BENNU | ナノ


▼ 018 変化

   囲う檻なく吹く其は風
   彼の地をあまねく巡りゆく
   野を駆け、湖を駆け、我らのもとへ
   蒼き奏(かなで)を歌い鳴く
 風は踊り、芳しい緑の香りを運び、軽やかな舞はやがて潮騒と交差する。穏やかな波の音が跳ねる風を受け止め、互いを抱き合って一つの音となり、草原をさざめかせる透明な腕(かいな)となる。
 バルクラム族は、その美しい風の旋律の中に、神がいると信じた。
 太陽の女神エルダの嘆きの吐息から生まれた風の神、バルフォンテ。彼は月の神ゼスタとの逢瀬のかなわぬ女神の悲しみを抱いて、大陸を駆けめぐる。
 咲き誇る花にはいずれ散りゆく儚いさだめを、また人には憂いや切なさという感情を含ませ、より深みある生を与えてくれる。
   クルハの囀り
   アリョの実り
   ああ、舞い踊る恵みの蒼羽
   廻りめぐりて我らを紡ぎ
   萌ゆる命に口付けん
「いつになったら、その仏頂面が緩む日がくるのかしら。そんな顔ばかりしていると、風の神に愛想をつかされてしまうわ」
 皺の寄った眉間をつつかれ、舌打ちしながら答える。
 俺はもともとこうゆう顔なんだ、と。
 すると、相手は悪戯っぽく笑いながら言った。
「知ってるわ」
 風を思わせる擦弦楽器の調べに、軽やかな打楽器の音が重なる。人々の歌が空へ上り、足並みのそろった舞は大地を打ち鳴らす。
「でも、今日だけはそんな顔は許さないわよ。今日は花萌えを祝うお祭りで、あなたは私の舞の伴奏をするの。そんな仏頂面じゃあ盛り上がらないわ。さあ、笑ってよ」
 硬い顔を緩ませようと、一歩近づいて頬をつねろうとしてくる。その拍子に舞手が足首に巻く鈴が、しゃらんと涼やかな音をたてた。
 よせ。俺の顔を気にするくらいなら、音を外さねえようにしろ。すっ転んでも知らねえぞ。
「失礼ね。誰が転ぶもんですか。さあ――出番よ、ブロウ!」
 豊かな赤い髪をなびかせ、祭の中心へと飛び出してゆく。カマイチャ(擦弦楽器の一種)を肩に担ぎ、その後へと続いた。
 春を謳歌する草花の、瑞々しい香りを覚えている。
 あの日は、春萌ゆるガラク高原に、季節外れの冷たい北風が吹いていた。
 思えば、それは予兆だった。
 北風の中に僅かな腐臭が混じっていたことに、気付くべきだったのだ。


「――囲う檻なく吹く其は風、彼の地をあまねく巡りゆく……」
 空を流れる雲をぼんやりと眺めながら、ぽつりと呟く。歌を口ずさんだのは、ほとんど無意識だった。
 ラルガラ雪山を越えベルナーゼ教会へと至り、懐かしい旧友と再会した。それらはブロウが望んでもいないのに、己の奥底に押し込めていた記憶の輪郭をはっきりと思い出させてくれた。
 陽光が眩しい。手で目元にかさを作ると、目の前に広がっていた青が狭まった。千切れ雲が流れ、見えなくなる。額に僅かに触れた指が、一文字に走る傷痕の存在を改めてブロウに知らしめた。
――導師は……十七年前、約束を破ってでもあなたを助けた。今度は、あなたが助けてあげる番よ。
 それは無理な頼みだ、イソルダ。
 長い息を吐きながら、ブロウは俯いた。
 空を見るのはもうやめた。流れる雲は風の姿を映し出す。今その姿を見つめ続けるのは、息苦しさをもたらすのみだ。
 俯いた先、足下の地面にあるブロウの影は短い。太陽は中天に差し掛かろうとしていた。ロイと落ち合う約束をしていた、昼時である。
「……来ねえな」
 今朝別れた辺りで待っていても、ロイはなかなか姿を現さなかった。真面目な連れは時間に遅れたことはほとんどないというのに、いくら待てども道行く人の中にその姿は見えない。
 ただ待つことにも飽き、辺りを探してみようと足を踏み出したブロウの耳に、教会の騒ぎとはまた別の喧騒が聞こえてきた。
「キャラバンだ! ラマン商会のキャラバンが来てるぞ!」
