BENNU | ナノ


▼ 022 身体検査

「出ろ」
 翌朝、牢に壮年の騎士が一人現れ、アークを連れ出した。手にはしっかりとした枷がはめられる。その枷に付けられた手綱を引かれながら、騎士の後を付いて黴臭い牢が並ぶ通路を歩いた。
 足元を何か小さな生き物が横切った。目で追うと、くすんだ茶色のネズミが壁際の床にある小さな穴に入って行くのが見えた。それはほとんど隙間と表していい様な代物だが、おそらくは通気孔だろう。ならば、この下にも牢がある。しかしあの狭さでは、一階と違って地下の牢に光が差すことはないに違いない。
 入れられたのが地下の牢でなくて良かった。眠れぬ夜を、あのにやついた月の淡い光にどれだけ慰められたことか。初めこそ煩わしく思ったものの、おかげで牢を完全な暗闇に落とすことはなかった。あんな凄惨な出来事の後、もし地下の牢に入れられていたら発狂していたに違いない。
 牢を二つ通り過ぎた所で、通路の様子が変わった。アークがいた牢から三つ隣の牢の床と壁が抜け、瓦礫が散らばっていたのだ。破られた壁には板が打ちつけてあり穴を塞いでいるが、急ごしらえの物らしく、作りは雑で隙間からは朝日が差し込んでいる。通り過ぎる際に穴があいた床を覗きこもうとして、アークは思わず足を止めた。
 止めなければよかったと、すぐに後悔した。
 板の隙間から差し込む朝日が、うっすらと地下の牢を照らしている。きらりとした光を跳ね返すのは、壊れた金属の手枷だ。その手枷は、乾いた赤黒いしみの中に転がっている。それが何なのかは、想像に難くない。しかしそれ以上に恐ろしかったのは、その牢から発せられる臭いだった。今はもう薄れてきているものの、まだ完全には消え去っていない。その残り滓が、さわりと舞い上がりアークの耳元で小さな悲鳴を上げる。腐ったものを焦がした様なこの悪臭、これは――
「その地下牢は、お前のお仲間がいた牢だ」
 手綱を引く騎士が、地下を顎でしゃくりながら吐き捨てる様にして呟いた。
 今、この男はなんて言った? 
「な……仲間?」
 戸惑うアークに冷めた一瞥をくれ、腰に佩いていた剣をすらりと引き抜く。そして何の躊躇いもなく、その切っ先をアークの首に突き付けた。
「何を、白々しい顔しやがって。あのイラ化した奴と同じ獣の血を引くんだろう? なあ、亜人の坊っちゃん」
「な……僕は亜人なんかじゃ……!」
「言い逃れは出来ねえぜ。俺は見たんだ。昨日、テヴェレの裏通りでのお前の姿を!」
 赤い鱗を生やした、己の腕――その姿を見たということは、この騎士はあの場にいたガン・ルフト(王都守護師団)の一人なのだろう。異形の姿を目の当たりにした男の目は、アークへの嫌悪に満ちている。
「よく今までばれずにいたものだ……人の姿をしているってことは、混血か? 汚らわしい。お前を連行する命令が無ければ、今この場で切り捨ててやりたいところだ」
「そんなはずない……だって、僕は、生まれた時から王都に……あの家にいたんだ」
 震える声の反論は、アークを敵視した騎士に一蹴される。
「ふん、どうだかな。今それを調べているところだ。しかしお前の親父とやらは、なかなかに頑固らしくてな。お前が亜人だということを認めようとしない」
「父さんを取り調べてるのか……? 手荒なことは、してないよね?」
 まさか、父親まで捕えられているなんて。昨日煤の中で、騎士の詰問を拒み拷問を受ける亜人の記憶が頭の中に流れ込んできた。騎士達は、亜人に容赦など全くしなかった。その証拠があの地下牢だ。薄汚れた床に広がる赤黒い血溜まりが、悪い事ばかりを連想させる。
 アークの想像したであろう事態を察し、いやらしく唇を歪ませて嗤った。喉の奥からくつくつ漏れる声は、相手を見下し嘲る事を心から楽しんでいる。
「さあなぁ。正直に吐かなければ、どうなるか分からんな」
「頼むから、手荒な事はしないで! 父さんは心ノ臓が弱いんだ、負担をかけたら、体調が悪化してしまう!」
「知るか。お前が本当に亜人だと証明されれば、そんなこと心配することに意味はないからな」
「どうゆう、意味だ……?」
「分からないか? ここは人間主義のフランベルグ王国。亜人の存在を許さない国だ。そんな国に亜人の血を紛れ込ませた張本人なんだぜ、お前の親父は。前代未聞の重罪人……どう裁かれるか、見物だぜ。そして、亜人そのものであるお前もな」
