BENNU | ナノ


▼ 021 変異

 駆けた。目指すべき先は不思議と分かる。風に乗って煤が流れてくるたびに、それはアークを呼ぶように小さな悲鳴を上げる。
 コッチダ。追ッテ来イ――
 何層にも重なる悲鳴の襞の間に、再び導く様な声を聞いた。ついさっき、その声が示す先にイラがいた。ならば、その声を追えばいい。
 中央広場を東へ突っ切り、大鷹の銅像を背にすればテヴェレ通りへと足を踏み入れる。 
王都フラムの北東の区画は、国の執政に携わるガヴ・エトス(聖職者区分)や由緒正しきルフト(騎士区分)のなどの、いわゆる富裕層に属する家々が門を構える場所だ。そのため、その区画に面するテヴェレ通りは、宝石店や上品なカフェなど、華やかな店が多い。煌びやかな衣装を身にまとった夫人や、オープンテラスで紅茶を嗜む紳士。本来ダイン(庶民区分:商業者・農業者・その他一般市民)に属するアークとはかけ離れた世界の住人たちの住む通りだ。
 しかし今は、普段の賑わいは影を潜めている。誰もが建物の中に避難し、扉や窓は硬く閉ざされていた。僅かな煤さえも入れまいと、隙間を目張りしている所も多い。窓は黒く煤け中の様子は窺えないが、きっと部屋の奥で、震える手を取り合って怯えていることだろう。慌てて避難した夫人が忘れて行ったと思われるサテンのショールが、黒い風に飛ばされ石畳の上を滑る。それを飛び越し、アークは一人、テヴェレ通りを走った。
 しばらくまっすぐ走ったあと、大通りを逸れて細い路地へと足を踏み入れた。仕立屋や洋服店が立ち並ぶ路地から、さらに入り組んだ裏路地へと、悲鳴が導いてゆく。倉庫などが並ぶ、ただでさえ人気のない裏路地だ。
 その裏路地の石畳には、転々と黒い血の跡があった。イラのものだろう。レニの剣は相当深くイラを切り裂いたようだ。
 それは、躊躇なく剣を振るったという証。
スクァールの安否が心配だった。しかし石畳に残る血痕は黒のみ、赤いものは見つけられない。ならば、彼はまだ無事でいるはずだ。
 悲鳴の導きに従い、左手にあった靴屋の倉庫の角を曲った。煤が濃くなってゆく。近い。気が急いて、足が速まる。
 倉庫を通り過ぎ、今度は右へ。頭痛が酷い。急げ、間にあえ――
 煤を切り裂く獣の咆哮が、暗い路地を振るわせる。倉庫を右に曲った先、目に飛び込んできた光景に、頭の芯が白んだ。その場面が酷くゆっくり動いているように感じられる。根が生えたように、その場から動けない。目が離せない。
 煤の隙間から僅かに差し込んだ一筋の光。それを受けた剣が振り下ろされる。
 弧を描き、切り裂く。
 誰を。
 黒い髪の――
 崩れ落ちる小さな体が、石畳に転がった。仰向けに倒れたスクァールの見開いた瞳が、アークを写し込んでいる。左の肩口から右の脇腹まで走る傷口は、絹のシャツをおぞましいほどの深紅に染めていた。
 それでもレニの剣は止まらない。倒れたスクァールなど振り返りもせず、イラを切りつけた。太ももを裂き、肩に剣を突き立てる。倒れたイラに馬乗りになったレニは、何度も、何度も、イラに剣を突き立てた。
 頭の芯が、痺れていた。
 やめさせなければ。止めなければ。
 何度も名を呼んだが、彼には聞こえていない。振り返りもしない。
 その目には――イラしか映らない。
 相手は既に事切れているにも関わらず、レニは止まらなかった。灰と化しつつある体を、繰り返し苛み続ける。
 やめろ――こんなの、お前らしくない!
