BENNU | ナノ


▼ 012 声

 しばらく無言の行軍が進み、そろそろルノー丘陵に差し掛かるというころで、だんだんと視界が悪くなってきた。風に乗った臭気が鼻を刺激するだけではなく、実際にイラに近づいてきたということだろう。煤を吸い込まないようノイマンの指示で全員がマスクを付け、今まで以上に周囲を警戒する。その後すぐに「班行動に切り替えだ」と指示が出て、少年たちはそれぞれの班長のそばに寄り集まった。ここから先が本番ということだ。イラは、もう目と鼻の先にいる。いつそれらが襲ってくるかも知れない恐怖に、アークは押しつぶされそうだった。
 足を進めるたびに、煤の霧は濃くなった。もう一番前を歩いていたノイマンの姿は確認できない。既に太陽が昇ったのだろうが、黒い煤のヴェールに覆われ辺りはどんよりと薄暗い。マスクを通してでも分かるこの腐臭の混じった焦げ臭さに、鼻はとっくに麻痺してしまっている。
 僕らは、見えない敵を追っている。
 じりじりと迫り来る化け物の気配を感じながら、アークは思った。そう、気配はそこら中にあるのだ。この黒い霧は、化け物の庭。そこに入り込んだ自分たちは、いわば招かれざる客。それに警戒する化け物の息遣いが、アークの耳には届いていた。数では勝るものの、状況は不利――化け物にはアークたちの居場所が分かっても、こちら側はいつ、どこから化け物が襲ってくるか分からないのだ。
 風が動いた。そのせいでアークたちダリアス班の周りを濃い霧が覆い、さらに視界が悪くなる。目の前を歩いていた班員のロバール・テイラーの背中を確認し、見失わないようそばに寄った。アークの後ろを歩いていたキック・コルトも、アークのそばに寄ってくる。
 霧が濃すぎて歩けない。そう判断した班長のオレンは、「止まれ」と指示を出した。
「テイラー、コルト、ブラック、ベッセル、マルクーゼ。全員いるな!」
 オレンが呼びかけ、それぞれが返事を返す。
「風の流れが良くない。俺達の周りに煤が集まって濃い黒霧を作ってしまっている。これじゃ周りを確認できないし、俺達がはぐれてしまう恐れがある。いったん、止まるぞ。剣は抜いておけよ」
 そう指示し、六人は互いが確認できるように一塊になった。背中合わせの円になり、化け物が襲ってこないかと見えない先に目を凝らす。
 剣を握り締め、煤が薄まるのを待つ。神経が擦り切れそうだった。麻痺したはずの鼻を再度刺激する悪臭に、頭の芯からずきずきと痛みが走る。警戒に集中したくても、頭痛のせいで頭の中がざわつくのだ。壁一枚隔てて聞く話のように、くぐもった声が耳朶に囁く。
 ――ニ……イ……
「キック、何か言った?」
 耳の近くで誰かの声がしたように感じ、隣にいたキック・コルトにそう尋ねた。しかし、キックは不思議そうに首をかしげ、「いや」と否定する。
「何も言ってねぇよ」
「ほんと? じゃあ、ロバール?」
 反対側の班員にも聞くが、やはり首を横に振った。
 空耳か。そう思った矢先、アークの脳裏に悲鳴が響いた。突然誰の視点とも知れない場面が、走馬灯のようにアークの頭の中で駆け回る。統一性はまるでない。教会で響く慟哭を聞いたこと思えば、次の瞬間にはぬらりと赤い光を照り返すナイフを見た。次は振り上げられた手に怯える子ども。今度は瞳孔が開かれ、もう動かないただのガラス玉のような瞳。
 そのいくつも重なり合った切れ切れの場面には、必ず負の感情が込められていた。それに毒されたように、アークの中にも同様の感情が芽生え始める。ふつふつと何かが腹の底からこみ上げ、腸(はらわた)は油よりも濃くどろりと煮える。怒りなんて、生易しいものではない。これは、この感情の名前は――?