 牢に、男の下卑じみた嗤いが響く。その嗤い声は、アークの足元をぐらつかせた。眩暈がする。一体、何故、こんなことに――
 呆けるアークを、手枷に付けられた手綱を引いて目を覚まさせる。急に強く引かれ、薄汚れた床に倒れ込んだ。その姿を見下しながら、騎士は言った。
「これから、本当にお前が人間でないのかを証明するために体を調べさせてもらう。お前と、被告人エイジェイ・ベッセルの罪状を明らかにするためにな」
「罪状? 父さんが……被告人?」
 騎士が発する言葉の一つ一つが、何かの悪い冗談のようだった。悪夢の中にいる様で、現実味が感じられない。しかし、この牢の立ち並ぶ黴臭い通路の冷たさは、地下牢から漏れ出す煤の残り香は、体を震わせるこの恐怖は――疑うべくもなく、現実のものだった。
 早く立てと言わんばかりに、騎士が手綱を再び引っ張る。
 そして、さらにアークを奈落へと突き落とす様な言葉を吐いた。
「俺には解せんな。お前、その様子じゃ親父から何も聞かされていないんだろう? そうやって自分を騙し続けた血の繋がらない男を、お前はまだ父親と呼ぶのか?」

 牢を出され連れて行かれたのは、獄舎の近くにある兵舎の一室だった。元は倉庫として使われていた所を急遽片づけたのか、部屋の隅には雑然と物が積み重ねられ、十分な掃除がされていない。しかし、身体検査に使う道具が置かれた机だけは、綺麗に磨かれているようだ。
 その埃っぽい部屋には監視のための騎士が数人おり、部屋の出入り口や窓を固めている。その無骨な男達の中に、白衣を着た、線の細い一人の医師が立っていた。背後に護衛の騎士を付けたその医師は、氷の様な視線をアークに向け、一歩一歩近づいてくる。カツン、カツンとその人が床を踏みならすたびに、アークの心は掻き乱された。
 医師なんて、王都に何人もいるはずなのに。まさか、この人が来るだなんて――
「エレナ、先生……」
 父の薬を貰うために、何度か顔を合わせた事がある。礼儀正しく淑徳だが、愛想笑いはない。小柄ながらもしゃんと背筋を伸ばした姿勢は威圧感を放ち、彼女の持つ厳格さを現している。その厳しい表情は彼女の息子と全然似ていないのに、しかしいつだってはっとして見入ってしまう。その真っ直ぐに伸びた長い濃紺の髪は、少し吊り上った瞳の形は。驚くほど親友にそっくりなのだ。
「久しぶりね。アーク」
 再会の挨拶には、親しみの感情など欠片もない。ただその冷たさだけが、アークの喉を締め付ける。幼い頃にも感じた、彼女からの明らかな敵意。それがより顕著に、不遠慮に、声に滲み出ている。
 エレナ・ヴォルテール――レニの母親だ。
 再会の挨拶も早々に、用意されていた椅子に腰かけるようにと促される。恐る恐る座ると、身体検査はすぐに始められた。
 エレナは粗っぽい手つきでアークの顎を掴むと、右を向かせ、次に左に向かせて顔を良く観察した。口を開かせて、中も確認する。瞳に小さなランプを翳してよく観察した後、エレナは無言のまま何かを書類に書き込んだ。
「貴方に、一つ聞きたい事があります」
 書類への記入が一段落ついた頃、沈黙を破ったエレナはそうきり出した。
「昨晩、貴方の家に騎士が赴き、エイジェイ・ベッセルを捕えました。その際、同時に家の中を検めさせて貰ったそうよ。貴方が『亜人』だという証拠がないかどうか調べるためにね」
「そんなもの、」
 ない、と言おうとして、はっとした。自分が亜人だという証明とは関係ないが、他人に見られたくない、説明困難のものが家にはある。否、『いる』と表現した方がいいだろうか。
 ラナ――。僕のベッドで眠っているはずだ。
 言葉を止めたまま固まったアークに構わず、エレナは言葉を続ける。
「貴方の部屋で、意識を失った少女を保護しました。アーク、いったいどうゆう事なの? 貴方……彼女の血筋を知っていて?」
「血筋……?」
 首を傾げるアークに、エレナは「やはり」という様な溜息をもらした。
「……エイジェイはエラルーシャの教えに関心を示さなかった。教会のミサにも参加しない背教者の息子である貴方が、知るはずもないのでしょうね……。彼女の雪の様な肌、純白の髪――何の色にも染まっていない、穢れないその風貌を持つのは、エトスエトラ(灰被りの民)の一族である証し。エラルーシャ教創設から現在に至るまで、教会の枢機卿を担う一族よ。教会創設から一度だってその構成要員が代わらない、神の寵愛を受けた不老の一族――その子供がなぜ、貴方の家にいるのかしら?」