 強く握りしめた拳が、熱を帯びた。
「ぐぁっ……!」
 堪らずに、その拳を振り上げていた。鈍い衝撃が拳に響き、じんとした痛みの残渣が胸を締め付ける。相手に手を上げるくらいの喧嘩なんて何度もしてきた。けれど、本気で殴ったのは初めてだった。
 小さく呻いたレニの体が、石畳の地面に倒れる。殴られた拍子に手放した剣が、カランと乾いた音を立てて地面に落ち、アークの足元まで転がって来た。スクァールの赤い血、イラの黒い血が、まだらに混ざり合っている。
「ぐ……痛っ……」
 アークに殴りつけられた左頬を抑え、痛みに顔を歪める。何かが臭った。イラの纏う焦げた腐敗臭ではない。ただ何かが燃えた時の様な、単純な焦げ臭さだ。
 レニが左頬から手を離す。
――なぜ。
 それが初めに浮かんだ言葉だった。
 レニの左頬は、酷く焼け爛れていた。熱した鉄の棒でも押し付けられたかのような火傷を負っている。どうして。僕はただ、レニを殴っただけなのに――
「おい……何だ、その手……」
 目を見開くレニ。訳が分からず、アークはレニを殴った自分の右手を見た。
 絶句する。それが自分の手だとは、到底思えなかった。
「なんだ……これ――」
 信じられなくて、指を動かしてみる。しかしやはり、自分が動かした通りに、その見知らぬ手は動いた。
 自分の手にはあるはずのないもの。
 鱗だ。
 緋、鉛丹、蘇芳、赤錆――。色の濃淡はあれど、赤い鱗がアークの手に生えていた。恐る恐る触れてみると、それは硬く、到底人の皮膚では有り得ない代物だった。
 肘から下の団服の袖がなかった。切れ口は何かに焼かれたかのように黒く、服の繊維が縮れている。――まさか。
 鱗が生え、変わり果てた己の手を握ってみる。するとアークの疑問に答えるかの様に、小さな焔が拳の周りに揺らめいた。
 馬鹿な。団服の袖を燃やしたのも、レニの頬に火傷を負わせたのも、僕だというの――?
「お前……人間じゃ、ない――?」
 レニの、感情のない瞳がアークを捕える。それは深く、汚濁し、闇のように昏く底光る。
 反論など、出来はしない。レニの問いかけは、己の問いでもあるのだから。
――君はいずれ自覚せざる得なくなるだろう。
 ローブの男の言葉を思い出す。あれはただ、イラの声が聞こえるだとか、それだけの事を差していた訳ではなかったのか。その先に起こる変異のことさえも、示していたのだろうか。
 頭が、痛かった。何も考えられなかった。何を考えたらいいのかすら、もう分からない。
 それが、事態を察知することを遅らせた。
「動くな!」
 気が付けば、大勢の騎士に囲まれていた。ガン・ルフト(王都守護師団)――イラを倒すために集められ、追跡していたのだろう。しかし射手隊の構えるボーガンを向けるべきイラはもういない。煤も晴れた。それなのに、射手隊は一斉射撃の構えを解こうとはしない。
 射るべき相手だと認識し、つがえた矢を向ける先にいる者。
 他でもない。アークだ。
 背筋がぞわりと粟立った。向けられる敵意は、肌に突き刺さる様に鋭い。思わず、鱗が生えたむき出しの右腕を左の腕で隠した。
その動きがいけなかった。
 ヒュウ、っと風を切り、一本の矢が足元の石畳に突き刺さった。砕けた石の欠片が足元に飛び散る。
「動くな。次に動いたら一斉に放つ」
もう一度、低い声で警告がかかった。温度のない声。今動いたら、本当に一斉に矢を放つだろう。
 アークを牽制している間に、数人の騎士が近づいて来た。二手に分かれ、一方はレニを保護してアークから遠ざけ、イラの残骸を確認する。一方はスクァールの安否を確かめてから何か伝令を飛ばし、急いで応急処置をし始めた。
 生きているのかもしれない。
 束の間、ほっとしてレニを見ると、レニはスクァールを見て立ち竦んでいた。その顔はまるで、今初めてスクァールが瀕死なのを知ったかのようだった。
 駆け寄り、傷口を見る。すぐさま、地面に転がる己の剣を振り返る。混ざり合った赤と黒の血――。震え出し、膝から崩れ落ちた。己の剣が何を切り裂いたのかを、ようやく悟ったようだ。嘔吐きを抑えようと、口を手で塞いでいる。
 見えたのはそこまでだった。騎士達が包囲を狭めたため、レニがその後ろに隠れてしまう。
「名乗れ。どこの部隊の所属だ」
 指揮官らしき男が近づき、アークに剣を向けながら問いかける。喉が引き攣って、言葉が出てこなかった。なかなか答えない事に業を煮やした指揮官は、さらに近づき、アークの喉元に剣先を突き付けた。
「答えろ。さもなくば今この場で切り捨てるぞ」
「だ……第二少年部隊ノイマン隊所属、アーク・ベッセル、です」
 つかえながらも、なんとか名乗った。指揮官は依然冷たい敵意を向けたまま、射るような視線でアークを睨む。
「ではベッセル、問おう。お前のその腕は……一体なんだ」
 答えようがない。自分が問いたいくらいだった。再度確認しても、やはり、赤い鱗が腕を覆っている。
「貴様は、人間か?」
 人間か、だと?
