英雄がいない世界で2
「マグロちゃん、今日は雪が降りそうだから気を付けてね」
「はいっ!大丈夫でっす!……それより」
オレはウェルさんの顔を見た。
「最近はウェルさんの方が心配ですよ」
あの日から数年。
天長に支配されないこの天界は自由になりました。ただ……
統治する人が居ないのです。
魔界の方はちゃんと王が決まったと聞いたんですが……
だから、階級制度も当然なくなりました。
ミルダさん、ラダンさん、エメラさんはもう、制服を脱いでいます。
オレとウェルさん、カーラさんだけはまだ、この、上級天使であった制服を着たまま。
王が居ないのならば、せめてオレ達で天界を守ろうと決めたんです。
一つになったこの世界、まだまだ三種の種族は戸惑いを隠せていません。
もしかしたら、またいつか、些細なことで争いの火種が点くかもしれない。
それは、絶対にあっちゃいけない。
ジロウさんの願いを、あの日、世界が一つに戻ったばかりの日、オレ達に叫んでくれたジロウさんの願いを、守る為にも。
天界でも、皆、新たな生活を始めています。
もう、先輩も後輩もなく、オレは皆さんを先輩とは呼んでいません。
……今日は本当に寒い。
窓の外を見れば、さっきウェルさんが言ったようにすでに雪が降りだしている。
あれから、ウェルさんはどこか元気がありません。
ウェルさんは以前同様、家で診療所を開いています。
「……今でもふと思うの。ジロウちゃん……あんなに小さな子が、悪いものを一人で全部持ってどこかに行ってしまったのか…って」
それはきっと、ウェルさん以外にも皆が思っていることだろう。でも、ウェルさんは優しすぎるから、片時も頭から離れないのだろう……
でも、
「……眠る彼が、目覚めないことにはわからないですよ」
オレはそう言って笑う。
テンマさんの姿をした人を、ナエラさんは‘ジロウ’と呼んでいました。
きっと、目覚めないままの彼が目覚めた時に、ウェルさんの心は前を向けるんだと思う……
もしくはーー……
「でも、寂しくなりましたよね。ラダンさんとエメラさんは人間界に行き、ユウタさんやナエラさんと一緒に彼の目覚めを待つって行っちゃいましたし。いくら世界が一つになったとはいえ、すぐに会いに行けるものでもないですしね」
それに、ウェルさんは寂しそうな顔をして、
「ラダンさんは……わたくしのせいだわ」
と、俯いてしまって……
そう。
全部終わった後、しばらくしてからラダンさんはとうとうウェルさんに自分の想いを伝えたんです。
……結果、フラれてしまったわけですが、でも。
「それは違います!ラダンさんはウェルさんの気持ちは理解してましたし、伝えてフラれて、気持ちを切り替えたかったんだと思いまっす!だってラダンさん、清々しい顔をしてましたし!」
オレは必死にそう言う。
だって、事実だから。
「ラダンさんは本当に知ってますよ、ウェルさんの気持ちが、ラザルさんに向いていることを」
「……」
そう。ラザルさん。
ムルさんとトールさんはこれからどうするかをオレ達に話し、タイトさんと旅立ちました。
一緒に行くはずのラザルさんだけが、顔も見せないまま行ってしまって……
あれから数年。
未だに会えていません。
ラザルさんのウェルさんへの気持ちはわかりませんが、多分、ウェルさんに会うのが照れ臭かったんじゃないかな?…とは思います。
「ラザルさんとは、もう二度と会えない気がするわ」
「そ、それはないですよ!オレ達はまだ何百年も生きるんですよ、その人生の中で、絶対また……」
「…何て言うか、じっとしていられるような人ではないわ。自由になったこの大地で、自由に走り回っていると思うの。わたくしとは、真逆な人だから…」
それ以上は、口を挟めなかった。