 軽蔑とも憎悪ともいえる視線がアークを見据える。嘘や沈黙は許さないと言った目だが、アークにはどうやっても答えることなど出来なかった。エレナの言葉で初めて、夢の中でなく現実世界でのラナの情報を得たのだ。
 エラルーシャ教創設は第二期創世記の頃だという歴史を、幼い頃に習った覚えがある。約三百年前の戦争、『世界の嘆き』を平定し、荒廃した大陸を蘇らせた四人の聖祉司。その内の一人が争いに疲弊した人々に、心の指標としてエラルーシャの教えを広めたのだと。
 つまりは、それがエラルーシャ教の起源であり、創設だ。
 そうしてエラルーシャ教がこの大陸の基盤となったのが、即ち『新暦』の始まり。現在の暦は、新暦二百九十八年。
「約三百年も生き続ける、不老の一族――?」
 唖然とするアークにエレナはただ苛立たしげな息をひとつついた。それはまるで、「この背教者め」とも言いたげなようだ。
――あの狂信者。
 他でもない、彼女の息子が言った言葉だ。エレナにとって、エラルーシャ教を信仰しないこと自体が罪であり、許されない事なのだ。
「さあ。答えてちょうだいアーク」
 厳しいエレナの声にも、アークには答える事が出来ず、ただ首を横に振ることしか出来ない。
「あの子は一昨日の夜に、ローブを着た男が連れて来ました。それ以上は知らない」
「ローブの男……? 何者なの、その男は。なぜ貴方の元にエトスエトラの子供を連れて来たの?」
「僕には、分かりません」
「とぼけないでちょうだい!」
「本当です! 僕は何も――」
 はっとして、口を噤んだ。
――私はこの子を君に託しに来た。
――君の血が必要なんだ。
 男の言葉が脳裏に蘇り、思わず歯噛みする。
 あの男は、僕の血が必要なのだと言った。ただの人間ならば、血に何がしかの力を秘めたりはしないのではないか。だとしたら、あのローブの男も、ラナも、自分が人間ではないことの証明に繋がるのではないのだろうか――?
「何か、知ってる顔ね?」
 エレナの言葉に、心臓が跳ね上がった。目を見る事が出来ない。
 エレナはさらに何かを問いかけようとしたが、しかし後ろに控えていた護衛の騎士によってそれを遮られた。
「ヴォルテール女史。その尋問は我ら騎士の仕事。貴女にはこの少年が亜人なのかそうでないのかを検分をして頂きたい」
 多少不服そうな顔をしたが、エレナは冷静な騎士の声に従い、アークを問い詰める事を諦めた。手に持った書類に再び目を向けると、気持ちを切り替える様に頭を振る。
「……検分を再開します」
 高ぶる感情を抑え元の温度のない声に戻ったエレナは、アークに腕を出すようにと命じた。あの鱗の生えていた、右腕を診るのだ。緊張しながら、手枷を付けられているため両腕を差し出すと、長いままの左袖を護衛の騎士によって捲りあげられた。エレナは左右を見比べ、触り比べたりもしたが、特に異常は見られなかったようだ。どこか悔しげにも見える顔をした後、また何かを書類に書き込んでいる。
「あの……エレナ先生」
 恐る恐る、声をかけた。どうしても、聞かずにはいられない。
「ウッツやレニは、今どうしているんですか?」
 書類に何かを書き込む手が止められる。吊り上がった目で、あのレニとそっくりな瞳で、身が竦む程冷たい視線を向けられた。思わず、ぎくりと身を縮める。
 暫く返答はなく、アークに背を向けたエレナは机の上に並べられた診察や治療の道具をいじっていた。消毒薬や包帯を取り出した所で、ようやくアークに向き直る。
「……ウッツ・ウルフから、伝言を預かっています」
 返答は得られないと諦めていたときに、エレナの口から思いもよらない言葉が飛び出した。つい身を乗り出してしまい、護衛の騎士に肩を掴まれる。
「ウッツは、何て?」
 エレナは心底嫌そうに顔を歪めながら、ウッツの言葉を事務的な口調で伝えた。
「『コリーナとダンは無事目を覚ました。元気にしている。ありがとう』、だそうよ」
 自分の口からアークへの謝辞を述べた事を嫌悪しているのか、小さな舌打ちをした。しかしそれは、アークの耳には届いていない。
 良かった。二人は無事だったんだ――!