 当たり前だ。生まれてこの方、城下町のあの小さなレストランで、父と一緒に料理をして、友人と笑い合って、普通に暮らし、普通に生きてきた。今さら何を問いかけるのか。でも――
 鱗に覆われた腕が、頷かせてはくれない。
 返答のない事を、否定と捉えたようだ。
「捕えろ」
 その一言で、周囲が動いた。騎士が迫ってくる。大きな手に捕えられ、両脇から拘束された。強い力で腕を締められ、痛みで呻きが漏れる。容赦のない拘束に、解放して欲しくて体を振って抵抗した。
「離せ! 僕は――」
 最後まで言う前に、後頭部に鈍い痛みが走った。霞む目で後ろを振り向くと、ボーガンを振り上げた騎士の姿が見えた。柄で殴られたのだ。その騎士の姿が歪み、意識が遠のく。
「連行しろ。牢にでもぶち込んでおけ」
 冷たく、端的な、指揮官の命令が聞こえる。
 支えていられなくなった頭がうなだれ、意識に黒いカーテンが引かれてゆく。最後に見えたのは、石畳に転がり血に汚れたレニの剣。黒が赤を浸食し、今はもう、ただ黒い血に塗れていた。

「リ・ジェイニス(次期導師)! どうかお待ちください、塔から出てはなりません!」
「嫌。絶対に嫌! だって、約束したのよ。誕生日くらいは一緒にいてくれるって!」
 白い法衣を来た数人の女官の手をかいくぐり、少女――ラナは色のない廊下を、息を切らして走っていた。
 何の装飾品も飾られていない壁やアーチ状の天井は白い石材で作られており、幾何学模様の浮彫が施されている。廊下には銀の燭台が並び、白木製の窓枠から差し込む透明な外の光が、滑らかな灰白色の床を照らしていた。
 その白で統一された色のない空間の中で、壁や床に書かれた薄紫色の文字だけが色彩を放っていた。それは心臓が鼓動するようにゆっくりと点滅し、僅かに発光している。
 これは、また夢の中か――?
 ぼんやりする意識の中、アークは女官達と共にラナの背を追った。
「リ・ジェイニス! お体に触ります、どうか部屋にお戻りください!」
 女官の懇願になど耳を貸さず、ラナは塔の裏口の扉に向かって駆けて行く。力任せに扉を開け放ち、深々と雪が降り積もる白い裏庭へと飛び出した。
 刺す様な冷たい風に当てられようと、靴の中に雪が入り足先が凍えようと、ラナは躊躇なく進み続けた。薄手の寝巻にガウンを羽織っただけの軽装に、体は瞬く間に冷え切り震えが止まらない。それでも、塔に戻ろうなどとは微塵も考えなかった。
 約束したのだ。今日は、誕生日は一緒にいると。
 我ら一族――エトスエトラ(灰被りの民)が、また一人亡くなったのだという話を、女官達から聞かされた。教会の片隅で枯れ木が朽ちる様にして老いさばらえ、骨と皮だけの姿で絶命している姿が発見されたそうだ。だからダアトは――ジェイニス(導師)はジェノに留まらなければならないのだと。このところ頻発している一族の者の変死。それを弔うために、ダアトはラナとの約束を違えたのだ。
 当たり前の事だと思う。仕方のない事だとも分かっている。しかし、心は素直に聞き入れてはくれなかった。
 ダアトだけは、私をないがしろにしてはいけないのだ。そうでなければ、私は……
 身の回りを世話してくれる女官達。彼女らはラナとの間に一線を引き、それを踏み越えようとはしてこない。ラナの中に秘められた『力』に畏怖の念を抱き、同時に未だ枷を持たないその『力』に恐怖している。ラナが癇癪を起こさぬよう、腫れものに触れるような扱いを受ける日々。
 ねえ、ダアト。貴方にすら振り向いてもらえないのなら、私は一体誰を頼ればいいの。誰を信じたらいいの。
「リ・ジェイニス! どうか――」
「うるさい!」
 まっさらな白い地面に小さな足跡を残しながら、ラナはただひたすら駆けた。足先の感覚はもうない。冷えた指先でガウンをきつく体に巻きつけながら、塔の裏手にある洞窟へと続く細い道を進んだ。
