誰も知らない想い

「…落ち着いたようね」

ふう、と…
椅子に腰掛けながら一つ息を吐き、額に流れる汗をウェルは腕で拭った。

「お、落ち着いたって?」

ナエラが聞けば、ウェルは柔らかく微笑んで、ベッドに横になり、規則正しい寝息を立てているジロウを見る。

「この子に流れていた毒よ。少し時間は掛かったけれど、…不思議ね。この毒は、天長…いえ、先程のテンマと言う彼が流したのよね?」

ウェルが少しだけ首を傾げながらナエラに聞くと、

「…?そう聞いたけど…」

ナエラのその返答に、「そう…」と、ウェルは目を細めた。

「でも、これであとは安静にして、次に目覚めた時はきっと大丈夫」

ウェルはそう言って、先程からあった疑問を口にする。

「…魔族のあなたにとって、この人間の少年は大切なの?」

…と。
それに、ナエラは眉間に皺を寄せ、

「別に、お前には関係ない」

そう言いながらウェルを睨んだ。しかし、ウェルは微笑んだまま、

「大丈夫よ。誰にも言わないから」
「な、なんなのさ。天使の言うことなんて…ってか、別に言うことないし」
「あなたは言っていたわね。天使も人間もあの争いも、人伝に聞いたって。それは、世界が分断された後に生まれたと言うことね?」
「そうだけど…それがなんなんだよ」

一体目の前の天使の女は何を言っているのだろう。
ナエラは警戒しながらそう思っていると、

「なら、同じね。あなたより歳は上だけれど、わたくしも三種族の争いが終わった時代に生まれたから。魔族も人間も、今日、生まれて初めて見たのよ」
「それが?」
「いいえ。ただ、魔族と言うものを、私は恐ろしい種族と思っていたけれど、あなたがとても可愛らしかったから」
「…、…!?は、はぁ?!」

一瞬、何を言われたのかがわからなくて、ナエラは大きな声で叫んだ。

「あなた、さっき言っていたわね。人間も天使も、最低最悪な憎むべき存在だって。私だってそう聞かされて育ったわ。人間と魔族の争いのせいで天使は空に追い遣られたと…」

ウェルは目を細め、思い出すように話す。

「その時代に生きた人を何人か知っているわ。でも、種族を憎まない人が一人だけいた」

その人はこう言っていたわ…、と。
ウェルは微笑んで言葉を紡いだ。

「天使も魔族も人間も、同じように何かが奪われちゃったんだから、何を恨んでも仕方がないって」
「…なんだよ、温(ぬる)いこと言う天使だな」

誰が言ったかは知らないが、ナエラはそれを聞いて呆れるような声を出す。
だが、ウェルは嬉しそうな表情をしていて…

「そう。温い…軽い言葉だったの。でもね、その人のそんな軽い発言で、屈託ない笑顔で、わたくしは納得してしまったのよ。彼はその時代に生き、苦しんできたでしょうに、それでも何も恨まず、憎まず生きているから…。ただ…」

ウェルの笑顔に少しだけ陰が入り、

「ただ、彼は自分を責めてしまう人だった。自分を省みず、無理ばかりして、他者を思い遣ってばかりで。…昔から一途で、今でも一途で、不器用な人なのよ…」
「…なんなの?そいつは、お前にとって大事な奴なの?」

あまりに、先程からウェルが嬉しそうに、切なそうに話すものだから、思わずナエラが聞けば、

「…そうね。でも、彼は優しいから、沢山の人に慕われて、とても一途な人だから。わたくしに出来るのは、いつだって彼を心配して、見守って、負った傷を治癒することだけ…」

