BENNU | ナノ


▼ 020 狂気の瞳

 風向きが変わった。
 とたんに中央広場は煤にまかれ薄暗くなり、腐敗物を焦がした様な悪臭が立ち込める。元凶は風上に発生したのだろう。そのせいで避難が遅れた中央広場の人々が、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
「そんな、嘘だろう! こんな街中で……!」
 レニは首元に下げていたマスクを引き上げ、素早く剣を抜く。頭痛に耐えるアークも辛うじて立ち上がり、マスクを付けた。ポケットからハンカチを取り出し、マスクを持たないウッツに渡そうとする。だが差し出した先に、既にウッツの姿はなかった。
「コリーナ! ダニエーレ!」
 ウッツは既に、離れた妹たちの方へと駆け出していた。布で口を押さえることもせず、大声を上げて。
「ば、馬鹿野郎!」
「ウッツ! 駄目だ、煤を吸いこんじゃいけない! 吸いこんだら――」
 体の内側から侵されて、イラ化してしまう!
 最後まで言えなかった。そんな暇はない。二人は反射的に駆け出し、ウッツを追った。
 幼い頃の怪我のせいで、右足を引きずるようにして走るウッツに追いつく事は簡単だった。レニが強く腕を引いて止め、アークが素早くハンカチで口を覆ってやる。
「離せ! 二人が――」
「落ち着いてくれ! 二人なら僕らが迎えに行くから」
「でも」
「四の五の言ってねぇで早く避難しろ! イラ本体が現れてからじゃ遅いんだ。お前の足じゃ逃げ遅れちまうだろうが!」
 レニの一喝に、ウッツはようやく頷いた。無力な自分が悔しいのだろう、歯噛みする鈍い音が聞こえる。
「ウッツはあそこへ避難していて」
 一番近くの建物である喫茶店を指さす。そこには広場にいた人々がなだれ込むようにして避難していた。誰もが焦り、混乱状態だ。急がなければ、イラや煤を入れまいと扉を閉ざされ締め出しをくらってしまう。
「さあ、行って!」
 急かすようにウッツの背中を押す。渋々ながらも喫茶店へと足を向けた、その矢先。
 遠くで、細い悲鳴がした。聞いたことのある声だった。あれは、まさか――
「コリーナぁ!」
 一転、踵を返したウッツは再び駆け出した。アークとレニも続く。
「頼むから、ハンカチで煤を吸い込まない様にしていて!」
 追い抜きざまにそう叫び、二人はコリーナ達の元へと急いだ。
 頭が痛い。割れるようだ。すぐ近くにイラがいるのが分かる。感情が。憎悪が。頭の中に流れ込む。
――同盟国の回し者か。
――違う!
――どうやって国境線を越えた!
――それは……
――だんまりか。面白い。簡単に死ねると思うなよ。
 どこかの誰かの、憎しみに渦巻く走馬灯が頭を巡った。酔う。膝が笑いそうになる。でも、足を止める訳にはいかない!
 コリーナ、ダニエーレ、スクァール。
 視界が悪くて見つけられない。どこまで遊びに行ってしまったのだろうか。悲鳴が聞こえたのだ。そう遠くはない筈なのに。
 ぐらつく意識の中、必死で耳をすます。すると流れ込んで来る感情の波が、ある一定方向からやってくるのが感じられた。その悲鳴の糸を手繰り寄せる。
 追エ。コッチヘ来イ――
 何かに、誰かに、呼ばれているような気がした。疑おうとは思わなかった。手繰り寄せた悲鳴の糸の先、それはいる。必ずと、確信があった。
「レニ、あっちだ!」
 東のテヴェレ通り方面に向かいかけていた足を、北のブリタニア通り方面へと向けて走った。
 進むにつれ、煤が濃くなりさらに視界が悪くなった。しかしそれは、確実にイラに近づいているという証拠でもある。
 そろそろブリタニア通りの入り口に聳え立つ大鷹の銅像が見えるという頃、レニと目配せをして足を止めた。
 気配があった。それは悲鳴を引き連れてアークの体を通り抜けて行く。頭蓋の内側を鉤爪で引っ掻かれるような痛みが襲い、呪いの言葉が繰り返し喚く。許さない。引き裂き、苛み、殺してやろう――
 黙れ!