 悲鳴と慟哭の劇場はめまぐるしく場面を入れ変え、残像も消えないうちにまた違う場面に行き当たる。気持ち悪い――そう感じアークの意識が走馬灯の波かき消されそうになる寸前、あっと気づいた。
 そうだ、これは――「憎い」、だ。
「馬鹿、何やってんだ!」
 隣にいたはずのキックの叫びで、アークははっと我に返った。瞬間、体を突き飛ばされ青い草の大地に転がった。突き飛ばしたのは、オレンだ。二人して倒れこんだその上を、何か黒い影が通り過ぎる。
「どこ見てるんだ! 来るぞ!」
 素早く体勢を立て直し、オレンは影が走った方向に剣を構えた。他の四人も揃って剣を構え、オレンと同じ方向を向いている。その視線の先を追えば、招かれざる客に怒りを燃やす化け物が、威嚇するように前足で地面を蹴っていた。
 アークがナキア森で遭遇した化け物よりも大型の化け物、牡鹿のイラだった。本来ならば艶やかな光沢を持つはずの茶色い毛並みはくすみ、体の至るところにイラに一貫して見られる酷い火傷の跡。剥がれ落ちそうな皮膚には、わずかに残った脂に火の粉が燻っている。細く長い四肢は赤いまだらに。頭から生えている立派な角の先端は焦げて黒い炭のようだが、鋭く尖ったそれで刺されれば簡単に腹に風穴が開くだろう。
「囲め! また黒霧に紛れ込まれたら面倒だ。ベッセル、さっさと立てこののろま!」
 オレンが叫ぶように指示を飛ばし、班員たちは素早く散開し牡鹿の化け物を取り囲んだ。アークも立ち上がり、その円陣に加わり剣を構える。それが牡鹿に刺激を与えたのか、さらに気性を荒げ、悲鳴のような嘶きを上げ棹立ちになる。そして、最も近くにいたサム・ブラックに向かって突進していった。
 牡鹿は低く構えて突進していった頭を、サムを突き上げてやろうと振り回す。それを飛び退いて避けたサムはバランスを崩し、尻もちをついた。しめた――そう思ったのか、牡鹿は再びサムに向かって突っ込んでゆく。そのサムしか見ていない牡鹿の横っ腹を、クリス・マルクーゼが切りかかった。しかし、懇親の力を込めたクリスの剣は空を切った。軽々と避けられ、嘲笑うかのように再び棹立ちになり威嚇する。
「落ち着いて攻めろ。連携をとれ、包囲は絶対に解くなよ」
 オレンが大声で言い、崩れた包囲を再び堅くする。
「ひょいひょい動かれて面倒だ。足を狙いてぇな」
 キックが苛立ちを吐き捨てるように言った言葉に、オレンが頷いた。
「よし、俺とマルクーゼがひきつける。他の奴は足を狙え!」
 オレンとクリスが、慎重に牡鹿に近づいてゆく。剣を振って牡鹿をわざと刺激し、向かってきたら後退を繰り返した。次第にじれてきた牡鹿を、他の四人で取り囲む。牡鹿が痺れを切らし、二人に飛びかかろうとする時に生まれる隙を狙うのだ。
 柄を握る手に汗が滲んだ。仕留め損なえば、オレンとクリスが危なくなる。オレンが再び牡鹿を刺激すると、またアークの頭の中に憎しみの木霊が響いた。こめかみを押さえその痛みに耐えながら、意地でも剣を構え続ける。
 やめろ、僕の頭の中に入ってくるな!
 そう頭の中で抵抗したが、憎しみの木霊は収まらない。しかしそのずくずくという痛みの警告か、牡鹿がオレンの挑発的な行動に苛立っているのが分かる。角を振り回している牡鹿の周りを、どす黒い負の感情がうねっている。それがどんどん大きく、膨らんでゆく――
 来る!
 突然わっと突風が吹きぬけるような叫びのあと、牡鹿はオレンたちに飛びかかった。それと同時に、牡鹿を包囲していた四人が一斉に切りかかる。キックは左後ろ足を、サムは目測を誤ったのか脇腹を、ロバールは右後ろ足を、そしてアークは右肩辺りに剣を突き立てた。ずぶりと肉を貫く感触が、生々しく手のひらに伝わる。甲高い悲鳴を上げたあと、牡鹿は崩れるようにして倒れた。奪われた後ろ足からはどす黒い血が噴出し、蒼い大地を汚している。
 息も絶え絶えな牡鹿の化け物に、オレンが首をめがけてまっすぐ剣を振り下ろし、引導を渡した。首と胴が離別し、そこからもまたどす黒い血が流れ出る。これならば、あとは黒い灰となって宙に霧散し消えるだけ――しかし化け物の濁った瞳が完全に光を失う直前、アークは化け物と目が合ってしまった。あまりの気味悪さに、つい半歩下がってしまう。まだ生きているのかぎょろりとアークを睨み、近づこうとしているのか、首だけなのにも関わらずかたかたと揺れていた。
「な、なんだこいつ。気持ちわりぃ」
 キックがさっさと灰にしてしまおうと、かたかた揺れる頭に剣を突き立てた。そうしてやっと、牡鹿は形を崩し霧散していった。
 誰もが呼吸を荒げ、その場に立ち竦んでいた。互いに怪我がないかを確認し合い、少しだけ薄まった黒霧に安堵の息をつく。
 しかし、アークの頭痛はまだ収まらなかった。どうも落ち着かない。さっきまで見ていたような走馬灯はないが、頭の隅を引っかかれるような違和感が離れないのだ。きょろきょろと辺りを見回すアークに、キックが不思議そうに尋ねた。
「どうしたよアーク。イラはもう消えちまったぜ?」
「うん、そうなんだけど……何か聞こえないか? 頭の中がざわざわするみたいな……」
