▼ 011 疑惑
王都に異変が起きたのはその翌日、日も上がりきらない早朝のことだった。
中途半端な時間に眠ってしまい、夜に目が冴えてしまったアークがやっとまどろみ始めた明け方、王都に鳴り響く警鐘で意識を覚醒させた。鶏もまだ目を覚まさない時間にそぐわない、けたたましい鐘の音。驚いて窓を開ければ、アークと同じように何事かと窓から顔をのぞかせる、寝ぼけ眼の住民が何人も見えた。
一つ、また一つと、薄暗いフラムの街が目を覚ますように、ランプの明かりが灯ってゆく。
「アーク、起きているか?」
寝巻きにカーディガンを羽織ったエイジェイが、部屋の戸を開けた。手に持った小さなランプに照らされた顔は、不安そうに歪められている。
「父さん、これは一体……?」
「分からないが、王都で警鐘が鳴るなんて……何事だろうか」
そう言い、エイジェイも窓から街を見下ろした。そのときに、エイジェイの鼻が異臭を捉える。
「なんだ、焦げ臭い……」
寝巻きの袖口で鼻を多い、眉を顰めた。
この腐敗物が焼けるような焦げ臭さ、アークには覚えがあった。数日前のナキア森、そこでの出来事が悪臭をきっかけに甦る。
そんな、まさか。
嫌な予感がよぎる。アークの背中が悪寒に粟立った時、はっと思い出す。二回、間おいて一回。その繰り返し。この鐘の打ち方は――召集命令だ!
明け放した窓の下を、右の上腕部に黄色い腕章を付けた騎士が走ってゆく。本部の伝令だ。
「民間人は家から出るな。ルフト(騎士区分)は南門へ集合だ、急げ!」
突然の警鐘に戸惑う住民たちを家へ入るように促し、剣を持った騎士たちを南門へと扇動する。
騎士の慌て様と、この臭気。よほど王都に近い位置で煤が発生したのだろう。イラの襲来を示す悪臭は、既に城下町に届いている。
アークは驚愕で窓枠に張り付いていた手を無理やり引き剥がすと、急いで着替え始めた。クローゼットから団服を取り出し、素早く袖を通す。その腕を、エイジェイは咄嗟に掴んだ。
「まさか、少年部隊も出るのか? 王都には他にも騎士がいるだろう」
信じられないといったような、エイジェイの目。アークはエイジェイの手をそっと剥がすと、穏やかに微笑んで見せた。
「大丈夫。どんな命令が下るかは分からないけど、王都にはガン・ルフト(王都守護師団)もイェル・ルフト(近衛騎士)もいるし、きっと僕らの部隊は後方からの支援なんじゃないかな」
「……体は、もういいのか?」
「よく寝たからね」
そうか、と沈んだ返事を返すエイジェイに、出来る限り穏やかに、恐れを抱いていると悟られないように言った。上手く笑えているかどうかは分からない。ぎこちない笑みでも、それがアークの精一杯だ。しかしそれは同時に、意地でもあった。
本当は怖い。それでも、自分だけ逃げる事などしたくない――
最後にベルトを締め、剣を佩く。その身を守る道具なのにも関わらず、恐ろしくもある重みを感じながら、アークは父親を背に扉を開いた。
「約束は、ちゃんと守るから。――いってきます」
扉を閉める。扉越しの小さな返事を聞いてから、アークは階段を駆け下りた。
外に出ると、東の空が赤く染まり始めていた。鶏が夜明けを告げ、また一日が始まろうとしている。その冷えた明け方の空気を振るわせる警鐘の音さえなければ、いつも通りの朝だった。
集合場所である南門に向かって走るアークは、緊張で胸が高鳴る中、一つだけ場違いな安心感を得ていた。
もうすぐ太陽が昇る。
今もうっすらと緋色のヴェールが空に広がり始め、足元を照らすためのランプは必要ない。これならば、以前のように暗闇に怯えることはないだろう。