人に憧れてきただけのオレには、恋とか愛とか、まだよくわからない。
でも……
「オレは、早くウェルさんの笑顔が見たいでっす!最高の治癒術士であるウェルさんの笑顔を!ウェルさんがどんなに寂しくても、オレはずっとずっと、ここに居ます!」
「マグロちゃん……」
ウェルさんは眩しそうにこっちを見て、それから……
「ありがとう、マグロちゃん。マグロちゃんは本当に、変わらないわね」
そう言って、ウェルさんは今日初めての笑顔を見せてくれました。
(寒いなぁ……)
降り止みそうにない雪の中、今しがたウェルさんが巻いてくれたマフラーに顔を埋めた。
ウェルさんは治癒者として制服を着ている。
オレとカーラさんは天界の治安を守る為に制服を着ている。
たまに魔族や人間が天界にやって来て、たまに揉め事が起きます。
早く、それが無くなってほしい。
(今日はこんな雪だ。皆、家の中だな。オレも帰ろうかなぁ)
静まり返った天界の街中を、雪を踏みつけながらオレは歩く。
ふと、とある家に目が行きました。
(……元気に、しているでしょうか)
そこは、ミルダさんとフェルサさんーー……マシュリさんが暮らす家です。
あの日から数日、黒い影に取り込まれていた人々ーー……生きていたフェルサさんとマシュリさんも目覚めました。
でも、フェルサさんは一部の記憶障害を起こしていました……
彼女の記憶は、百年も前より、もう少し前。
争いが起きる前の、幸せな記憶のままだったのです。
だから、マシュリさんのことも、ハルミナさんのことも、知らない時代の記憶のまま。
目覚めたマシュリさんの顔は、絶望に満ちていました。
だって、信頼してきた、心酔してきた、絶対的存在のフェルサさんが、自分を忘れていたのだから。
ミルダさんはそんな二人を支えることを決めました。勿論、実の娘のハルミナさんのことも。
でもーー……
(……)
マシュリさんとは、一言も言葉を交わせていません。マシュリさんは、あれから外にも出ていないそうです……
多分、オレ達に顔向け出来ないと思っているんだろうとは思います。
オレは踵を返し、帰路に向かおうとして……
「マグロくん……」
ーー……と。
背後からのその声に、オレはすぐに振り向くことが出来なかった……
ーー……
ーーーー……
「さむーっ、寒いねー。ほら!雪!凄く寒いからハルミナは家に居た方がいいって!」
積もってきた雪に足跡を残しながらカーラが言えば、
「だから心配なんです。家に居ても寒いんですから…フェルサさん、大丈夫でしょうか…」
と、あれから少し伸びた緑の髪を揺らしながらハルミナが言う。
「大丈夫だよー。あれでフェルサは頑丈に出来てるんだから。……それより、ハルミナとフェルサが一緒に居るのを見るのがなー、なんかなー、やっぱり辛いんだよね、僕」
カーラが言い、
「張本人である私が辛くないんですから、カーラさんが気にする必要はないんですよ」
と、ハルミナは答えた。
それを聞く度に、本当にこれで良かったのかーーと、カーラは感じる。
レディルやメノアーー……彼らが居た、幸せな時代の記憶で止まってしまったフェルサ。
彼女自身がした黒い影のことや、ハルミナ、マシュリ、テンマ、ーー……
それらを彼女は覚えていない、知らない。
そんなフェルサを、心が傷付いたマシュリを、実の娘のハルミナを、ミルダはこれからは自分が支えると言った。
(それで、良かったのに…)
カーラはあの日のことを思い出し、やるせない気持ちになる。
ミルダの提案を、ハルミナが拒んだのだ。
「……父さん。私は大丈夫です。私は、強くなれました。もう、あの頃のままの異分子じゃない。でも、記憶の止まってしまったフェルサさん、心が傷付いたマシュリさんは……きっともう、独りでは生きていけない。だから、今まで通りでいいんです。あなたはお二人を優先して下さい。それに、今まで通りと言っても、違うこともあります。それはーー……あなたが、私の父さんだということです」