 誰かが大きく声を上げ、道行く人々に呼びかける。声に導かれそのまま町の入り口へと足を向ける者や、「財布をとってこなくちゃ」と家路を急ぐ人などで、通りが賑わいを取り戻し始める。
 もしかしたら、ロイもキャラバンを見物に行っているのかもしれない。
 そう思い、ブロウも人の流れに乗って町の入り口へと足を向けた。
 フランベルグ王国、ヘレ同盟国、聖都ジェノの三国を叉に掛けて商いを行うラマン商会は各地に支部を持ち、その地の人々の暮らしを潤している。また各支部へと様々な物資を送り届けるキャラバンは、その途中の町でも小さな市を開いてくれる。日用必需品からめずらしい調度品、男たちの使う武具から、女たちが目を輝かせるような美しい布地、装飾品、南の島国で生産される香辛料――キャラバンの到来は物資に乏しい地方に住む者たちにとっての楽しみの一つなのだ。
 ウガン砦を抜けだし単身ルルカ諸島へと渡ろうとしていたとき、ブロウはラマン商会のキャラバンに紛れ込ませてもらうつもりだった。ラマン商会本部のある聖都ジェノを経由しフランベルグへ入国、ルルカ諸島への定期便を出す港町へと至る予定だった。
 だがロイという同行者ができてしまい、その計画は突然の変更を余儀なくされた。キャラバンに紛れ込ませてもらうためには、それなりの額の依頼料が必要なのだ。残念ながら、ブロウは二人分の旅費を用意していなかった。
 宿場町を出てすぐの開けた場所に、キャラバンは簡易的な市を開いていた。幌を取った荷車を並べ、そこに積まれた様々な物資に人々が群がっている。ある荷車には日用品が積まれ、また別の荷車には武具類が並んでいる。人々は誰もが目を輝かせながら品定めをし、値段交渉の駆け引きに勤しんでいた。
 その賑わいの外側を歩きながら、ブロウはロイを探した。しかし市の端から端まで歩いても、ロイの姿は見あたらなかった。
「なんとまあ、そこを行くのはブロウではないか」
 聞き覚えのある声に呼び止められ、ブロウは足を止めた。
 布や装飾品を売り買いしている集団のそばに、一人のムルンバ族の老爺が立っていた。皺だらけの顔を笑みでさらに皺くちゃにしながら、白いものの混じった長い髭を手ですいている。
「おお、カール爺。まだ生きてたのか」
「久しぶりに会うたというのに、相っ変わらず失礼な男よ」
 老爺のそばまで行き、差し出された手を握りながらブロウはにやりとした。
 彼の名はカーリダーサ・ハッタ・ラマン。ラマン商会の会長を務める男である。ブロウは長らく大陸中を流れる間、時折この男の世話になっていた。物資や装備の補填から宿の都合、時には国境越えの手助けまで行う、幅広い商いを利用させてもらっている。また商会側からみても、ブロウは創業当時からの大切な顧客だった。
「まだ商隊を率いてるのか。もうジェノの本部に隠居したと聞いていたが」
「馬鹿もん、このわしが大人しく隠居なんぞするわけなかろう。死ぬときは幌馬車の上と決めておるわ」
「そりゃ隊員にとっちゃ迷惑な話だぜ、じじい」
「商いはわしの生き甲斐じゃ。誰に止められようとこれだけはやめんぞ。屋敷のベッドで往生するなんぞ、ラマン家末代までの恥じゃわい」
「ふん、業突く張りめ」
「だまらっしゃい」
 カーリダーサが笑い返すと、黄ばんだ乱杭歯がのぞいた。
「ところで、お主はなぜこんなところにおるのだ。グローネンダール領でタイチョーなる大層な職に就いていると聞いていたが?」
「少し前に辞めた。今は同盟国を離れようと思っている」
「ほお、ではまた流れるのか。今度はどこへ?」
「ルルカ諸島へ。年中紛争の絶えない国だ、あそこで傭兵やってりゃ食いっぱぐれないだろうよ」
「まあ確かに、腕っ節が取り柄のお主にはもってこいの国じゃな。だが……その割にはずいぶんと身軽じゃの。宿に荷を置いてあるんだろうが、丸腰はなかろうて」
 本来ならば剣があるはずの腰の辺りを見ながら、カーリダーサは言った。
「まあ……いろいろあってな」
