▼ 008 生存者
扉を開いた主を見やる。レニがあっと息を飲んだ。
すらりとした女性が、幼い少年の手を引いて立っていた。
整った目鼻立ち。薄紅色のふっくらとした唇。真珠を思わせるような、透き通った白い肌――今は少し眉根を顰め険しい顔をしているものの、その端正な美しさは欠片も失われていない。ドレスと比べれば地味な騎士の団服を纏っているものの、地味さなど微塵も感じさせないほど優雅で、凛とした立ち姿だった。
女性が少年の手を引いて歩いてくる。足を進めるたびに靡く長い髪はつやつやとしていて、若い子鹿の毛皮のような少し灰みがかった明るい茶色。絹糸よりも上質な何かだと思わせるくらい柔らかく靡き、踊るように揺れていた。
思わず、ため息が漏れた。歩くだけで人の視線をひきつけるような美しい女性を見たのは初めてだった。
アークが見とれている間にも、リリは弾かれたように椅子から立ち上がり、その女性の前に移動すると方膝をついた。そして右手を胸に添え頭を垂れる。アークがリリにしたような敬礼ではない。そのことに、アークはぎょっとした。これはアドルタム(王族)にする臣下の礼だ。隣を見れば、すでにレニも臣下の礼をとっている。アークも慌てて二人に習った。
緊張のあまり、方膝をついた足が震えそうになる。アークは、アドルタム(王族)と面と向かうのは初めてだった。しかしこの女性が誰なのか、リリが臣下の礼をとったときに気が付いていた。
子鹿色の髪をしたフラム一の美貌の持ち主。そして騎士団でただ一人の女性のアドルタム(王族)にして、希少な天馬を駆る女騎士――『戦姫』の異名を持つフランベルグ王女、ゴディバ・マルグリット・ルナール・セヴル・ド・フランベルグだ。
「我らがフラムの姫君にエールの祝福があらんことを――」
「よい、頭を上げろヴォルテール。急ぎだ、面倒な挨拶はいらない。いつも通り話せ」
手を上げてリリの言葉を制する姿さえ、ひとつの精巧な絵画のようだ。リリは立ち上がると、表情を曇らせた。
「いったいどうしたのですか殿下。貴女はブランカ周辺の視察に向かわれたと報告を受けていますが、なぜフラムに居られるのです」
ブランカという町の名前に、レニが視界の端で反応するのが分かった。
鉱山の町ブランカ――開けた草原が国土の大半を占めるせいで鉄や銅といった鉱山資源に恵まれていないフランベルグとって、ガモース山のふもとに作られた鉱山の町は極めて重要な町のひとつだ。しかしガモース山はフランベルグと同盟国の国境を跨いで走っており、その鉱山の所有権をめぐって幾度となく争ってきた歴史がある。
その争いが最も激しさを増した一年前、同盟国側の奇襲から命を賭してブランカを守りぬいたのが、当時の団長――レニの父親だ。
リリの問いかけにゴディバは答えず、すっと視線をアークに向ける。突然王女と目があったアークは、心臓が鼓動をひとつすっ飛ばして飛び上がった。アークは臣下の礼をとったまま、ゴディバを見上げる。かち合った視線をそのままに、頭の中が真っ白になってしまった。
「おいアーク、立てって」
小声で呼びかけ服を引っ張るレニに、アークははっとした。レニを見るとすでに立ち上がっていて、「行くぞ」と目で訴えている。それで先ほどのゴディバの視線が「席をはずしてくれ」と言いたかったのだと、やっと気が付いた。
慌ててアークも立ち上がり、一礼してからレニに付いて歩き出した。ゴディバの横を通ったとき、ふっと申し訳なさそうに微笑まれる。それすら可憐な花のようで、アークは真っ赤になりながら部屋を後にした。
背中越しにぱたんと扉を閉める。そうしてようやく、アークの暴れていた心臓が落ち着きを取り戻した。
王女の美しさに、何を食べたらあんなふうにきれいな顔に育つのだろうとつい考えてしまう。心臓は落ち着いたものの、頭はまだ呆けたようにぼうっとしていた。
ぼんやりとした頭の奥で訓練に戻らなければならないと思い出し、扉から離れて歩き出した。しかし、数歩足を進めた所ではたと足を止めた。レニが付いてこない。
振り返ったアークは、思いもしなかったレニの行動にぱっと頭が覚醒した。
「おい、何してるんだよ」
レニはアークがしっかりと閉じたはずの扉を少しだけ開き、その隙間から執務室の中を覗いていた。ぴたっと扉に張り付き、アークに向かって「静かにしろ」と聞き取れないくらいの声で囁く。
そろそろと足音を立てないように扉に近づき、レニの服を引っ張った。
「のぞきだなんて、趣味悪いぞ」