ウェルはそこまで言い、優しい眼差しでナエラを見つめ、

「あなたにはいないのかしら?大事だと思える人は」

そう問われ、ナエラは躊躇いつつも、ウェルの纏う雰囲気になんだか呑まれてしまうような感覚になり、

「…いるよ。でも…ダメだった」

そう、絞り出すように言って、俯いてしまうナエラにウェルは首を傾げた。

「何がダメだったの?」
「魔界で死にかけていたボクを助けてくれて、仲間にしてくれて、ずっと一緒だと思っていたんだ。真っ直ぐな魔族だと思っていた。でも…」

ネヴェルの本心は脆かった。
ナエラの知らない、遠い昔の日々に愛したのであろう女性の為に、ネヴェルは生きていたと言う。

「…ボクがどんなに好きでも、敵いっこない相手が居る…。だから、本当は…ここに、こいつの所に残ったのは、その人と居るのが辛かった…なんて、そんな理由がある」
「そう…」

多くは聞かないけれど、それだけ聞いてウェルは静かに頷く。

「それに…」

ナエラは眠るジロウを見つめ、

「こいつや、あの緑髪の天使の女や、人間の女と居るネヴェルちゃんは…ボクの知ってるネヴェルちゃんじゃないんだ。数日前まで魔族として、悪魔として、冷徹さを纏ってたネヴェルちゃんは、消えちゃった」

そう、つまらなさそうに言うナエラに、

「その人が変わっていくことが寂しいのかしら?」

ウェルが尋ねると、

「わかんない。でも、悔しいのかな。…わかんないや。ボクら魔族って、強さを証明する為だけに生きてたようなものだから、人間や天使みたいに幸せに生きたことなんかないし。力を証明して、認められて、必要とされるのだけが生き甲斐だった。お前らにはわからないだろうけど」

と、ナエラはトゲのある言い方をするが、温和なウェルは怒りは感じなかった。
むしろ――…

「…そうね。魔族が一番、大変だったのかもね。地底を見たことはないけれど、あなた達の話を聞く限り、実りの無い世界だったのよね」

そう言いながらウェルは椅子から立ち上がり、

「多分、もう少ししたら目を覚ますと思うわ。わたくしはしばらく部屋を出るけれど、あなたはどうするの?」
「…ちょっとまだ、ネヴェルちゃんの顔をまともに見れないから、もうしばらくここに居る」
「そう」

ナエラの返答を聞き、ウェルは小さく微笑む。
そして、思い出す。
先刻の広間での出来事を。
ナエラの言葉を。

すぐには、人間と天使を理解できないけれど、ナエラはジロウに助けられたと言う。
助けられて、他人が助かったことに安心する存在を、ナエラは初めて見たと言う。
それが――…
ナエラにとって新鮮で、嬉しく感じた、と。

そんな当たり前のことを、誰かに助けられ、それに感謝したり、喜びを感じることを、ナエラは…
世界が分断されてから生まれた魔界の住人の大半は、恐らく知らないのだろう。

そう考えると、ウェルはそれを'可哀想'だと感じてしまった。

天使も魔族も人間も、同じように何かが奪われた――…そう、全ては平等なんだと言った、大昔の彼の…カーラの言葉を再び思い浮かべ、

「ナエラちゃん、だったかしら?」
「なっ、'ちゃん'とか呼ぶな!」

と、自分もネヴェルに、ましてや男の彼に'ちゃん'付けしているが、自分がそう呼ばれると妙に嫌な気分になる。

「天使達も、魔界と同じように黒い影に飲み込まれたわ。人間達もだそうね。残ったのはここに集うわたくし達やテンマ達だけなのか…それともまだ居るのか。わからないけれど、わたくし達がこうして出会えたことには意味があると思うわ」

と、ウェルはゆっくりと言葉を紡ぎ、怪訝な顔をするナエラに微笑み掛け、

「…世界を壊されたくないわ。わたくしには戦う力はないけれど、傷付いた人々の治癒は出来る。だから、天使も魔族も人間も…大昔に平等に生きていたように、今もまた、手を取り合って世界を守れたら…そう、思うわ」

