BENNU | ナノ


▼ 016 ほんの少し

 路地から大通りに出ると、今朝までの静かな雰囲気は影を潜め、奇妙なざわつきが漂っていた。
 道には多くの人が声を潜めあって立ち話をし、ジェノの僧兵が慌ただしく教会へと走ってゆく。それを呼び止める者と僧兵の間で、小さな諍いも起きていた。
「変ですね……教会の方で、何かあったんでしょうか?」
 通りの様子を見ながら、ロイが言った。
 ブロウは傷跡を掻いた。額の傷が鈍く痛んでいる。
 嫌な感じだ――
 空気の感触を確かめるように、意識を周囲に広げる。空気が重い。息を吸うたびに、今までには感じたことのない違和感を覚えた。
 空気が淀んでいる。この宿場町だけが、世界の中から落ち窪んで、穢れの中にあるかのようだった。
 傷の痛みが頭に響く。
 これは――まごうことなき警告だ。
「あ、ちょっと、どこに行くんですか」
 大通りに足を踏み出したブロウに、よそ見をしていたロイが慌てて続く。だが、数歩進んだだけで、ブロウは再び足を止めた。
「お前は来るな」
 それだけ言うと、返事も聞かずに人混みに紛れようとする。すると急いでロイが追いかけて来て、腕を掴まれた。振り向くと、怒ったように顔を顰めたロイがいた。
「何なんです急に」
「放せ」
 手荒く腕を振ると、ロイの手が放れた。振り払われた手が行き場をなくし、戸惑ったように宙に差し出されたままになっている。
「お前は……邪魔になるから来るな。昼過ぎに、またここで落ち合おう」
 目を伏せたままそう言い、ロイを置いて歩き出した。後ろを付いて来る気配はない。そのまま、ブロウは逃げるように人混みへと紛れて行った。


 ブロウが歩いて行った先には、教会の尖塔があった。その上に差した太陽の逆光を受けて、巨大な黒い塊が聳え立っているように見えた。その姿に、首筋がそわりとするような不気味さを覚えた。その黒い塊に同化するかのように、ブロウの背中も黒く沈んで見えたのだ。
「ブロウ、傷痕をかいてた……」
 別れる前の仕草を思い出しながら、ロイはひとりごちる。
 傷痕が痛むのだろう。ということは、何か嫌な予感がするのかもしれない。一人で行ってしまったのも、何か理由が――
 そこまで考え、やめた。ブロウが何を考えているのかなど、結局はわからないのだ。追いかけて問いただしたって、その気がなければ絶対に口を割らない。
 最早諦めたロイは、ブロウとは反対方向へと歩き出した。昼までは時間がある。まだ本調子ではない身体を慣らしがてら、町をぶらぶら散歩することにした。
 幼い頃過ごしたロズベリーはヘレ同盟国最南端のグラフント領にあり、それ以降を過ごしたウガン砦は最北端のグローネンダール領にある。このベルナーゼ教会があるヘルベンダー領は、その二カ所とはまた違った空気のにおいがした。
 鼻につんとくる透明な冷気を深く吸い込めば、それは身体の深部をきれいにさらってくれる。一息に吐き出すと、ロイの熱をおびた白い呼気が、再び大気に拡散した。その短い自浄作業を繰り返すたびに、見知らぬ大気に自分の身体が馴染んでいくように感じる。
 旅をしているのだ。険しい雪山越えで忘れていた、見知らぬ大地を踏みしめる好奇心と興奮が、今になって帰ってくる。もちろん、隠し事の多い連れのせいで手放しでは楽しめないけれど、少しくらい旅の醍醐味を味わってもいいような気がした。
「そこの君」
 騒がしい大通りを抜けようと、一つ脇道に逸れようとしたときだ。
 はじめは、それが自分に向けられている声だと気が付かなかった。ふと周囲のざわめきの中に、「教会が閉鎖している」「司教に何かがあったのかもしれない」などという物騒な情報を聞き拾い、そちらに気を取られていた。
「ジャハダ族の――そう、君だ。ロイ・ハイフェッツ」
 名を呼ばれ、驚いて振り返った。初めて地を踏むこのベルナーゼ教会の宿場町で、名指しで呼び止められるなど考えもしなかった。
