BENNU | ナノ


▼ 017 楔

 騒がしい教会前の広場を横目に見ながら、ブロウは足早に歩いた。堅く閉ざされた門の前では、僧兵と礼拝に訪れた者たちとの間で諍いが起きている。
「いったい何があったんだ!」
「門を開けて説明しろ!」
「司教を……エトスエトラを出してくれ!」
 騒ぎを静めようと、僧兵が槍の石突きで石畳を打ち、警告音を鳴らしている。カン、カン、と高い音が広場に響き渡った。
「静粛に! ここは聖なる場であるのだぞ!」
 人々の求める答えからは遠くかけ離れた言葉が、喧騒にむなしくかき消される。
 広場は危うい空気に満ちていた。緊張に張りつめた糸が切れてしまったら、あっという間に混乱に陥ってしまうだろう。
 ここ数年、不老のはずの彼らが枯れ木のように朽ち果て、老いさばらえた姿で絶命しているという事件が、各地の教会で起こっている。突然の教会の閉鎖は、ここベルナーゼ教会でもそれが起きたのだと民衆が思うのに、十分な行動だった。
 以前エトスエトラが亡くなったのも、そう前のことではない。
 視線を広場から外しながら、ブロウは思う。
 『白の庭』が炎上する少し前のことだ。ヘレ同盟国の辺境地であるウガン砦に届く新聞にも、大きな記事で扱われているのを読んだ。
 エトスエトラが身罷るとその死地に法王と枢機卿が赴き、遺体を白い布で包み、台に乗せて運ぶ葬列を組む。法王はその葬列の先頭に立ち、鎮魂歌を歌いながら、同胞を葬るべきジェノの地へと練り歩くのだ。
 それはとても不可思議な葬列であるという。どんなに死地とジェノが遠くとも、一昼夜でジェノの大聖堂へと辿り着く。
 彼らが通るのは普通の道ではなく、法王の魔力(マナ)によって作られた道だ。その葬列に偶然出くわした人には、突然大気が歪み、陽炎のような人の群れが現れたように見えるという。異なる次元を歩く葬列に飲み込まれると、法王の哀愁に満ちた鎮魂歌が身体の中心を駆け抜けてゆき、自然と涙を浮かべて頭を垂れるのだと……
 もし、本当にベルナーゼ教会のエトスエトラが亡くなったのならば、ダアトがこの町へ来る。鉢合わせるのはごめんだ。
 その真偽を確かめるため、ブロウは教会へと足を向けた。だがそれ以上に、一抹の懸念を抱くことがある。昨日とは異質に感じられる町の空気を吸うたびに、額の傷痕が絶えず痛むのだ。最悪の事態だ。警戒しろ。――と、言いきかせるかのように。
 ブロウは人で溢れかえる正門前ではなく、小さな裏口の前に立っていた。遠くに聞こえる喧騒が、裏口の静寂を際立たせる。人気はなく、年代を感じさせる古い真鍮のドアノッカーが、手垢で鈍く光っている。教会を正面から見たときの、尖塔を黒々と見せていた朝日だけが、遮る物のない裏口をぎらぎらとうるさく照らしていた。
「おい、誰かいるか」
 表の騒ぎに人を取られているのだろう、呼びかけても返事はなかった。ノックをしても、裏通りに侘びしく音が響くばかり。
「おい」
 もう一度、大きな声で呼びかけながら、扉を叩いた。すると、扉の向こうに人の気配が近づいて来た。扉越しにくぐもった声が聞こえてくる。
「……どなた様でしょうか?」
「エトスエトラと話がしたい」
 単刀直入に用件を切り出すと、扉の向こうの人物が言葉を詰まらせた。
「……申し訳ありませんが、今はお取次しかねます。どうぞお引き取り下さい」
「サメフでもイソルダでもいい。『ブロウがヤールの無事を確かめに来た』。そう伝えて欲しい」
 被せるように言い放つと、扉の向こうの人物が黙り込んだ。その沈黙は、彼のつまらない返事よりもはるかに雄弁だった。
 やはり、額の傷が警告する嫌な予感は当たるのだ。
「少々お待ちを」
 消え入りそうな小さな返事を残し、扉から離れる気配があった。しばらくすると、微かな足音すら聞こえなくなる。
 ブロウは扉の横の壁に背を預け、足元の地面を睨みつけながら少し待つ。空を流れる雲の影がいくらも動かないうちに、再び扉の向こうから慌ただしい足音がした。