カツカツと石畳を蹴る足音が、閑散とした通りに響いた。冷えた空気に、いくらかの焦げ臭さと腐臭が混じる。爽やかとは言いがたい早朝の空気を切りながら、アークは南門へと続くバルモア通りを走った。
アークの他にも召集をかけられた少年兵が、まるで石でも飲み込んだような固い顔をして走っていた。緊張しているのはみな同じ。そう思うと、アークも自らの勇気を奮い立たせないわけにはいかない。
「よう、おはようさん」
後ろから声をかけられ、肩を叩かれた。驚いて振り向くと、そこには見慣れた顔があった。
「レニ!」
「なんだぁ、そのしけたツラは。しゃきっとしろよ」
にやりと笑い、レニはアークの隣に並んだ。
この減らず口。いつも通りのレニだった。執務室を飛び出していったときのような激しい感情のぶれなど、もうどこにも感じられない。ウッツがレニを探し出してくれたんだ――アークは普段の調子を取り戻したレニに、心の中でほっと息をついた。
「こんな時間……というか、召集なんて初めてだな。緊張してるか?」
「まあ、少しは。レニと同じくらいさ」
「けっ、嘘つきめ。がちがちのくせに。まあ、軽口叩けるくらいなら上々だな」
くっくと意地悪く笑いながら、レニは走る速度を上げた。それに合わせ、アークも足を速める。隣を走る少年兵に抜かされたのだ。ちんたら話しながら走るわけにはいかない。
このまま無言で南門を目指すのかと思った矢先、レニが「そうだ」と口を開いた。
「ウッツから聞いたよ。お前にはえらい心配かけたらしいからな、一応言っとく。……俺な、昨日あの後『聖者の丘』に行ってたんだ」
前を見据えたまま、レニは落ち着いた声で言った。
聖者の丘は、王都の北の外れにある墓地のことだ。小高い丘の上からは王都が見渡せ、遮るもののない空は、夜になると満点の星空を臨む事ができる。綺麗に整備された花壇に哀悼の意を示す白いリグレットの花が風に揺れる、美しい丘だ。その墓地には、今は亡きアークの母親が眠っている。そして、同じようにレニの父親も眠っているのだ。
「……ダクさんに会いに行ったの?」
「ああ。ブランカのことを報告してきた。それから、誓ってきた」
「誓い?」
レニが頷く。アークを見上げたその瞳には、飛び火しそうなほど激しい、怒りの炎が宿っていた。
「俺はブランカをぶっ壊した亜人共を、絶対に許さない。――絶対だ」
自分を睨み上げるレニの目に気おされ、唾を飲む。
怖いと思った。いつもくるくる表情の変わるレニだが、こんなにも憎しみに満ちた目は初めてだった。
南門前の空気は、痛いほどに張り詰めた。集合した少年兵はそれぞれの隊長から点呼を受け、緊張に声を裏返らせながら返事をする。その横を、ガン・ルフト(王都守護師団)と呼ばれる騎士たちがマントをなびかせ、隊列を成してイラの纏う黒霧に霞むルノー丘陵へと行軍してゆく。その騎馬隊に乱れなど微塵もなく、馬は嘶き一つ漏らさない。規則正しい蹄の音は、地面と大気を震わせる。その統制の取れた様は、少年たちの緊張を煽るのに十分な迫力を持っていた。
「よし、全員だな」
ノイマン隊の最後の少年が返事を返し、名簿の名前に印をつけたノイマンは顔を上げ少年兵たちを見た。その目つきは、いつになく厳しいものだった。
「時間がないから手短にいくぞ。この先のルノー丘陵で大規模なイラが発生した。先ほどガン・ルフトが発ったが、それ以前にいち早く煤の発生を察知した王女殿下の部隊が先にイラの波を食い止めている」
そこで、一瞬少年たちはざわついた。アークも驚きを隠せない。王女殿下が、最前線で戦っているだって――?