それだけ言って、部屋から出て行った。
残されたナエラはぼんやりと扉を見つめ、

「…ずっと隣に立って、ネヴェルちゃんの力になれるんだと思っていた、これからも。でも、ネヴェルちゃんも世界も変わっていって…。ボクの居場所は、何処にあるんだ?」

誰も聞いてはくれないが、ナエラはぽつりと言葉を吐く。
魔界で力を持ちすぎたせいで、他の魔族達からも距離を置かれているナエラにとって、'手を取り合う'だとか'協力'するなんてことは、魔界でも無いに等しかった。

ネヴェルの為に。
そう思って戦っていたら、いつの間にか強くなって、いつの間にか独りで戦っていた。

それなのに。
自らの種族とも連携が取れていなかったのに、今度は違う種族とそれをしろと言う。

そして、恐らくネヴェルはそれをするつもりなのだ。
否、自らの意思ですでに、ネヴェルの昔を知らないが、彼はきっと昔のように人間と天使とすでに手を取り合っている。

ごちゃごちゃと纏まらない考えにナエラは息を吐き、気持ち良さそうに眠るジロウを見て、

「早く目を開けてよ。馬鹿ジロウ…」

小さな声で言った。

ジロウという人間は、初対面時は初めて見た魔族――…ナエラに大層驚いていたが、そんなのは物の数分で。
弱いくせに、すぐに恐れを忘れて対等に接し始め、更には助けられて…

自分がジロウをどう思っているのか、それはわからない。
だが、誰にでも真っ向から話をする彼が居れば…
ナエラは再びネヴェルの顔を見れるような気がして…。
そして自分を'ヒステリック女'なんて妙な名前で呼ぶジロウが居れば…それだけで、ナエラは居場所があるような気がした。

――…
―――……

部屋から出て、城内の廊下を歩いていたウェルは仲間達の姿を見つける。
しかし、

「…あら?皆さん、どうしたのですか?」

ラダンとマグロは何故か泣いており、エメラは晴れやかな顔をしていて。
他に、ヤクヤとユウタも涙目になっていた。

「あ、ウェルさん!」

ラダンが彼女に気付き、

「あ…じ、ジロウは?!」

ユウタが慌てて聞く。

「無事、毒は抜けました。ただ、まだ安静にさせてあげたいので、目覚めるまで部屋には行かないで下さいね」

と、部屋に残ったナエラを気遣い、ウェルはそう言った。

「そ、そっか…。良かった…!!えっと、ウェルさん…でしたっけ。友人の命を救ってくれて、本当にありがとう…!!」

ユウタは何度も何度もウェルに感謝の言葉を述べる。

「…ふふ。…でも、そちらは何があったの?マグロちゃん」
「あ、いや、…カーラ先輩とハルミナさんが再会して…」

涙混じりにマグロが言い、

「ハッピーエンドってわけよ。まあ…これからがどうなるかわからないから、そう綺麗には言ってあげられないけど」

つまらなさそうに言うそのエメラの言葉だけでウェルは理解できた。

(…そう。ハルミナさん。成功したのね…。命を削って、カーラさんを救えたのね…)

ウェルは安心しながら思い、

(…カーラさん、もう、あなたを心配する必要はないわね)

誰にも気付かれず、自分の中だけに秘めていた淡い想いを断ち切るように、ウェルは静かに微笑む。

「ところで、お二人は?」
「あー、もう牢屋から出て来るはすじゃ。盗み聞きしていたんじゃが、そこからはなんの進展もないまま普通にハルミナが'ジロウさんが心配です!'って言い出して、地下牢から出ようとしたから俺らは慌ててここに戻って来たんじゃ」

と、ヤクヤは悪気もなく言い、

「盗み聞きしてたなんてバレたら…不味いですしね」

と、マグロが続けた。

「さて。今からどないしよ?今後のこと考えなあかんか。…の前に、さすがに腹も空いてきたな」

ラダンが言うと、マグロとエメラとヤクヤも同意する。それに、

「…あのさ、ここって調理場とかあるのかな?」

おずおずと、片手を上げながらユウタは聞いた。


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