 がちゃがちゃと乱暴に錠を解く音がし、扉が開かれた。息を切らして現れた女の長い髪は白く、目じりの下がった優しい瞳は銀色だ。名はイソルダ・リラ――ベルナーゼ教会の司教を務めるエトスエトラである。
「よう」
「ブロウ……! まさか、こんなときにあなたが現れるなんて! さあ、とりあえず中へ。裏口でも、教会の扉が開いているところを見られたらまた騒ぎになる」
 強く腕を掴まれ、中へと引きいれられた。再びイソルダが裏口をしっかりと施錠する。外界の空気を遮断すると、かすかな黴臭さを孕んだ、湿気たにおいに包まれた。扉の上部の壁にはめ込まれた小さな硝子からは光が差し込み、宙を漂う細かな埃を照らして空気のうねりを映している。
「本当に……久しぶりね。元気にしていた? あなたの方から教会を訪ねてくれるなんて、思ってもみなかった」
 向き合うイソルダの白い髪が、差し込む光に艶めいている。瞳はうっすらと感涙に潤んでいた。
「また会えて嬉しいわ、ブロウ」
「……イソルダ、ヤールは健在か? サメフはどうした」
 再会の挨拶など全く聞えなかったかのように、ブロウは要件を切りだした。その途端に、イソルダの表情がさっと曇る。
「……ついて来て。あなたに見てほしいものがあるの」
 そう言って薄暗い回廊を足早に歩き始めたイソルダの後について、ブロウも足を進めた。
 燭台に灯された明かりの横を通るたびに、伸びた影がぐらりと揺れ踊る。かつんかつんと踵が鳴らす足音は反響し、回廊の先の暗がりに吸い込まれるように消えいった。
 回廊では数人の修道士とすれ違った。疲れたように壁に背を預けていたり、身体のこりをほぐすように背伸びをしたりしていたが、彼らは皆イソルダが通るたびに深く頭を下げる。彼らのイソルダを見る視線に、どこか縋るような光があるのをブロウは感じた。
 ちょうどある部屋の扉の前を通り過ぎたとき、中から一人の若い修道士が出てきた。部屋の中からわっと漏れ出てくる話合いの熱気から逃げるように扉の隙間を滑り出て、後ろ手に素早く閉める。疲れた様な深いため息をつくと、ようやく目の前にイソルダがいることに気がついたようだ。
「司教様!」
「お疲れさま。会議の調子はどうかしら」
 イソルダが尋ねると、若い修道士は顔色を曇らせて首を振った。
「『リベラメンテの楔』については、何も進展はありません。書庫で何か参考になる文献がないか調べている者たちからも、明るい知らせは何も……。今は事態の具体的な解決策よりも、まずはベルナーゼにいる人々にどうやって混乱を招くことなく説明できるかに焦点を絞って話し合っています。早急に表の混乱を鎮めなければ、いつ怪我人が出る騒ぎに発展してもおかしくありません」
「そう……そうよね。確かに、その方がより建設的だわ。私たちにできることからしていかなくては。ありがとう。その方向で話合いを続けてちょうだい」
「はい、司教様」
 若い修道士は返事をしたが、消え入りそうな声だった。そして今にも泣きそうな顔でイソルダの前に跪き、胸に手を当てて祈りの姿勢をとった。
「どうか取り乱す愚かな私をお許しください! 司教様……私は恐ろしいのです。『リベルの輪』が断たれるなど、今までになかった。大いなる創造主エールの創りたもうた魂の旅路が、途絶えてしまうかもしれないのです――! これは戦をやめぬエパニュール大陸の民への、女神リベラメンテからの罰なのでしょうか。輪を逸脱してしまう私たちは……一体どうなるのでしょう? 女神の加護を失い、みなヘムト(混沌)へと堕ちてしまうのでしょうか!」
 若い修道士の震える肩に手を置き、イソルダは努めて穏やかな声で答えた。
「大丈夫よ。我らが大いなる父が、我が子を見捨てるはずがない。リベラメンテの女神とて、それは同じ。罰ではなく、試練と受け止めなさい。試練に立ち向かうときにこそ、個々の魂の有り様が試されます。祈りを忘れないように。それは父より与えられし標です。必ず希望の道を示してくださるわ」
