈服することなく、自らの足で立ち前を見ることができた。
 ラナがいたからである。
 ラナもまた、アークと同様に心に穴を空けた者だった。帰るべき故郷を失った、重い荷物を背負う者。孤独を知る小さな肩を放って、自分一人が悲しみに浸ることなどできはしない。
 父との別れに落ち込む背をさすってくれた、同じ痛みを知る小さな手。そこに込められたいたわりの気持ちが、どんな慰めの言葉よりも、アークを救ったのだ。
 今度は――僕が、支えてやらなくては。
 気にかける誰かがいる。それが挫けそうになるアークの、大きな支えとなっていた。


「うん、うまいね」
 アークの拵えた豆のスープを飲みほし、シバは満足げに頷いた。茜色の斜陽が窓から差し込み、綻ぶシバの顔を照らす。
 高原の緩やかな起伏の中にあるバルクラム族の集落、バクゥ。族長の家でのことである。
 美しい刺繍が施された敷物の上には、すっかり空になった料理の皿が並んでいた。食後のお祈りを済ませると、一緒に夕餉についていた族長の息子夫婦が片づけをし始める。その十二歳になる息子シュナが、指についた肉汁を名残惜しそうになめていた。
「アーク兄が作るご飯、本当においしい。お母さんのよりもね」
「そんなことないよ、シュナ。このアグ・トー(羊肉の甘辛煮)だって、サラスさんに教えてもらったんだから」
 器にはチグという辛味のある小さな黒い実と、ハルアという甘い実の果肉の欠片が残っていた。これらと塩を擦り込んだ羊肉とを、骨からとった出し汁と酒でじっくり煮るのだ。最後にトングスという草の根を干して細かくすりつぶしたものを混ぜれば、煮汁にとろみがついてよく肉に絡む。食事の最後、指についたトロっとした甘辛い肉汁をなめとるのが、シュナの楽しみだった。
「お母さんのとは、なんか違うんだよなぁ」
「今日は肉にファルっていうすり潰した薬味を揉みこんでみたんだけど、そのせいかな。肉の臭みを取って、香味を添えてくれるんだよ」
「ナルホド」と、分かったような分かっていないような相槌を返しながら、シュナは器に残った肉汁を指で掬い取る。満足げに指をしゃぶる顔が嬉しくて、アークも頬を緩ませた。
「いやしいよ、シュナ。指をしゃぶるのはやめてお父さんを手伝いなさい」
 母のサラスが、シュナを叱る。「はぁい」というむくれた返事をしながらも、シュナは器を下げる父の手伝いを始めた。
 アークもそれにならい、空の器をまとめる。外の炊事場へと運ぼうとすると、族長の息子ガネーシャに止められた。
「いい、俺が運ぼう」
 そう言ってアークが手に持っていた器を受け取ると、ガネーシャはシュナとサラスと共に外へ出て行った。
 アークは、この家族にとても感謝をしていた。
 シバはよく相談にのってくれ、ガネーシャはエイジェイのためにと色々な薬草を摘んできてくれた。その妻サラスが熱心に看病してくれ、落ち込んだときにはシュナの無邪気な笑顔に元気をもらった。
 この家族の誰もが優しかった。本来なら敵対の立場にある王都出身のベッセル親子を心から気遣い、救いの手を差し伸べてくれた。
 だが、それはとてもありがたいことだったけれど、まだ子供のシュナは別として、その献身さには法王から託されたからというだけではない何かを感じずにはいられなかった。
 その理由は、なんとなく察しがついている。
 シバ、ガネーシャ、そしてシュナ。族長の家系の者は、皆アークと同じ、燃えるような赤毛をしているのだ。その目元などは、ずっと父親だと思っていたエイジェイよりも、確かな面影があった。
――大丈夫、安心して。信頼出来る人物に、看病を頼んでいるから。
――事情は放してある。君に……所縁(ゆかり)のある人だ。心配はいらない。
 この家族の優しさの理由は、王都を離れる際、ダアトがちらつかせたアークの出生の秘密と繋がるに違いない。エイジェイが何も語らなかったのに倣い、シバもガネーシャも何も言わないから、確証はないけれど。疑問を口にできぬアークは、きっとそうゆうことなのだろうと思うことにしていた。
「……ごちそうさま」
 ラナが呟き、立ちあがる。ローブのフードを目深に被ると、シバに一礼して家を出て行こうとした。もう日も落ち、外は暗い。シバがランタンに火を灯している。焼き物の器は側面に小さな穴がいくつか開けられ、そこから漏れる明かりが放射状に伸びて部屋を照らした。
「どこに行くの? もう夜だよ、あまり一人で遠くには……」
「分かってる。村の中を散歩するだけよ」
 アークの心配などお構いなしに、ラナは部屋を出て行った。扉が閉まる音を最後に、賑やかだった部屋がしんと静まり返る。
「行かせておやり。エトスエトラのあの子には、この村のどこも居にくかろうよ」
 棚から茶葉と急須、二つの湯呑みを取り出しながら、シバは言った。火鉢から薬缶を取り上げ、茶を入れ始める。
 ここバクゥでも、エラルーシャ教は信じられている。その枢軸たるエトスエトラは、信仰の対象なのだ。その象徴の白い髪や銀の瞳は嫌でも人目につき、畏怖の念を抱かれてしまう。子供のシュナですらラナには敬語を使い、失礼のないよう気を遣って接していた。それが嫌で、ラナはいつもフードを目深に被り、努めて目立たぬようにしていた。
「まあ、今は誰もいないのがちょうどいいがね」
 茶葉をほどよく蒸らしてから湯呑みに注ぐと、シバはそれを持ってもといた座椅子へと戻った。
「お前とゆっくり話がしたかった。さあ、もっと近くにお座り」
 呼ばれ、アークはシバの近くまで敷いていた座布団を持っていき、改めて腰を下ろした。注いだ茶を受け取ると、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐる。ランタンの明かりが、シバの皺だらけの顔に谷のような深い陰影を刻んだ。
 シバは茶を一口啜ると、おもむろに懐に手を入れる。そこから折りたたまれた紙を一枚取り出し、アークへと手渡した。
「エイジェイ殿――お前のお父上から、預かった手紙だ。風葬よりもう幾日たったか……今ならもう、落ち着いて受け入れられよう」
 どくりと、心臓が跳ね上がるのを感じた。
 手紙を受け取る手が震える。父の最後の言葉が、この紙にしたためられている。
 ゆっくりと、丁寧に折りたたまれた紙を開く。
 そこには懐かしい、見慣れた父の文字が並んでいた。

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