ーーそう言って、ハルミナは自ら親子としての時間を手放した。
マシュリは養子となり、フェルサはマシュリをかつては義姉として。今では養女として可愛がっているらしい。
だが、マシュリはあの日から部屋に閉じ籠ったままだ。
そして、ハルミナのことはーー……
「……あれ?」
ふと、ハルミナが不思議そうな声を出し、カーラは彼女の視線の先を追う。
そこにはマグロと、マシュリの姿があった。
ーー……
ーーーー……
「マグロくん……久し振り、だね」
マシュリさんは弱々しい声音で言い、オレはようやく振り向いて……
「マシュリさん…!!心配していたんですよ!でも……良かった!!」
オレは笑った、満面の笑顔を彼女に向けた。当然マシュリさんはオレの反応に驚いていて……
でも、
「話したいことがたくさんあったんですよ!あと、あの……あの時マシュリさんを刺したのも謝りたくて……」
「……違う、謝るのは……」
「あ!マシュリさん寒くないですか?!これ、ウェルさんに借りてきたんですけど、もうオレはあったまったから、はい!」
オレはそう言いながらマフラーを外し、マシュリさんの首に巻いた。
「マグロくん、話を……」
「そうだ!ウェルさんも呼んできます!ウェルさんも心配してたからきっと喜びますよ!マシュリさん、すぐにまた来ますね!」
何か言いたいであろうマシュリさんの言葉を遮り、オレは言葉を止めなかった。
戸惑うマシュリさんを置いて、逃げるように背を向けて走った。
言葉を止めたら、泣いてしまいそうだったから。
嬉しさや色んなものが溢れ出て、泣いてしまいそうだったから。
でも、マシュリさんの前では泣きたくない。
以前と違い、弱々しい声と疲れたような顔をしているマシュリさんを見て思った。
これ以上、マシュリさんの心を傷付けるわけにはいかない。
それに、オレは、マシュリさんの前でも、ウェルさんの前でも、笑っていたいから……!
ーー……
ーーーー……
その様子を、ハルミナとカーラは遠目から見ていた。
「マグロ君、走って行っちゃったね」
「でも、マグロさん走り際に泣いてましたね…やっとマシュリさんに会えて、嬉しかったんでしょうね」
二人はそう話し、マシュリの方を見る。
どうやら彼女もこちらに気付いたようだ。
きっと、マシュリはハルミナに負い目を感じているだろうとカーラは思う。
なぜならばもう、ハルミナはフェルサの娘にはなれないのだから……
それでもーー……
ハルミナはいつの間にかマシュリの前まで歩み寄っていた。
どんな会話をしているのか、それはわからないが、想像はつく。
表情を沈ませているマシュリに、微笑むハルミナ。
(これで良かったのだろうか)
あの日から何度目かのそれをカーラは思う。
話が終わったのか、マシュリは家の中に戻り、ハルミナはこちらに戻って来た。
「カーラさん、どうしたんですか?ほら、早く行きましょう」
と、ハルミナは今しがたマシュリが入って行った家を指す。
「今の今で行っても大丈夫なの?」
「ええ。何も揉めたわけじゃないですし。マシュリさんが謝ろうとしてきたので、マシュリさんらしくないですよって、そんな話をしただけです」
「はぁ」
それでもカーラは困ったような顔をするので、
「カーラさんが心配してくれているのはわかります。でも、私はこれで良かったと本当に思っているんですよ」
ハルミナはそう言い、