 イソルダに励ましの言葉をかけられ、若い修道士は恐縮したように頭を下げた。そうしてから顔を上げた彼の目が、ブロウに向く。教会にはまったく場違いな風貌の男を不審がる視線に、イソルダが答えた。
「彼は私の友人よ。少ししたら戻ると中の者に伝えてちょうだい」
 そう伝言を残し、イソルダは再び教会の奥へと歩き始めた。
――創造主エールから生れし魂は女神エルダの朱の炎で祝福を受け、この大地に生れ落ちる。月の神ゼスタの淡い光の道標に助けられながら、魂は『光穴(パッセ)』を巡る旅に出るのだ。豊かな魔力(マナ)が溢れる場所で身を清め、祈りを捧げて徳を積み、光穴の守護者である女神リベラメンテより祝福を賜る。魂は旅路を終えると、再びエルダの朱の炎で昇華され、父エールへと還る。そうして磨かれた魂は、やがてエールの祝福をも賜ってリベルの輪を脱し、魂の楽園『輝ける大地の庭』へと辿り着き永久(とわ)の安寧を得る。
 聖典エル・アリュードにおいて、この神節をもとに聖祉司が行ったのが、大陸各地に存在する魔力の豊かな土地、光穴への楔の建設だった。聖節第九項――『円(まどか)なる楔』である。
 強大な力を持つ竜族は他の種族を睥睨し、何者をも寄せ付けない圧倒的な力で大陸を破壊しつくそうとした。その竜族を封じるためには、大陸人全ての力をもって対抗せねばならなかった。
 そのための楔の建設であった。聖祉司は大陸を巡って祈りを捧げる人々の想いの力を魔力(マナ)へと変換し、その膨大な力を悪しき竜族への対抗の術としたのだ。
 そしてその人々の祈りの基(もとい)となる十人のエトスエトラが、楔の核として人柱となり、各地で眠りについた。大地に打たれた十の聖なる楔は、巡礼の始まりと終わりの地である聖都ジェノに二つ、残りの八つがジェノを中心に円を描いて大陸に打たれている。これが、『リベラメンテの楔』である。
 祈りは輪を巡り力となり、聖祉司へと注いだ。
 かくして、聖祉司は竜族を異界へと封じ込めたのである――
「――万物の父、創造主エールの創りたもうた小さき命の灯ら。大地に刻まれし円なる楔を巡り、リベラメンテの女神より永劫なる祝福を賜らん」
 聖典の一節を、イソルダが静かに諳んじる。
「リベラメンテの楔は、とても重要な意味をもつものよ。エラルーシャ教徒にとっても……私たちエトスエトラにとっても」
 回廊の突き当たりにあった扉の前で、イソルダは足を止めた。
 手は扉に添えられているが、押し開こうとする意志はない。細い指先が、微かに震えている。扉を開くことを、恐れているように見えた。
 扉から震える指を放して振り返ったイソルダの目には、涙が浮かんでいた。
「とうとう、私たちの罪が暴かれる時がきたのかもしれない。人々は、私たちエトスエトラの不老を『神の寵愛を受けた』と言い表すけれど……どんな生き物にも、寿命はあるものよ。……サメフもまた、そうであるように」
 わななく唇を噛みしめながら、イソルダは言った。
「昨晩のことよ。『契約者』が死んだの。急速に老いてゆく彼を看取るのは、つらかった……でも、彼はここベルナーゼを拠点とする宣教師としてなすべきことをまっとうし、死へと臨んだ。安らかな最期だったわ」
 同胞の最期を思い出し、イソルダは静かに涙を流した。司教としての責任感から、感情を表に出すことを今までずっと耐えていたのだ。それが旧友のブロウを前にしたことで、気が緩んでしまった。
 ブロウは思わず天を仰ぐように天井を見た。天井は燭台の明りが届かず、うすぼんやりと闇に霞んでいる。ブロウの視線はその天井を通り越し、もっとずっと遠くを見据えていた。
 エトスエトラの契約者が死んだ。また一人、狂った竜が死んだということだ。
 自分がきつく歯噛みしていると気がつくまでに、少しかかった。強張る歯の根の隙間から、長い溜息がもれる。舌の上には苦いものが残った。
 イソルダは哀悼の涙をそっと袖で拭うと、震える細い肩を自らの腕で抱きしめた。
「サメフのことは、悲しいけれど仕方のないこと。問題は……ヤールよ」
「……人柱に何があった」