 心の中で叫び、呪詛に満ちた言葉を頭から追いだす。そんな事に惑わされている暇などない。三人を助けなければ。
 しかしイラの気配はするのに、三人の声が聞こえない。イラに襲われているのなら、泣き声の一つや二つ上げるはずなのに。
 風の流れが変わり、煤が薄れてゆく。すると太陽の光が差し込み、おぼろげだった視界が安定を取り戻した。見える。中央広場の地面。敷き詰められた色石や貝殻、琺瑯。そして、細い足。
「コリーナ……?」
 声が震えた。
 だって、動かない。地面に投げ出されたあの細い足、見たことのあるスカート。あのブーツは彼女のお気に入りだった。
「コリーナ!」
 隣にいたレニが飛び出した。
 その刹那、大気がわななく。いる。煤に紛れて姿は見えないが、コリーナのすぐそば。突然向かってくるレニにそれは驚き、警戒している。そしてレニを見定め、闇の向こうで牙をむく。
 咄嗟に、体が動いていた。
 煤を割いて飛び出してきた影と、コリーナを助け起こそうとしたレニの間に飛び出した。二人をかばうように、影に背を向け盾になる。何か熱いものが、肩を裂いた。遅れて痛みが走る。歯を食いしばり、呻きを飲み込んだ。
「アーク! ……お前、血が、」
 アークの顔と、肩から流れ地面に落ちる赤い雫を交互に見ながら、レニは驚愕と心配が入り混じった顔を歪ませた。答えている暇はない。レニには聞こえない悲鳴が、背筋を戦慄させている。
「避けて!」
 レニを突飛ばし、動かないコリーナを抱えてその場を飛び退く。その直後、立っていた場所の地面が抉られた。粉々になった色石が辺りに散らばる。
 唸り声がした。これはレニにも聞こえるのだろう。コリーナを抱えて倒れ込んできたアークの向こう、煤の黒霧から姿を現した影に目を向ける。
「……亜人?」
 レニの口から、ぽつりと言葉が漏れた。
 煤から姿を現したのは、亜人のイラだった。
 おそらくは、ジャハダ族と呼ばれる狼に似た姿の亜人種なのだろう。しかし、その特徴的な長い吻は潰されており、ひん曲った上顎と下顎は正しく噛み合わない。右目はなく、ぽっかりと空いた暗い眼窩からは黒く沸騰した血が溢れ出ていた。体は数え切れないほどの火傷や傷があり、その周りの体毛は抜け落ちている。
 煤に侵された故の傷だけではなかった。刃物によって削ぎ落されたであろう皮膚、鞭で打たれたような筋状の傷。あれは――拷問の傷痕だ。
 彼がそうなのだ。流れ込んできた憎悪の思念の中、フランベルグ騎士によって苛まれていた亜人の、後の姿だ。
 その傷と火傷だらけの腕に、一人の少年が抱えられていた。あの癖のある黒髪。絹のシャツ。見間違いようがない。
「スクァール!」
 アークに呼ばれても、スクァールは顔を上げなかった。ぐったりとしたまま、イラの小脇に抱えられている。
「亜人……」
 隣で、レニがまた呟く。その声にぞっとした。ただ言葉を繋いだだけの、抑揚のない声。その声に感じられるのは、深い深い、憎悪の片鱗だった。レニを見れば、その目は大きく見開かれ、亜人のイラだけを見ていた。アークやコリーナなど、もう視界に入っていない。
 剣を構えるレニ。その口から、また抑揚のない言葉が零れ落ちる。
「殺してやる――」
 耳を疑った。イラの腕には、スクァールが抱えられているのに。しかしレニはそんなことなど意に介さず、イラに向かって切り込んでいった。
 素早くイラのとの間合いを詰めたレニは、下から剣を切り上げる。それを飛び退いて避けたイラは、煤によって変異したのであろう鋭く尖った爪でレニを突き刺そうと、空いている腕を振り上げた。向かってくるそれをかわし、再びレニが剣を薙ぐ。その太刀筋は鋭く、容赦なく、レニの全身全霊を持って振るわれている。
 おかしい。あいつの目には、スクァールが見えていないのか。
 レニの剣はスクァールを助け出すためのものではない。亜人への憎悪――果ては殺意によって突き動かされているように見えた。
「レニ! 下手に刺激したら、スクァールが危ない!」
 そう呼びかけるが、レニは振り向かない。何も聞こえていないかのように、ひたすらに剣を振るっていた。憎しみに囚われた昏い光が、レニの瞳を濁らせてゆく。
 どうして。僕の声が届かない!