 安堵の波が体の芯を熱くさせる。興奮冷めやらぬうちに、次の質問をぶつける。もしかしたら、という期待が胸を弾ませた。
「じゃあ先生、スクァールは?」
「あのブランカの少年は……まだ目を覚ましていないわ」
 期待に膨らんだ胸は、エレナの事実を告げるだけの冷めた声に見事に打ち砕かれた。倒れるスクァールを見て、崩れ落ちた親友の姿が思い出される。この事を、レニは知っているのだろうか。
「先生、レニは――」
 最後まで、言えなかった。エレナが鬼の様な形相でアークを睨み付け、その口を噤ませたのだ。それ以上、息子の名を口にすることは許さない――。赤く血走った目が、そう強く物語っている。
 乗り出した身を引き、仕方なく椅子に腰かけ直す。そのアークの手枷が、護衛の騎士によって外された。訝しく思い騎士を見上げるが、しかしすぐに抜き身の剣を向けられる。
「おかしな動きをしてみろ。素っ首叩き落としてやる」
 首に冷たい切っ先を当てられ、つと背筋に冷や汗が伝った。手枷を外す意図が読めなくて、視線でエレナに疑問を訴える。
「コリーナ・ウルフ、ダニエーレ・ウルフの救出時に傷を負ったそうね。破傷風にでもなって死なれては裁判になりません。治療せよとの命令を受けています。上を脱ぎなさい。但し治療と同時に、検分もしますからね」
 ああ、そういえば――。テヴェレ通りで捕えられた後、ここに来るまでずっと牢に入れられていたのだ。止血も消毒も、何もしていない。痛みすら忘れていたようだ。
 脱ぐ際に、乾いた血で体に張り付いた服がパリパリと音を立てた。上を全て脱ぎ捨てると、イラに切り裂かれた右肩辺りがべっとりと血で汚れていた。それを、濡れた布でエレナが拭っていく。白い布が瞬く間に赤く汚れていった。
 突然、エレナの手が止まった。震えだした指先が布を滑らせ、床に落としてしまう。
「傷が……無いわ」
 後ずさり、震える唇で呟いた。周りの騎士が色めき立つ。そんな馬鹿なと、自分でも傷があるはずの右肩を確認する。
 そして、己に恐怖した。
 そこには、何もなかったのだ。傷口も、瘡蓋も、何一つ。すっかり傷の癒えた滑らかな肌の感触が、恐怖を煽る。嘘だ。何かの間違いだ。しかし肩にあるのは、ただ乾いた血の跡のみ。
 傷の痛みは、様々な事があって感じる余裕がなかった訳ではない。無かったのだ。痛みなど。
「こんなこと、人間では有り得ない……やはり、亜人!」
 エレナの言葉で、周囲の騎士達が一斉に剣を抜き放った。今はっきりと、アークを王国の敵(かたき)と見定めたのだ。しかしそれを、エレナ自身が手を挙げて制止する。
「ここで斬っては駄目よ! この亜人は、エイジェイ・ベッセルの罪の証。殺してはなりません」
 放心状態のアークに近づき、エレナは検分を再開した。背中側に回った所で、足を止める。細い指が背中に触れた所で、はっと息を飲む音が聞こえた。
「皮膚が、硬化している……? この手触り、蜥蜴の鱗のよう――」
 指が離れる。そして一言、「神よ」と呟き、震え出した体を自らの腕で抱きしめた。
「十五年前、やはりエイジェイを止めておくべきだった……。ヒルダ、愚かな私を許して――」
「ヒルダ? ……母さんが、何か、」
「ヒルダを母と呼ばないで! お前の様な化け物を彼女が産むはずがないわ!」
 ヒステリックな程の高い声で叫び、振り向いたアークの頬を平手打ちした。パンっと耳元で音が弾け、じんとした痛みが残る。振り上げたままの震える手を、もう片方の手で支えながら、アークを侮蔑と恐怖が入り混じった瞳で見据えた。
「ヒルダは、産めなかったの。十五年前、身籠った子と一緒に――死んだのよ」

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