 言い淀むブロウに、カーリダーサが不審そうに片眉を上げた。商人らしい強かな眼光が、抜け目なくブロウを品定めしている。
「いろいろ、のう。まあ深くは聞かぬが、もしや、武器が入り用かな?」
 儲け話となれば、この老爺の嗅覚の右に出る者はいないに違いない。
 だが、武器が必要なのは事実であった。己の分だけではない。ロイの分も用意せねばならないのだ。またラマン商会のキャラバンならば、宿場町のこぢんまりとした武器屋よりも、質のいいものが得られるはずだ。
 カーリダーサの誘いに、ブロウは素直にのることにした。
「新しい武器を探している。それから、煙草と酒を」
 ブロウの答えに、カーリダーサは満足げに頷いた。おもむろに懐に手を入れると、煙草と燐寸(マッチ)の箱をブロウへと放って渡す。
「そら、先に渡しておこう。奥へ来るといい。積み荷の中に表に並べているものよりもいくらかいいものがある」
「ありがてえ」
 早速煙草を一本取りだし、火をつけた。大きく吸い込むと、火がじりじりと煙草を食んで灰へと変える。久方ぶりに肺を満たす紫煙は、体の隅々まで染み込むようだ。ゆるやかな風が吹くと、脆い灰はほろりと地面に落ちた。
 ゆっくりとだが、しかし老爺とは思えぬ颯爽とした足取りのカーリダーサに、ブロウは市の裏手に停められた幌馬車へと案内された。宿場町に入る前の最後の一仕事である市の品出しをする者、幌馬車を曳いてくれる馬に飼い葉を与えて毛を梳いてやる者など、長旅の疲れをものともせず溌剌と働く隊員たちの間を、縫うように歩く。
「おう、この荷車のはずじゃ」
 轍でぬかるむ地面を軽い足取りで飛び越えたカーリダーサが、幌がかかったままの荷車の前で足を止めた。「好きに見るといい」とカーリダーサから許しを得たブロウは、荷台に乗り込み積まれた武具をあさり始めた。
 幌の内側は、活気に満ちた外とは全くの別世界のようだった。ただ寒いばかりでなく、どこかひやりとした鋭い空気が漂うのは、おそらく積み荷のせい。長剣はもちろん、短剣や弓矢、槍や戟など、多様な得物が積まれている。
 手近な剣を手に取り、鞘から引き抜く。両刃の剣は一点の曇りもなく鍛えられ、鋭利な切っ先は触れただけで肌が切れそうだ。柄もよく手に馴染み、悪くない。ブロウは剣を鞘に収めると、迷わずそれを佩いた。
「ずいぶんと物々しい積み荷だな。戦場にでも繰り出すつもりかじじい」
「さてのう。だが我がラマン商会はお呼びとあらば戦場までお届けにあがるぞい。それに見合った代金を頂戴するがのう」
「どうせ足下を見るような額ふっかけるんだろう。あんまりあこぎな商売してると客が離れるぜ」
「そこを上手く駆け引きするのがわしの仕事じゃ。あ、これブロウ! 商品に灰を落とすでないぞ」
 カーリダーサの注意に生返事を返しながら、ブロウは積み荷の中からいくつかの武器を選び出す。それを抱えて荷台から降りると、目の前の老爺が眉を顰めた。
「剣が二振りに、投擲ナイフ一式……ずいぶん持って行くのう。もしや、連れがいなさるか?」
「ああ。そいつの分ももらっていく」
「なんと。よもや、一匹狼のブロウが誰かを伴って旅をする日が来るとは」
 紐で首から下げていた眼鏡を大きな鷲鼻にちょこんと乗せながら、カーリダーサは独り言のように呟いた。少し縁のひしゃげた眼鏡はうまく鼻の上に乗ってくれないので、手で支えながらブロウの持ってきた武器を品定めする。ひとしきり眺めた後、帯に挟んでいたそろばんを取り出し代金の計算を始めた。
「カール爺。ちょっと待ってくれ」
 軽快に珠を弾くカーリダーサは手を止めると、不審そうに片眉を上げた。
「なんじゃい。付き合いの長いお前さんでもびた一文まけてやらんぞ」
「まけてくれなくてもいいんだが……訳あって今手元に金がない。ツケで頼めるか?」
 ツケ。そう聞いたカーリダーサは、明らかに不服そうだった。
「頼む。色は付けるぜ」
 カーリダーサの長く尖った耳が、ぴくりと動く。
「ほう。それなら三割でどうじゃ」
「阿呆。一割だ」