 洞窟には、ダアトがジェノからここへ来るために使っている紋章陣がある。それを使えば、ジェノへと行けるはず。
 会いたい。
 ただそれだけだった。しかし狂おしいまでのその感情が、ラナを走らせていた。
 白い樹皮の針葉樹の森に入り、同じように白く伸びる枝葉のアーチの下を走った。突然の来訪者に驚いた獣たちが、森の奥へと隠れる気配がする。その中で、一羽の白い小鳥だけがラナの後を付いて来た。塔の最上階にある部屋の窓に時折遊びに来てくれる、見知った小鳥だった。
「……お前だけね、今の私の味方は」
 小さく呟いた自嘲気味な笑いにも、小鳥は楽しそうな囀りで答えた。羨ましい。私も、お前の様に自由に空を飛べたなら。あの冷たく寂しい塔など抜けだし、大空に羽ばたいてジェノまで飛んで行けるのに。
 かくんと、膝から力が抜けた。体を支えきれずに、雪の地面に倒れ込む。
 胸が苦しかった。呼吸が上手く出来ない。朦朧とする視界の中、この脆弱な体質を呪った。ついさっきまで羨ましいと思っていた小鳥さえも、その自由さ故に急に憎らしく思える。
「大丈夫。彼の力が目覚めるまでの辛抱だよ、ラナ。契約を済ませれば、すぐにでも元気になる――」
 脆弱な体は、エトスエトラの一族に生れついた者の運命(さだめ)。この壊れゆく体が恐ろしくて、癇癪を起すたびにダアトはそう言って優しく抱きしめ背をさすってくれた。この時のラナには、ダアトの言う『彼』が誰かなんて知る由もない。ただダアトの手が、朱色の入れ墨に覆われた骨ばった手だけが、ラナの不安を取り除いてくれた。
 気が付けば、既に目的の洞窟の前へと辿り着いていた。
 そこは乳白色の岩石が積み重なった岩山の隙間に出来た、狭い洞窟だった。起き上がり、笑いだしそうな膝に必死に力を込めて洞窟の中へと足を進める。
 洞窟の中には、紋章陣以外は何もない。薄紫の淡い光を放つ文字が灰白色の土の地面に書きこまれ、それが大小幾つかの円や線を描き一つの陣を作っている。洞窟の天井を覆う岩石には人の頭ほどの隙間があり、そこから差し込む光が作った眩い輪光が、紋章陣を照らし出している。その天井の穴からは、白い岩石の額縁に切り取られた、より鮮明な空の青を臨むことが出来た。
 セレスト・ケイブ――『至天の洞窟』と呼ばれる由縁だ。
 ダアトのいるジェノへと続く紋章陣は、もう目の前にある。あと少し――這う様な思いで足を進めるが、しかし、ラナはついに力尽きた。その場に倒れ込み、震える喉は空気を求めて細く喘ぐ。朦朧とする視界に白い星がちらつき始めたころ、追いついて来た女官達に捕まった。二人が前に立ちふさがり、一人が厚手の毛布でラナの冷え切った体を包む。あとの一人は、洞窟の入り口で荒い呼吸を整えていた。
「どいて。私は、ジェノに……行くの」
「なりません! そのお体でマナ(魔力)を使えば、『オーブ』が暴れ出しますわ。ただでさえジェイニスの張った結界の外だというのに……一刻も早く、塔へお戻りください」
「嫌……ダアトは、約束したの。今日は、今日だけは……一緒にって」
「リ・ジェイニス、どうかお聞き届けください……! 契約を済ませておられない貴女には、まだマナを使うに足るだけの体力がありません。ジェイニスとも約束したはず。マナは契約前、それも塔の外では決して使ってはならないと……!」
「うるさい、先に約束を破ったのはダアトよ! 邪魔を……しないで!」
 周囲で喚く女官の一人の、ラナを諌める様に肩に置かれた手を振り払った。女官達の隙間から手を伸ばせば、手が届く所に紋章陣はある。ダアトに会う。私は、絶対に、ジェノへ――
 紋章陣を発動させようと、ダアトの言いつけを破り掌にマナを集めようとした時、それは起こった。
 どくん、と、己の中で何かが強く脈打った。目覚め、息衝き、体の内側を這い上がる。それと同時に、ラナの白い皮膚の上に、朱色の、文字の様な入れ墨が浮き上がった。途方もないマナが小さな体から溢れだし、制御できない。体の周りにそれは渦巻き、荒れ狂い、今にも凝縮されたマナが弾け飛んでしまいそうだった。