「ジロウさんは、憎しみの連鎖を断ち切らなければいけないと言っていました。今はもう、憎むものも、恨むものもない時代なんです。たとえ、家族として共に居られなくても私は今、とても幸せです。父さんとはたまに出掛けることができるし、フェルサさん……母さんにはこうして会いに行ける。それに、この場所以外にも、同じ大地にヤクヤさんが居る、友達も居る」
カーラの前を歩きながら、共に歩んだ仲間の顔を思い出し、
「それに私には、ずっと変わらずカーラさんが居てくれますから」
ハルミナの言葉に、
「え」
と、カーラは声をもらした。
「あー、ちょっとちょっと、僕、いまいちわからないんだけどさー……」
「なんですか?」
「ハルミナって、ジロウ君が好きだったよね」
「はい。黒い影の中で、ちゃんと告白して、ちゃんとフラれてきました」
「え、それは初耳……」
「それで、なんなんですか?もう中に入りますよ」
玄関のドアまで辿り着いていた為、ハルミナが言う。
「あー、うん。なんでもない。入ろっか」
チャイムを鳴らす前に、ドアが開き、
「何してたの、遅いよ」
マシュリだった。
彼女の後に続き、一室に入れば、ベッドの上で身を起こしているフェルサと、ベッド横の椅子に腰掛けるミルダの姿があった。
「おや、カーラ少年にハルミナ。いらっしゃい。どうかしたの?」
そう、フェルサが穏やかに微笑んで言い、
「今日は一段と寒いからね。君の体調を心配して来たわけ」
「フェルサさん、お身体は大丈夫ですか?」
二人が言えば、
「うん。ミルダとマシュリが良くしてくれるからね。調子はいいよ」
……と。
生きていたとはいえ、フェルサの身体は弱っていた。
憎しみの為に数々の実験を行い、自らの体をも実験に使ってきたせいである。
それを忘れているフェルサには、流行り病と伝えているが……
天使は寿命が長いとはいえ、天使としての寿命は生きられないだろう。
しかし、それはハルミナもカーラも例外ではなかった。二人は互いを救う為に、命を削ったことがあるのだから。
「でも、こうして二人が来てくれると嬉しいよ。カーラ少年は前までは子供のように思っていたけれどいつの間にか大きくなっているし……出会って数年だけど、ハルミナもよく遊びに来てくれて、マシュリと同じく、まるで本当に娘みたいだよ」
そう、フェルサは言った。
その言葉にミルダは視線を落とし、マシュリも俯いてしまう。
それに、
「え?ハルミナが娘みたいだって?」
カーラが聞けば、
「そうだよ」
と、フェルサが答えた。
「ふーん、へー……」
「カーラさん?」
まさか本当のことを言うつもりじゃないだろうかとハルミナはヒヤヒヤしたが、
「だったらさ、フェルサ」
「うん?」
「娘さんを僕にくれませんか?」
なんてカーラが言うので、ミルダは思わずカーラを睨み付ける。
「いやー、許可を取る相手も居なくてさー、フェルサがハルミナを娘みたいって言ったから、ちょうどいーなと思って」
「か、カーラさん?」
いきなりの話にハルミナは瞬きを数回した。
「構わないよ。だって、二人はよく一緒に居るし、私はお似合いだと思うよ」
フェルサが言って、
「うわっ!本当に?!聞いた?!」
「ちょっ、勝手に話を進めないで下さい!私達は付き合ってすらいません!」
舞い上がるカーラにハルミナが抗議の声を上げ、
「フェルサがハルミナを娘だと言うのならば父親は俺だ。俺は許さんぞ」
「え、え??ちょっ、冗談ですってばぁ」
目が本気のミルダにカーラは苦笑いをする。
しばらくして、マグロがウェルを連れてやって来た。マシュリは気まずそうにしたが、マグロもウェルもお構い無く普通に接した。
ーー……笑っている。
以前までは有り得なかったこの光景に、ハルミナはやはり幸せを感じた。
(ジロウさん、私は今、幸せです。あなたが戻って来る日の為にも、私は、私達は絶対に、この世界の幸せを守り抜きます)
そしてーー……