 止めに入りたくとも、嵐の様なレニの剣戟に付け入る隙はなかった。
 イラの叫びが、中央広場に木霊した。激しい攻防の末、レニの剣がイラの脇腹を裂いたのだ。
 レニから距離をとるイラ。敵わないと悟ったのか、背を向けて走り出した。東のテヴェレ通りの方へ向かって、一目散に逃げてゆく。しかし、その腕には依然としてスクァールが抱えられたままだった。彼の細い首が、イラが歩を進める度に頼りなく揺れる。
「逃がさねぇ」
 レニが逃げるイラを追って走り出す。呼びとめたが止まらない。すぐに煤に紛れ、姿が見えなくなってしまった。
 何か気持ちの悪い違和感に、中央広場が覆われているような気がした。そう、何か――大きな間違いを犯している様な気分だ。
 いくらレニが亜人を憎んでいたからといっても、気を失ったスクァールに構わずイラに剣を向けるなんて。
 そしてイラにしたってそうだ。あれは理性を失った、無差別に人を襲う化け物ではなかったのか。なぜスクァールを連れて逃げた?
 頭を振り、溢れる疑問を振り払う。今は親友の妹を助けなければ。幸いなことに、気を失っているだけのようだ。怪我をしている様子はなく、意識がないせいか呼吸も浅い。これならば、煤をあまり吸い込まないですんだかもしれない。
 イラが中央広場から離れたせいか、煤の黒霧が徐々に薄れてゆく。その中を、アークは目を皿にしてダニエーレの姿を探した。
 そうしてようやく、その姿を見つけた。大鷹の銅像の下、台座に背を預けるようにして座り、顔を伏せている。コリーナと同様、意識がないのか全く動かない。
「ダン! ダニエーレ、しっかりして!」
 肩を揺するが、反応はない。その反動で体が傾ぎ、力なく地面に倒れた。その動いたあとに、赤く、台座に筋を引く。
「ダ……ダニエーレ?」
 頭の芯が働かない。一瞬全てが真っ白になる。
 しかし腕の中には気を失ったコリーナがいる。それがアークを卒倒させることを許さなかった。
 震える手で、ダニエーレの状態を確かめた。脈はある。耳を澄ませば、微かな呼吸音も聞こえる。――生きている!