まだ年若い女性ながら、「戦姫」と呼ばれるほどの功績を挙げているフランベルグ王国の王女。その王女が前線にいると知っただけで、少年たちの目には安堵の色が広がった。しかし一瞬気の緩んだ少年たちを、ノイマンは「最後まで聞け!」と一喝する。
「大規模なイラの殲滅は殿下とガン・ルフトたちがやってくれる。その後方支援は他の少年部隊がやる。我々の隊が担当するのは、それとは離れた場所に発生している小規模なイラだ。斥候からの情報によればルノー丘陵の北西部、数はおよそ十。正面の大規模なイラと戦っているガン・ルフトたちの横っ腹を突かれないよう、速やかにこれを殲滅する」
少年たちは、一気に静まり返った。唾を飲み込む音もしない。ノイマン隊の任務は後方支援ではない――実戦だったのだ。
アークの胸の中、心臓が鐘のように体の中で鳴り響いた。どく、どくと、体の内側から胸を叩く。落ち着け、おさまれ。言い聞かせるように心の中で繰り返すも、鼓動はなおも速度を増してしまう。
「黒霧の中に入ると視界が悪くなるから、私一人では指揮が行き届かない。よっていくつかの班に分ける。今から名を上げるものは班長となり、適切に状況を判断し自らの班をまとめるんだ。名を呼ばれたら前に出ろ。バングス、ウォーカー、ダリアス、ロックハート……」
次々と名前が呼ばれ、名を呼ばれた者が前に出る。皆相応の剣の腕を持ち統率力に優れ、演習では何度も班長を経験してきた者ばかりだ。締まった顔をし、初任務の恐怖に怯えを見せていない。どの班に当たっても安心して指揮を仰げる、頼もしい先輩たちだ。
しかしその最後、アークの予想しなかった名が呼ばれた。
「ヴォルテール」
アークも団員も、名を呼ばれた本人でさえ返事を忘れ、言葉を失った。
確かにレニは、少年兵随一の剣の腕を持っている。しかし日々の破天荒ぶりとどこか詰めの甘い性格上、班長を任されることはいまだかつてなかったのだ。それなのにも関わらず、初任務での班長抜擢――
「どうしたヴォルテール。出来ないか」
返事のないレニに、ノイマンが低い声で尋ねる。レニははっとしたように首を振り、前へと出た。
「出来ます。やらせてください」
「お前の剣の腕には皆一目置いている。いいか、最後まで油断するなよ」
「はい、肝に銘じます」
敬礼を返し、レニはノイマンの横に並んでいる班長の列に加わった。年上の班長たちと並ぶと、最年少のレニはひとりだけ異様に小さい。それでも、レニは胸を張り堂々としていた。
その後は、残りの団員の名が班ごとに読み上げられた。レニの班がいい。そう思っていたアークだったが、無念にもそれはかなわなかった。最も入りたくなかった班、ダリアス班に入れられてしまったのだ。名を呼ばれオレンの班列に並んだとき、オレンの眉間に皺が寄ったのを、アークは見逃さなかった。
班分けが済み、ノイマンは一度咳払いをすると、少年たちの緊張を和らげるような穏やかな口調で言った。
「突然の事だが、今日がお前たちの初任務になる。緊張している者も、そうでない者も、ここにはいるだろう」
少年たちを見回す。アークを含め、ほとんどの少年たちが恐ろしさで身を固くしていた。しかしレニやオレン、ごく少数の者は、目をぎらつかせ恐れることなくノイマンの言葉を受け止める。
「臆するな! お前たちは私の訓練に耐え抜いたのだ。その己を信じろ。訓練どおりにやれば上手くいく。警戒だけは怠るな。油断など戦場には無用の長物。さすれば戦神は我らに味方する。王国騎士団(マルアーク)の名を汚すなよ!」
よく通る大声でそう締めくくり、ノイマンはもう一度少年たち全員と目を合わせていった。
そうすると、緊張と恐れでがちがちの少年ひとりひとりの瞳に、徐々に戦いに臨む気概が生まれいくようだった。臆病な眼光には炎が灯る。隊長から激を飛ばされた少年たちは、恐れに曲がった背をぴんと伸ばした。
ノイマンがまっすぐに右手を上げる。東から差した一筋の暁光を受け、アークは一瞬眩しさに目を細めた。その暁光を切り、ノイマンの手が振り下ろされる。それを合図に、少年たちはノイマンについて行軍を始めた。