 キックやオレン、他の班員たちも一様に首をかしげた。その間にも、牡鹿の化け物と対峙した時と同様の声が聞こえ始める。班員たちが話している声でないのは明白だ。彼らは今口を開いてはいない。
「怖くておかしくなっちまったのか? だらしねぇなぁ。レニに言ってやろ!」
 キックが悪戯っぽく笑い、オレンに「進もうぜ」と再びの進行を促す。
 二人が足を踏み出したそのとき、アークの背に戦慄が走った。体の芯が凍るのではないかというほどの、甲高い悲鳴――そしてそれは、オレンとキックが足を向けた先から聞こえたのだ。
「そっちはだめだ!」
 一瞬の出来事だった。咄嗟にオレンの腕を引っ張って後ろに押しやり、キックを脇へ突き飛ばす。そして前方から飛び込んできた悲鳴に向かって、アークは剣を薙いだ。手ごたえを感じた。一気に剣を振り切ると、飛び込んできた黒い影がふたつに分かれる。どさっという、地面に何かが転がるふたつの音を聞いてから、アークは恐る恐る振り返った。
 しりもちをついているオレンの横に、左半身だけの大鷲が転がっていた。すでに事切れており、ロバールの足元に転がった右半身も、形を崩して霧散しようとしている。
 よかった、間に合った――
 ほっとして気が抜けたのか、アークはその場に腰が抜けたかのように座り込んでしまった。もう頭の中を引っ掻くような違和感はない。また少し薄まった黒霧を見ながら、アークは固く握り締めていた剣を、こわばった指を一本一本剥がすようにして手放した。
「す、すごいやベッセル!」
「化け物が真っ二つだったぜ……アーク、いつの間にか腕上げたなぁ!」
 驚きを隠せないサムやロバールが、目を輝かせながらアークに走り寄った。アークの背を叩いたり乱暴に頭をなで回したりして、思い思いにアークを褒める。
 実に不思議だった。自分でも、なぜこんなにも機敏に反応できたのか分からない。いつもの自分だったら、襲撃に気づくことも出来たかどうか。きっとあの悲鳴のような声のせいなのだと、アークは思った。それがなければ、きっとオレンとキックは無傷ではすまなかったかもしれない。
「な、なんで……」
 キックが驚きに目を丸くしながら、アークのそばに寄ってきた。
「なんで分かったんだ? 俺、何も聞こえなかったのに」
 キックの質問に、今度はアークが目を丸くした。
「何も? 悲鳴みたいな化け物の声、聞こえたろ?」
 あんなにはっきり聞こえたじゃないか――
 そう同意を求め他の班員を見回すも、全員キックのように首を傾げていた。そんな馬鹿な。自分以外には聞こえなかったとでもいうのか。
「コルトの言うとおり、何も聞こえなかったぞ。ベッセル、お前……いったい何を聞いたんだ?」
「何って……声だよ。悲鳴みたいな、叫びみたいな……」
 不信そうなオレンの目。しかしアーク自身、明確な説明が思い付かなかった。声は、声なのだ。そして声と同時に頭の中に流れ込む、憎悪の混じった場面の映像。そのおかげで襲撃を察知し、アークはオレン達を救うことが出来た。それ以外ではどう説明したらいいか分からないのに、それではオレンは納得しない。
 嫌な沈黙が流れる。気が弱いサムは、アークとオレンを交互に見ながらあたふたとしていた。キックとロバールは二人でこそこそと言葉を交わし、不思議そうにアークを見る。オレンは依然としてアークを疑惑の瞳で睨みつけている。
 なんで、一体どうして僕だけが――
 居心地の悪さで背中に冷や汗が伝ったとき、ぱんっと手を叩く音が沈黙の終わりを告げた。
「その話は後にしよう。今はまだ黒霧の中だ、いつまでも無防備に立ち話なんてしてるのはまずいよ」
 落ち着いた声でそう言ったのは、クリスだ。クリスの一言で、オレンははっとしたようにアークから目を逸らした。
「……さっきみたいにいつイラが襲ってくるか分からない、警戒は怠るなよ。行くぞ」
 そう言い、オレンは先頭に立って少し濃度の薄くなった黒霧の中を進んだ。それに続く班列の最後尾を、アークは歩く。様子を見るように何度も振り返るサムの視線が、少しわずらわしかった。
 警戒しながらの進行が続いたが、再びイラと遭遇する事はなかった。もとより数では騎士側のほうが勝っている。約十体と予想されたうちの二体を、アークたちダリアス班がしとめたのだ。
 次第に黒霧は晴れ、澄み渡った快晴の青空が現れる。煤が晴れたということは、この辺りのイラは全て退治したということだ。班員たちは早速マスクを外し、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで喜びをかみしめる。初めての実戦の任務が、無事完了したのだ。
 風が鳴いた。柔らかな温もりを抱いたその風は、任務完了に浮かれる少年たちの足元をさらい、そのまま高い空へと導いてくれそうだ。歓喜の声をあげ、遠くに見えた仲間と手を振り合う。誰もが達成感に満ちた顔をし、互いの無事を喜ぶ中、沈んだ顔をしているのはアークだけだった。

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