「『オーブ』が! リ・ジェイニス、なんてことなの……! 皆、逃げなさい!」
 女官達が悲鳴を上げ、ラナを置いて我先にと洞窟の出口へと駆けてゆく。
 マナの奔流で歪む視界の先で、自分から逃げる女官達の姿が見えた。誰も振り返らない。
 皆、私を置いて行く。身捨てて行く――
「う……あぁっ……!」
 張り詰めたマナが、一気に弾け飛んだ。うねり、荒ぶり、そして熱く。激しい光の奔流が溢れ出す。全てが光で白んで、何も見えない。全てを放出するまで、それは止まらなかった。
 一時の後、ようやく終息したマナの奔流の中で、ラナは失いかけていた意識を取り戻した。閉じていた瞼を、ゆっくりと押し上げる。
 洞窟内には、何も残っていなかった。天井を覆っていた岩石は跡形もなく無くなり、青い空が目に刺さる。ジェノへと続く紋章陣さえも掻き消され、地面にはただ、白い石くれが転がっていた。
 そして洞窟の出口があった辺りの地面には、三つの、黒い影が残されていた。少し離れて、同じ様な黒い影がもう一つ。その影の主の姿はない。己の影だけを地面に焼き付け、どこかへと消え去ってしまった。
 どこへ。
 嘘よ。
 私が――消したの?
 細い喉から、絞り出すような悲鳴が漏れる。それは高く、細く響き、青い空に飲み込まれた。

「ラナ――!」
 少女の名を呼び、飛び起きた。触れられないと知っていてもなお、手を伸ばさずにはいられなかった。行き場を無くした手が、現実の世界で所在なく伸ばされたままだ。その先に、もうラナはいない。
 夢現(ゆめうつつ)の感覚を引き戻したのは、手を伸ばした先にあった錆びた鉄格子だった。一気に記憶が戻ってくる。亜人のイラ、狂気に蝕まれたレニの瞳、スクァールのシャツを汚す赤、そして最後に、鱗に覆われた己の腕。恐る恐る確認するが、しかし――
「……鱗が、ない――」
 右腕は、見慣れた白い肌だった。どこから見ても、どこを触っても、およそ人間の肌と何の遜色もない。ただ団服の右肘から下は、やはり無かった。焦げて縮れた繊維が、切れ口にいくつかぶら下がっている。
 あの赤い鱗は、やはり夢や幻なんかじゃないのか。じゃあ、もしそうだとしたら、僕は――
 鉄格子を背もたれにして、冷たい牢の床に座る。呆けた頭を鉄格子の隙間に預けると、天井近くの壁にくり抜かれた穴から月が見えた。見ていて憎らしくなる程の、笑っているかのような細い上弦の月。黒い夜空に抱かれ、素知らぬ顔で光輝いている。その明るさが煩わしくて、目を閉じた。夢の出来事が、ぼんやりと浮かんでは消えることを繰り返す。
――約束したのよ。誕生日くらいは一緒にいてくれるって!
 ああ。そうだった。色々な事がありすぎて、すっかり忘れていた。今がテヴェレ通りで騎士に捕えられた日の夜ならば、今日は――
「僕の……誕生日だ」
 去年は確か、父が大きなケーキを焼いてくれた。恥ずかしいからやめてくれって言ったのに、小さなレストランを飾り付けて、レニとウッツを呼んでささやかなパーティをした。料理を作りすぎて食べきれなくて、二人の家にお裾分をして。次の日、コリーナとダニエーレがお礼を言いに来たっけ。
 彼らは今、どうしているのだろう。きっとウッツは妹達のそばを離れない。コリーナとダニエーレは目を覚ましただろうか。スクァールは無事だったのだろうか。
 レニは――レニは今、何を思っているだろう。
 目を開ける。目の前には、誰もいない。にやついていた月さえも雲に隠れたのか、天井の穴には闇が満ちるばかり。
 ラナと同じ。誕生日の日に、たった一人きり。
 何もない。
 誰もいない。

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