太陽が昇る。しかし朝霧と混じった黒い煤は、朝を告げる清らかな光などものともせず、陰鬱な靄となって大地を漂う。大気の流れとともに濃くなり、薄くなり、前方に見えるルノー丘陵の景色を揺らがせた。
「怖いなら帰れ。臆病者」
前を歩いていたオレンが振り返り、冷たく言い放った。予想はしていた言葉だが、面と向かって言われるとやはり腹が立つ。誰が帰るもんか――そう出かかった言葉を、アークは飲み込んだ。
オレンはひどく疲れた顔をしていたのだ。目の下にはくまが目立ち、生来の白い肌は今や血色悪く青白い。いつもきれいに整えてある髪はあちこちにはね乱れている。
その様子を確認してからやっと、アークは昨日執務室で聞いてしまったオレンの父親の事を思い出した。きっと昨日のうちに、オレンは知ったのだ。ブランカが落ちたこと、父親がそこで亡くなったこと――
沈黙するアークに、オレンが怪訝そうに眉を顰めた。
「お前、確か昨日騎士団長の執務室に行っていたな。……まさか、知ってるのか?」
オレンの指摘に、アークはさらに言葉を詰まらせた。集まったときの少年兵の様子や今のオレンの言葉からすると、ブランカのことはまだ公にはされていないようだ。それなのに、自分は知っている。そのことが顔に出てしまっているのだろう。それをオレンは見逃さなかった。
「……はい。昨日執務室で団長と殿下の話を聞いてしまって……」
嘘をついても何にもならない。すぐにばれてオレンの怒りを買うだけだと、アークは正直に話した。
それを聞いたオレンは顔を顰め、前を向いてしまった。その後姿には、計り知れないほどのオレンの悔しさ、悲しさの感情が漂っていた。そしてもう一つ。亜人を許さないと言ったときのレニの目と同じ、激しい憎しみの感情がオレンの周りに渦巻いている。
許さない――
アークの頭の中にそう響くくらい、オレンの感情が無言の背中で叫んでいた。
「あの、先輩……大丈夫ですか」
「黙れ。お前なんかに慰めの言葉なんて、かけてもらいたくない」
おずおずと話しかけた言葉を、ぴしゃりと跳ね除けられた。
「今は、任務中なんだ。俺の事情なんて、関係ない。余計なお世話なんだよ」
「すみません……でもきっと、リリ団長や王女殿下が……仇は、きっと」
「王女殿下だと!」
かっと怒りをあらわにしたオレンが、アークを振り返えった。そのことに面食らう。なぜ王女殿下という言葉で、そんなにも怒りをむき出しにして睨んでくるのだろう。怪訝そうなアークに、オレンは疎ましげに舌打ちをした。
「これだから、能天気なやつは嫌なんだ」
アークがむっとして眉を顰めると、オレンはアークの隣まで列を下がってきた。ブランカのことはまだ公にされていないこと。隣を歩くアークにしか聞こえないくらいの小さな声で、オレンは話し始めた。
「いいか。ブランカ周辺の視察に向かわれたはずの殿下は、ブランカ防衛の責任者である俺の父上の元に訪う予定だった。だが坑道で崩落事故があった時も、近くにいたはずの殿下は現れなかったそうだ。そこに亜人どもが襲撃してきた」
「確か、エイルダーレからの応援も間に合わなかったって……」
「やつらの得意とする夜襲で、一気に攻め込んできたんだ……ブランカにいた者に、応援を要請する暇などなかったそうだ」
「……どうゆう、ことです?」
オレンの説明に頭が混乱する。ブランカは、エイルダーレに応援の要請は出せなかったというのだ。エイルダーレからの応援は来たというのに――
「ブランカで生き残った家の者からの便りで知った。……応援を連れてきたのは、王女殿下だそうだ。なぜだ? 殿下はブランカにいなかったのに、なぜブランカ襲撃を察知し遠く離れたエイルダーレから応援を引き連れてくることが出来た?」
オレンの鋭い眼光が、アークを刺す。その凄みの聞いた視線に、何も言い返すことが出来ない。
しばらく睨みあった末、オレンがすっと視線を逸らした。
「お前なんかに、つまらない話をした……くそ、時間の無駄だ!」
悪態をつきながら、オレンはもといた場所に戻ってゆく。
「戦姫ゴディバ、か……」
最後にアークの耳に届いたオレンの言葉は、自国の王女への不信と疑心を孕んだ呟きだった。
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