 だからといって、安易に安心はできなかった。出血しているのは頭からだ。おそらくは、イラに突飛ばされたか何かで、銅像の台座にぶつけたのだろう。姉と同様、意識がないことで煤をあまり吸い込んではいないかもしれないが、状況は芳しくない。一刻も早く医者に見せなくては。
 どちらか一方を先に運び、一方をここに残して行くことなど考えもつかなかった。
 二人を、一刻も早く安全な所へ。ウッツの元へ――
 ただそれだけを考えていた。腹下に力を溜めて足を踏ん張る。コリーナを肩に抱え上げ、ダニエーレを脇に抱えた。肩の傷に響くのか血が溢れ出し、足を進める度に鮮血の斑点が地面を汚す。
早く。もっと早く歩け! 二人を助けなければ――
「アーク!」
 煤で霞む視界の先、必死で駆けてくるウッツが見えた。そばまで来るとすかさずダニエーレを受け取り、己の腕の中に帰ってきた事に安堵し抱きしめる。しかし、その手がぬるりとした赤いものに触れた途端、ウッツの顔が凍りついた。頭から血を流す弟に悲鳴を上げ、何度も名を呼び、揺さぶって起こそうとする。
 アークはその手を掴み、取り乱すウッツを落ち着かせるように優しく握った。
「あまり動かしちゃ駄目だ。頭を打ってる。大丈夫、ちゃんと生きてるよ。コリーナも無事だ」
 アークの言葉に、ウッツは自制するように頷く。冷静に耳を澄まし、ダニエーレの呼吸があることを確認すると、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。そうしてようやく、アークの出血に気が付いた。
「お前、それ……イラとやりあったのか! 大丈夫か?」
「僕は大丈夫だから、早く安全な所へ。ダニエーレも早く医者に診せたい」
「レニと、スクァールは?」
「スクァールは……イラに攫われた。レニが追ってる」
「な、なんだって?」
「ウッツ、今は早く……安全な所へ行こう」
 立ち話をしている時間が惜しい。三人を安全な所へと送り、早くレニを追いかけたかった。
 何か嫌な――嫌な予感がする。
ダニエーレをウッツにまかせ、コリーナを抱きかかえると、一番近くの建物へと急いだ。
 北のブリタニア通りの入り口と、西のエトルリア通りの入り口の丁度真ん中辺りにある一軒の書店に、二人は辿りついた。しかしやはり、扉は固く閉ざされている。硝子部分も煤けた黒い汚れが付き、中の様子はよく見えない。ということは、中からも外の様子は分からないはずだ。
「すみません、開けてください!」
 ウッツは扉を叩き、大声で呼びかけた。しかし返事はない。
「怪我人がいるんだ! 開けてください!」
 今度はアークが、硝子部分を叩いた。大きな音が鳴り、叩いた所に肩から掌まで伝った血糊が少し飛び散る。
「お願いだ! 開けて!」
 再度扉を叩こうとすると、鍵が外れる音がした。薄く扉を開け、男の顔が恐る恐る様子を窺うように覗いてくる。
 アーク、そしてダニエーレの出血を見た男は、慌てて扉を開き四人を中へと引っ張り入れた。
「大丈夫かいあんたら!」
 煤が入り込まない様素早く扉を閉め、この書店の店主らしき初老の男は慌てた様子で問いかけた。同じく店内に避難していた人々が、何事かと集まって来る。
「イラにやられたのかしら……」
「酷い傷……まだ子供なのに」
 周囲で囁かれる小さな話声が、薄暗い店内をざわつかせる。中にはアークとダニエーレの出血を見て、恐怖で泣きだす子供もいた。それを母親らしき人物が必死であやす。しかし彼女自身の顔もまた、恐怖にとりつかれている。
 顔に巻き付けていたアークのハンカチを外したウッツは、ダニエーレをゆっくりと床に横たえた。アークもその横にコリーナを寝かせる。
「ウッツ。コリーナとダニエーレのこと、頼むね」
 そう言ってすぐ立ち上がり、扉に手をかけた。
「レニを追いかけるのか」
「うん。……あいつ、あいつ何か変なんだ。放っておけない」
「変?」
「ごめん、上手く説明できない。帰ったら話す」
「でもお前、怪我が……」
「大丈夫。それよりも、レニが心配だから」
「何を、馬鹿なことを!」
 扉を開こうとしたアークを、店主が怒鳴りつけた。
「君が一番大怪我しているんだぞ! 外にはイラがいるんだろう、出ちゃいけない。ガン・ルフト(王都守護師団)が来るのを待ちなさい!」
 扉を開く前に鍵を閉めようと走り寄ってきたが、一歩遅かった。ウッツの制止も聞かず、アークは再び煤に霞む中央広場に飛び出した。
――殺してやる。
 レニの、あの憎悪に満ちた声が忘れることが出来ない。
 イラの向って行ったテヴェレ通りへと急いだ。傷の痛みなど感じる余裕もない。
 どうか間に合ってくれ。
 レニが、レニで無くなってしまう前に。
 早く。

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