「のれんな。二割が限界じゃい。それ以下は交渉に値せんわ。お前さんじゃなきゃツケなんぞはなっからお断りだぞ」
「くそじじいめ」
「ほほ。交渉成立かの?」
 勝ち誇ったように乱杭歯を見せてにやりとしながら、二割り増しの代金を計算し始める。だが突然何かを閃いたのか、そろばんを弾く手を止めた。
「そうじゃ。なにも割り増しでツケにしなくとも、金がないならそれに相当するものと交換というのはどうじゃ?」
「そうしたいのは山々だが、生憎と金目の物すら何も持っていない」
 肩をすくめてみせるが、それでもカーリダーサは笑みを深くする。ともすれば、舌なめずりさえ始めそうな顔だ。
「あるではないか。ほれ、お主、肌身離さずアレを身につけておったではないか」
 骨ばった長い指でブロウの胸元をつつきながら、カーリダーサは目を輝かせた。
「緋色の錬蝶石――それで手を打とうじゃないか」
「……カール爺、悪いがそれは無理だ。あれはもう売っちまった」
「な、なんじゃて?」
「長旅に倒れた連れを休ませるのにどうしても宿代が必要だった。だから、売った」
「昔わしが何度頼んでも売ってくれんかったのに……」
 がっくりと肩を落として落胆するカーリダーサだが、すぐにくるりと表情が変わった。まじまじとブロウを正面から見る目は、思いがけないめずらしいものを見るような、戸惑いと好奇心に輝いている。居心地の悪さに眉を顰めても、カーリダーサは不躾とも言える視線を外さない。
「お主、変わったの」
「はあ?」
 幌馬車に背を預け、カーリダーサは長い髭を指でくるくると弄ぶ。目はまだブロウから外さない。深い皺に縁取られたアーモンドのような瞳が、微笑みでさらに深く優しい皺を刻む。
「『生きた』お主を見るのは久方ぶりじゃ。十五年……いや、十七年ぶりかの? 再び守りたい者ができたか、ブロウよ」
――あなたが何と言おうと、俺はついて行きますから。
――本当に、しょうがない人。こんな事をするくらいなら、約束を守ると言いなさい。
 背負って感じた重さ。
 抱きしめて感じた愛しさ。
 現在と過去、そのとき感じたものの意味を表すのならば、たった一つの言葉しかない。
 過去はとうの昔に過ぎ去り、甘い香りと焼けるほどの後悔を胸に残すのみ。けれど今。今それを認め、望み、得る。それを己に許すことは、まだできない。
 けれど腕に抱えた武器は、覚った矛盾の象徴であった。
「……くだらん」
 他の誰でも、何に対してでもない。己に対する軽蔑を、ひとりごちた。
「会長、ちょっと失礼します」
 ちょうどキャラバンの隊員の一人が声をかけてきて、ブロウの独り言はかき消された。
 若いムルンバ族の男だ。丁寧にお辞儀をしてから、ブロウを見る。少し目線が上へ泳いだのは、額の傷痕を確認しているようだ。ブロウが眉を顰めると、男は不躾な視線に気付かれたのを恥じるように、慌てて視線を戻した。
「失礼。隻眼と額の傷が特徴だとうかがったもので。あの……ブロウ殿、ですね?」
 頷くと、男の顔がゆるんだ。
「やはり。お連れさん方が急ぎ探しておられますよ。今は市のほうに……っと、ありゃ。待ちきれなかったのかな」
 男が振り向いた市の賑わいの方から、駆けてくる者がいた。ロイだ。その後ろから、ローブを頭から被った人物がゆっくりとついてくる。
 どくりと、胸が波打った。
 今になり、ようやく隠されていた魔力(マナ)の気配が流れてくる。忘れるはずもない。『契約者』――ダアトの魔力の気配であった。
 息を切らして走ってきたロイが、ブロウの前で足を止め、荒い息を整える。「水を持ってこようか?」と声をかけてくれたムルンバ族の男の言葉を遮り、ロイはブロウを正面から見据えた。
 それはブロウが怯むほど真っ直ぐな、挑むような眼光であった。
「探しましたよ、ブロウ――」

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