 声をかけてきたのは、灰色のローブを着た男だった。顔は目深に被ったフードのせいで、口元しか見えない。微笑を湛えた綺麗な弧を描く唇と、青白い頬に刻まれた文字のような入れ墨が印象的だった。
 そう、その奇怪な刺青は、強烈な印象を見た者に植え付けるのだ。忘れるはずがない。
「お前……ウガン砦で……!」
「おはよう。今日はいい天気だね」
 歌うような口振りで、男はにこやかに挨拶をしてくる。とっさに腰に手が伸びるが、そこに武器はない。そのことに、思わず歯噛みした。
「武器なんて、必要ない。私は君を傷つけることは絶対にしない」
 敵意がないことを表そうと、男は両手を挙げた。長いローブの袖が肘までずり下がり、骨と皮だけのような痩せ細った腕が出てきた。腕にもびっしりと入れ墨が刻まれ、異様な姿を朝日の元に晒している。
「万が一君を傷つけることがあれば、ブロウに怒られてしまう」
 くすくす笑いながら、男は楽しそうにそう話す。それは親しい間柄の者に話しかける仕草のようだ。しかし、ロイはそれを素直に受け止めることができなかった。
 元凶なのだ。
 この旅が始まった、きっかけとなった男だ。
 深呼吸をした。苦しい。浴びせかけたい質問の数々が、喉をぐうっと詰まらせている。
 しかし、吐き出すわけにはいかなかった。この男からブロウの真意に近づくことは、ロイの本意ではない。
「俺に……何の用ですか。今ブロウとは別行動中ですが」
 やっとの思いで飲み込んだ言葉の中から、無難なものを選んだつもりだった。だがローブの男には、それが面白くて仕方がないようで、ただ笑みを深くする。
「聞かないんだね。ウガン砦でブロウと何を話したのかも、私が誰なのかも、何も」
「……俺があなたから聞くべきことは、何もありませんから」
「私がブロウにウガン砦を去るようにと言ったとしても?」
 目の前の男のにんまり口が、無性に憎らしかった。そこから飛び出す言葉が、ロイの最も触れられたくない場所を無遠慮に撫で、つついてくる。
「そんなことは、俺でも想像がつきますよ。あなたが来た次の日の夜、ブロウはウガン砦を抜け出したんだから。……俺を置いて」
 その理由が、気にならないわけがない。十一年も共に過ごしたのに、なんともあっさりと置いて行かれたのだ。
「でも――」
――……上等だ。
 その一言と共に、隣に立つことを許されたのだ。
 ふと、初めて会ったときのことが頭によぎった。あのとき、必死で手を伸ばして、ブロウの足を掴んだ。
 昔と同じだ。俺が手を伸ばし、ブロウが振り返る。その繰り返しだ。
 そして今も、ブロウに向かって手を伸ばし続けている。その指は、僅かだけれど、ブロウに触れている。
 共にいる。それが証拠だ。――それで十分だ。
「何かを知るなら、ブロウから聞きます。繰り返すようですが、あなたから聞くべきことは、何もありません」
 そう言いきることで、喉の詰まりがすとんと落ちた。深く息を吸い込むことができる。
「なるほど」
 男が手を下ろし、腕を組む。フードに隠れた目からは、絶えず微笑まれているような視線を感じていた。
 総じて、穏やかな雰囲気の男だった。だがやはり、向けられる言葉は無遠慮だった。
「何も語らぬ男を無条件で信頼するのか。それは君の美徳ではなく、愚かしさだ、ロイ」
 かっと、耳の奥が熱くなる。
「俺は――ブロウは信頼に値する人だと思っています」
「なぜそう思える? 彼は君に大切なことは何も語らないじゃないか」
「ええ、あの人は俺に、己の根幹に関わることはほとんど話してくれません」
「その通りだ。君はブロウのことを何も知らない」
「何もじゃない。ほんの少しなら、知ってます」
「ではその『ほんの少し』で、『ほとんど何も』知らない男を信頼するのかい。何を考えているのか分からない、己の殻に閉じこもった男を? その彼のありようが、君を傷つけるかもしれないのに?」
「……これまでブロウが俺にしてくれたことは、虚栄や嘘偽りから生まれた行動じゃないと思っていますから」
 耳の奥で生まれた熱が広がり、じわりと全身を熱くさせる。
 熱を孕んだ拳を、握った。