「ばかだな。フラム一の美人と名高い王女ゴディバだぜ。ちらっと見ただけで帰れるもんか!」
今までにないくらい熱のこもったレニの台詞に、じとりとレニを睨み付けた。アークの険しい形相に、レニは肩をすくめてごまかす。
「冗談だって」
「当たり前だ! ……何か気になることがあるんだろう」
「まぁな……王女はブランカ周辺の視察の任に付いていたんだろ? なんでフラムに……ああでも、やっぱりきれいだな」
レニがうっとりとしたようにゴディバを覗き見る。そわそわして落ち着きがない。
「戦姫か……初めて見たよ」
そう言って、アークもレニの上からつい扉の隙間を覗き見る。何やら重苦しい表情で話し合うゴディバとリリが見えた。
割れた窓から流れ込んでいるのだろうそよ風に、ゴディバの髪が揺れている。触ったら、どんな手触りなんだろう――
レニに腹を小突かれ、アークはまたはっとする。レニがにやにやとしながら見上げていた。
「あっれぇ、何赤くなっちゃってんの? 見とれてんじゃねぇよ」
「見とれてなんか……お前には言われたくないぞ」
やっとの事で声を抑えながら、アークは恥ずかしさのあまりレニの頭に軽くげんこつを落とした。痛そうに頭を抱えながら、アークに非難の視線を向ける。
抗議しようとレニが口を開いたが、部屋から聞こえてきたリリの怒鳴り声に口をつぐんだ。机を叩きつける荒々しい音がする。二人は慌てて執務室を覗き込んだ。
「馬鹿を言うな! そんなことが……!」
「この私が偽りなど口にするものか! 受け入れろ。――ブランカが落ちたんだ、ヴォルテール。……じき、エイルダーレから正式な知らせもくるだろう」
ゴディバがそう言った瞬間、レニが自分の下で硬直するのが分かった。それまでの和やかな空気が凍りつく。アーク自身、耳を疑った。それは扉の向こうのリリも同じだったようで、険しい顔のまま机を叩いたこぶしを握り締めていた。指の関節が白くなるくらい、強い力を込めている。
ゴディバが再び口を開いた。
「お前がエイルダーレを後にした、その日の夜だ。採掘所で崩落があって……鉱山夫が何人も生き埋めになった。幽罪の庭炎上以来亜人たちがおとなしかったからだろうな、ブランカの責任者であるダリアス卿は騎士たちにも救助に当たらせたそうだ」
ダリアス卿という名に、アークは声を上げそうになった。嫌味な先輩、オレンの父親だ。
「まあ、それは当然だろうな。しかしその崩落は……亜人たちが仕組んだのか?」
リリの質問に、ゴディバは声を荒げた。
「馬鹿な! ダリアス卿は信頼に値する素晴らしい将校だった。亜人の侵入など、一歩たりとも許したことなどない!」
リリの言葉をぴしゃりと跳ね返し、ゴディバが続ける。
「救助の作業中に、二度目の崩落が起きて……混乱するブランカの虚を付いて、謀ったかのように亜人たちがここぞとばかりになだれ込んできたそうだ。エイルダーレの応援も間に合わなかった。救助に当たっていた騎士、町の住人、犠牲者は数え切れない……」
ゴディバはつらそうに視線を伏せ、傍らに寄り添っていた少年の手をぎゅっと握り締めた。少年が、ゴディバの腰に抱きつく。その頭を、ゴディバは慈しむようになでた。
「この子は数少ない生存者だ。両親を亡くしたのだろう、どうやっても私から離れてくれん。放っては置けなくて……お前を呼びに行くには連れてくるしかなかった。総会へは私が代理として出る。フラムに着いたばかりで申し訳ないが、お前はエイルダーレに戻ってくれ」
リリは少年のそばにしゃがむと、ゴディバと同じように少年の小さな頭をなでてやった。少年は大柄なリリを怖がっているのか、ゴディバの服をすがるように握り締める。
「……ダリアス卿は」
聞き取れないくらい低い声で、リリが問いかける。ゴディバは、ゆっくりと沈痛な面持ちで首を振った。
嘘だ――アークはリリにそう言ってやりたかった。今すぐこの扉を開け放ち、何かの冗談に違いないと言いたかった。
レニの父が命を賭して守った町が、たったの一年で落ちた。
大嫌いな先輩、オレンの父親が亡くなった。
とても容易に受け入れることなどできない。非現実的な事実が、目の前でふわふわ浮いている。耳が、心が、その事実を拒む。体が固まる。呪縛のように事実が絡みついて、身動きが取れなかった。
先に我に返ったのはレニだった。
「嘘だ……嘘だ!」
そう大声をあげ、執務室の扉を開いてゴディバに駆け寄った。リリとゴディバは、突然レニが扉を破る勢いで入ってきたことに驚き、そろって振り返る。アークも弾かれたように駆け出し、咄嗟にレニの腕をつかんだ。この勢いのまま突っ込めば、ゴディバに掴みかかるか突き飛ばしてしまう。