 ブロウが問う。イソルダは意を決したように扉に向き直り、いまだ震える手で押し開いた。
 蝶番の軋む耳障りな音がして、扉は開かれた。
 そこは多くのエラルーシャ教徒が祈りを捧げる礼拝堂だった。
 アーチ状の天井は回廊のそれよりもはるかに高く、石造りの柱が力強い姿で聳え立つ。柱の僅かな段差には小さな硝子の器に入れられた蝋燭の火がいくつも揺らめき、薄暗い礼拝堂に神秘的な輝きを添えている。整然と並べられた長椅子には、天井近くの壁に作られたステンドグラスから差し込む陽光で、七色の光片が散っている。また説教壇から見て右手の壁には聖典の神節に出てくる神々が、左手の壁には聖節を象徴する四人の聖祉司が描かれていた。
「あれを見て」
 イソルダは説教壇の裏手にある壁を指し示した。
 そこには本来、エラルーシャ教の巡礼地であるという象徴の、『リベラメンテの楔』が存在する。透明なクリスタルの柱の中に、人柱であるエトスエトラが眠っているのだ。しかし――
「……『楔』が、破損してやがる」
 楔を見上げ、ブロウは言った。
 楔を形作るクリスタルには大きな亀裂が走り、その破片が床や説教壇の上に散らばっていた。楔の中で眠っているはずの人柱、ヤールの姿は、傷痕の痛みの由来を言葉なく語っている。
 ヤールは、枯れ木のように朽ち果てていた。純白の髪はくすみ、肌は老人のように深い皺がいくつも刻まれ、目は落ちくぼみ、うっすら開いた生気のない唇が暗い口内をのぞかせている。
「通常、エトスエトラの契約者は竜族。でも人柱たちは違う――彼らは交わしているのは、導師とゆう器に収められた『オーブ』との契約。器とオーブが健在なかぎり、人柱は永劫に生き、リベルの輪の一端として人々の祈りの基となる……はずなのよ」
 ヤールの死に様を見つめ続けるブロウに、イソルダが静かに語りかける。
「けれど今朝早くに、ヤールは朽ちてしまった。やはり導師の体は……もう、器として限界がきているのね?」
「……あいつは次期導師(リ・ジェイニス)を作った。おそらく、そうゆうことなんだろう」
「そんな……確かに、私たちは滅びを定められた種族。でも導師はまだ生きねばならない。せめて、オーブの継承がすむまでは……!だから、お願いよブロウ――」
「……俺にできることはない。あとどれだけもつかは、あいつの運次第だろう」
「何を他人事みたいに……あなたは――導師の契約者でしょう! 導師を助けることができる、ただひとりの人なのよ!」
「黙れ。俺がエトスエトラと交わした約束を忘れたか」
 静謐な礼拝堂の空気が、ブロウの低い声に揺れる。イソルダが身震いし、悔しそうに唇を噛んだ。
「『もう二度と、私たちとは関わらない』――ええ、覚えているわよ。でもあなたは長い沈黙を破り、自らここを訪ねて来たじゃない」
「現状の把握に来ただけだ。楔が破損した今、ベルナーゼは一刻も早く立ち去らねばならない場所になった。気を付けろよイソルダ。ベルナーゼは……煤に沈むぞ」
「なんですって?」
 ブロウは閉じられた左のまぶたに、そっと指を添える。じわりと、鈍い痛みが広がった。
「門の鍵はすでに壊された。その脆くなった門にさらなる亀裂が生じれば、中の奴らは見逃さない。必ず、我先と飛び出そうとしてくるだろう」
 青ざめるイソルダを置いて、ブロウはもと来た回廊を戻り始めた。
 イソルダは追いかけて来なかった。引きとめ、縋ることもしなかった。しかし静かに、厳しい口調でブロウの背中に声をかける。
「導師は……十七年前、約束を破ってでもあなたを助けた。今度は、あなたが助けてあげる番よ」
「知るかよ。……あれは、てめえが生きるためだろう。俺が死ねば、契約者であるあいつも死ぬ」
「違うわ」
 イソルダの声は次第に遠くなっているはずなのに、いやに耳に刺さる。
 いっそのこと、耳を塞いでしまいたかった。
「導師は、友を失いたくなかったのよ」

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