「その人を信頼するかは、その人をどれだけ詳しく知っているかとか、その人とどれだけの時間を長く過ごしたかとか、そんなことだけで決まるものじゃない。俺は、俺の知るその『ほんの少し』を手放したくないし、それは俺の大切な一部だ。そう思えるからこそ信頼しているし、共にいたいと思う」
 握った拳を開き、掌を見る。まだ、十一年前にブロウの足を掴んだ記憶が、鮮明に思い出せる。熱はまだ身体を巡り、引いていかない。熱を帯びた温かな残渣が、掌に残る。
 かけがえのないものだ。
 かけがえのないものを信頼するのに、どうして前置きや条件や保身が必要なのだろう。
「あなたは……あなたの信頼する誰かのことを、全て知っているんですか? 表も、裏も、その人が隠していること全て。そうしないと――誰かを信頼できないんですか」
 真っ直ぐに見据えて問えば、ローブの男はまるで怯んだように、視線を下に落とした。
「……なるほど」
 聞えるか聞えないくらいの声で呟き、再び顔を上げた。目深に被ったフードを少しだけ上げ、初めてロイに目を合わせてくる。
 神秘的な、銀の瞳をしていた。昼日中にひっそりと浮かぶ月のように、静かで穏やかな色だった。
「こちらへ。目立つことは避けたいのでね」
 そう言って歩き始めた男を、訝しく思いながらもロイは付いて行った。男は一度だけ振り返り、ロイが付いて来ていることを確認すると、満足そうに微笑み、歩調を早めた。
 路地に入り、幾つも角を曲った。何度目か曲ったところで、袋小路に突き当たる。周囲に人気はなく、大通りの騒ぎもここへは届かない。喧騒に追いやられていた朝の冷やかな静謐さが、ここには残っていた。
「さっきは名乗りもせずに、意地悪なことを言ってすまなかったね」
 言いながら、男はフードに骨ばった手をかけた。
 するりと、フードが背中側に落ちる。建物の合間を縫って差し込む光に照らされた男の髪の色に、ロイは息を飲んだ。
「白い髪……? ――エトスエトラ!」
「私の名はダアト・サラクルゥ。この名は、聞いたことがあるね?」
 ダアトはローブの襟元をくつろげると、下から金の鎖に繋がれた首飾りを取り出した。
 鎖には、繊細な金細工が施された宝石が付いていた。仄かな光を帯びた、白藍の網目模様の走る乳白色の錬蝶石だった。人の拳ほどの大きさもある希少な錬蝶石に連なるように、円錐形の金印が下げられている。その底辺を見れば、エラルーシャ教を象徴する、正方形の中に神の目が描かれている印が刻まれているのが見て取れる。
 それは聖なる都、宗教都市ジェノの法王である事を示す首飾りである。
 さらなる衝撃を受け、呆然とする頭で頷いた。このエパニュール大陸に住み、エラルーシャ教を信ずる者が、知らぬはずがない名と首飾りだった。
「三百年前に『世界の嘆き』を鎮めた四人の聖祉司がひとり、宗教都市ジェノを統べる、法王ダアト……?」
 酷く頭が混乱した。ブロウは、エラルーシャ教になど全く興味はなかったし、礼拝に参加しているところなど見たことがない。あの無骨な男に、聖職者の知り合いがいるなどと想像もつかなかった。しかもそれが、エラルーシャ教徒を束ねる王などと――
「君は、とても強い子だ。だからあえて、私は君に真実を話したい」
 ダアトが骨ばった人差し指を宙にかざす。空中を撫でると、薄紫に光る文字が尾を引いた。それがどんどん連なって、ロイとダアトを囲んでゆく。
「いったい、何を……!」
「罪の意識を感じる必要はない。君は私を拒んだ。だからこれは私が勝手にやっていることであって、私が君を強引に巻き込んでいるんだ」
 最後の一文字が、書き込まれる。途端に光の洪水が、袋小路を満たした。
「ブロウは、いい連れを得た」
 ダアトの満足げな呟きを最後に、音が消え、光に飲み込まれる。そして――袋小路から、二人の姿が忽然と消える。
 後には、再び静謐さを取り戻した朝の光が、路地の踏み荒らされた雪を深々と照らしていた。

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