「放せアーク!」
「駄目だ! レニ、レニ落ち着いてよ、お願いだ」
アークが押さえつけようとするが、レニはじたばたとアークの腕の中で暴れまわる。ゴディバにしがみ付いている少年の視線を感じたが、今それどころではなかった。一度放してしまえば、暴れ馬のように扱えなくなる。リリが駆け寄り、レニの肩を鷲掴んだ。
「落ち着けレニ! 殿下の御前だ」
「うるせぇ! だって親父が、親父が守ったのに……!」
リリに静止されるも、レニは暴れる事をやめなかった。レニの視界にはゴディバしか入っていない。父親の守った町が落ちたなんて嘘だと、ゴディバの口から否定の言葉を聞きたいのだ。暴れまわるレニの顔は、泣き出しそうなくらい悲痛に歪んでいた。それを、少年はじっと瞬きもせずに見つめている。
ゴディバは暴れるレニに、唇を真一文字に結んで近づいてきた。アークが押さえつけるレニの頬に、すっと手をのばす。レニの動きがぴたりと止まった。
「先代の……ヴォルテールの息子だな。面影がある」
レニが頷く。深呼吸を繰り返し、ようやく暴れる事をやめた。アークもようやくレニを放し、安堵の息をつく。
「……ダグの息子、レニ・ヴォルテールと申します。殿下、ブランカが落ちたというのは……本当なのでしょうか」
レニは幾分口調を正しながらも、早口にそう言い切った。アークも、淡い希望を抱いてゴディバを見つめる。嘘であってほしい――
しかしやはり、ゴディバは静かに首を振った。
「残念な事だが……事実だ」
レニが、ぎりと歯軋りをした音が聞こえた。強く握りすぎたこぶしが震える。アークは震えるレニの肩を支えるように手を置いた。そうする事しか思いつかない。今はそうやって、レニの心が折れてしまわないように祈る事しかできなかった。
「亜人の……せいですか」
蚊ほどの声で、レニがつぶやく。痛々しい沈黙が流れた。そこで初めて、ずっと黙ってレニを見ていた少年が口を開いた。
「そうだよ。亜人たちが、町を壊したんだ――いっぱい、人をころしたんだ」
そう言って、燃え盛る炎のような緋の瞳にレニを映しこむ。よく磨かれたガラス玉のような瞳は、視線を合わせていないアークから見ても、吸い込まれそうなほどに深い。
一番そばにいるアークにすら聞こえない声で、レニが何かをつぶやく。何を言ったのか聞き返そうとした途端、レニはアークの手を払いのけて執務室を駆け出て行った。
「レニ!」
慌てて後を追おうとすると、リリに肩を掴まれた。強い力で引き戻される。
「なんで止めるんですか!」
「心配なのは良く分かるが、頼むよアーク。少しだけ一人にしてやれ」
リリは辛そうな顔をし、アークの肩を握る手に力を込めた。しかし、アークはまだ心配でならなかった。放っておくべきだと分かっていても、泣き出しそうな顔をしていたレニを一人にしたくなかった。この肩を掴む手さえなければ、アークは今すぐにでも飛び出していくだろう。
「でも、団長……」
反論しようとするも、リリはすぐに首を振る。手にはアークを諭すように、力が込められた。
少年の肩が震えている。小さな肩を小刻みに揺らし、よりいっそう強くゴディバの服を握りしめていた。
「……ごめん、驚かせちゃったかな」
この子はブランカで恐ろしい思いをしたに違いない。そう考えると、今にも走り出したくて仕方がないのに、少年の目の前で乱暴にリリの手を振り払う事がどうしてもためらわれた。
少年の頭をなでようと手をのばす。しかしその土埃にまみれたくしゃくしゃの黒い髪に届く前に、アークの手は叩き落とされた。
他の誰でもない、少年の手にだ。
叩かれた手をそのままに戸惑う。
「さわらないで。赤は、きらいだ」
少年が視線を上げる。アークの髪を指さす。
「血の色だ」
その燃える緋色と視線がかち合ったとき、アークはめまいを覚えた。吐き気が込み上げ、頭が焼けるような痛みに襲われる。聞こえるのは自分の心臓の音だけ、視界が赤一色に染まる――
「アーク」
リリの呼びかけで我に返ると、一瞬のうちに視界は元に戻った。目の前には怪訝そうに眉を顰めたリリの顔がある。
「どうした? 真っ青だぞ」
口がからからに渇き、言葉を発せられない。ただ首を横に振って、大丈夫だとリリに訴えた。
少年はすでに視線を伏せ、ゴディバにしがみついている。もう、アークと目を合わせようとしなかった。
prev / next