いっそのこと早退してやろうかと思ったが、あいにく次の授業は小テストがあった。それなりに復習してきた身とあっては、あんな奴のせいで成績があがるチャンスを見逃すなんて出来ない。となりの席に座ったライナーは絶対に見ずに、小テストにそなえて教科書を見る。何か話しかけていたかもしれないが、徹底的に聞こえないふりを貫き通した。
「先生、教科書を忘れたので見せてもらってもいいですか」
ライナーが挙手までしてとんでもない許可を得たのは、小テストのあとだった。ライナーは窓際に座っていて、となりには私しかいない。どんな未来が待っているか一瞬にして理解して青ざめる私に気付かずに、先生はのんきに頷いた。
屋上での出来事を知っているやつらが、不安そうにこちらを見てくる。ベルトルト、そんなに心配そうな顔をするなら喜んで場所を譲るわよ。ジョークに見せかけた本気はからからに乾いた口のなかに押し込められる。ライナーの机が寄せられたのと同時に、嫌そうに椅子をずらしてやった。教科書を真ん中に置いたのは、善意ではなく明確な境界線を作るためだ。
「名前。すまん」
「話しかけないで、虫唾が走るわ」
「……すまん」
大きな体は、いつものように背筋が伸びてはいなかった。巨体を縮め、いつもまっすぐ前を見ている視線は下に、自信のあるオーラは微塵も感じられない。何かがぐらりと動いたが、それに負けないように首をふる。どう考えてもあれは、同じクラスになって半年の、数えるほどしか話したことのない相手にする行動ではなかった。私の考えは間違っていない。
それでもノートを取る手はたびたび止まり、ぼんやりと黒板を見ながら何度も思い返した。驚いた顔、痛そうな頬、軽々と掴まれた腕。それらはいま真横にあり、すこしでも手を伸ばせばふれられるのだ。
授業が終わるまであと15分。また意識が過去に戻りそうになるのを引き止めたのは、ライナーの声だった。
「先生、すみません。名前の気分が悪いそうなので、保健室に連れて行ってもいいですか」
「どうした? 風邪か?」
「いえ、すこし熱っぽいだけだそうです」
先生の許可がおり、ライナーにまた腕を掴まれる。突然の事態についていけない私を、先生はそれほど気分が悪いものと勘違いしたらしい。ゆっくり連れて行ってやりなさい、という声と教室中の視線、握られた手首。
教室を出て、先生の話すくぐもった声だけが響く廊下を歩いて、ようやく我に返る。慌てて腕を振りほどいて距離をとった。警戒する私に、ライナーはいつものようにまっすぐ見てきた。大嫌いな瞳。
「すまん。だが、これだけは言わせてくれ」
「嫌よ。どうして私に構うの。どうしてあんなことをするの」
階段近くはひっそりと静まり返っており、抑えた声でもよく響いた。掴まれた腕を、胸の前でかばうようにして警戒する。もう昼のようなことはさせまいと威嚇する私の領域に、ライナーは大股で踏み入ってきた。
デリカシーのかけらもない足元に気を取られた瞬間、肩を掴まれる。咄嗟に上を見て、息がとまった。あまりにも近くにライナーの顔があったからだ。
「好きだ」
「……え?」
「名前が好きだ。どうしようもなく」
私はあんたが嫌いよ。大嫌い。
そう言おうとした口は、自分の意思では動かせないように固まっていた。近付いてくる顔を拒みもせず歓迎もせず、ただぼうっと見つめる。光の加減で金色にも薄茶色にもなる瞳が瞼で隠され、男のくせにかさついていないくちびるがふれる。ファーストキスだった。
くちびるが離れ、かすれた声で名前を呼ばれる。人形のように固まっている私のくちびるがもう一度奪われ、ようやく体が動いた。今度は左手でビンタ、かがんだところを狙ってみぞおちに蹴りを一発。崩れ落ちたライナーを放って、思いきり走って教室へと飛び込んだ。くちびるをごしごしと擦りながら、自分の席に座る。
「保健室に行ったんじゃなかったか? 気分は?」
「最悪です」
「保健室に行きなさい。ライナーはどうした?」
聞くのも口に出すのも嫌な名前を尋ねられて、顔をしかめる。どう説明したものかと悩んでいると、ライナーがお腹を押さえながら教室に入ってきた。両頬には、くっきりとした手形がひとつずつ。昼の騒ぎを知っている誰かの口から、あーあという声が漏れた。
「ライナー、どうした。腹が痛いのか」
「大丈夫です」
深く語る気はないらしいライナーが自分の席に座る前に、机を向こうへと押しやる。教科書を回収して、どうしたのかと見てくる先生を無視して、時計を睨みつけた。授業が終わるまであと数分。何かを察したらしい先生は、どう言えばいいものか考えたあげく、教科書を閉じた。
「あー、我が高校は生徒の自主性を重んじるため、校則も他校と比べてゆるいものがあるかもしれん。よって男女交際も校則違反にはならんが、痴話喧嘩はほどほどにしておくように」
「違います!」
「わかりました、出来るだけそうします」
ライナーの答えに、一生見るまいと思っていた顔を凝視してしまう。首からうえに血が集まるのを感じて、思わず右手を振りかぶった。教室にするどい音が響いて、一拍のちに場違いに聞こえるチャイムが授業終了を告げる。
「あんたなんか、心底だいっきらいよ!」
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