それを黒田と葦木場が見たのは、本当に偶然だった。
 次のレースに向けての作戦はほぼ固まっており、葦木場も黒田の策に不満はないどころか褒め称えた。しかしエースは葦木場だ。葦木場の物事の捉えかたは独特で、それを緊張させることなく引き出すため、休憩を兼ねてふたりで外を歩いているときのことだった。
 そこは部室から離れて奥まっていて、また、そちらには学校を囲む塀しかないため、部員どころか人すらあまり見かけない場所だった。木が生い茂っているために真夏でも木陰に入ると涼しく、黒田のお気に入りの場所のひとつだ。それを知っている葦木場は、この場所に案内してもらえるのは黒田が自分に心を許しているからだと敏感に察知し、ここに来るたび心がはねた。

 そんな黒田のお気に入りの場所の一歩手前。そこに向かい合って沈黙しているのは名前と銅橋で、お互いの呼吸の音すら聞こえてしまいそうでふたりは息をとめた。
 銅橋の手に握られているのは見間違いでなければ白い封筒で、頭によぎるのは先日葦木場が無邪気にも見える能天気さで「名字さんに手紙を書いたら?」と言った言葉である。
 律儀に手紙を書いてきた。そうとしか思えないシチュエーションに、黒田はただ立っているだけで目立つ長身を隠すように葦木場の肩を掴んでかがませた。さいわいにもまわりには木々や茂みが多く、日中でもマフラーが手放せないような寒さになっても葉を茂らせてくれていた。

 名前も銅橋もお互いジャージだった。部活が終わって、そのまま来たのだろう。
 名前は悲痛な面持ちでくちびるを噛みしめ、銅橋はどうすればいいのかわからずにいることが遠目にもわかるほど落ち着きがなかった。決意をかためたような名前とは反対に、この状況の決定権をもつはずの銅橋がうろたえているように見えるのはどこかおかしかった。

「これ……オレは口下手だから、文にした。読みたくなかったら捨ててくれ」
「ううん、読むよ。ありがとう」

 お礼を言うのかと、黒田は遠くを見るために細めていた目を見開いた。明らかにふられる覚悟をしている者がお礼を言っている。それは銅橋に恋をした名前がはじめからしていた決意であり、はじめからこの結末を受け入れる覚悟をしていた証だった。
 銅橋はもうなにも言わなかった。ここでなにを言っても意味がないと悟った銅橋が、名前に声をかけずに去っていく。残ったのは手紙にしわひとつ付けないように大事に持っている名前と、のぞき見している黒田と葦木場だけだった。
 もちろん、ここからすぐに立ち去るべきだ。名前の様子をうかがっていたふたりの意見は一致していたが、どちらも動けずにいた。責任を感じていたのである。手紙を書くようにすすめた葦木場はもちろん、それを止められなかった黒田も後ろめたいものがあった。
 名前が目を閉じて胸に手をあてて、何度も深呼吸をする。なんとか落ち着こうとしたがどうやっても落ち着かないことに気付き、ふるえる指で手紙を開けた。そして、泣いた。

「なっ、泣いてる! 名字さん泣いてるよ! どうしよう!」

 小声で慌てる葦木場は、まるでこうなることがわかっていなかったように黒田の肩をつかんで揺さぶった。黒田がなんとか肩から手が離れるよう奮闘しているあいだも、名前のほおを涙がつたっていく。
 それは冬の澄んだ空気によく似合う、どこまでも透明で一途な涙だった。なんとか葦木場を落ち着かせた黒田は、できるだけ小声でなだめるように声をつむいだ。

「すこし待ってようぜ。もうすこししたら名字も泣き止むだろうし、そのときフォローすればいい」

 結果からいえば、黒田の目論見ははずれた。名前はいつまでも泣き止まず、手紙に涙を落とさないよう、ほたほたと感情のまま涙を流した。いつも我慢している名前が感情を解き放ったときの反動は大きいのだと、ふたりは芯まで冷える冬の寒さとともに知った。

「ねえユキちゃん、もう行こうよ。名字さんも寒いよ」

 うなずいた黒田は、感覚がなくなってきた脚を動かして立ち上がった。このまま風邪をひく気はなかったし、名前の体調を崩す気もなかった。
 偶然を装い、葦木場と連れ立って名前の視界に入るところまで歩く。

「名字、どうしたんだ。なにかあったのか」

 できるだけ優しく声をかけた黒田は、想像以上に名前の目と鼻が真っ赤なことに驚いた。葦木場が駆け寄り、いやらしさを感じさせない手つきで名前の指先にふれる。

「わっ、冷たい! 名字さん、とりあえずあたたかいとこに行こうよ。ここにいたら風邪ひいちゃうよ」

 名前は動かなかった。動けなかったというほうが正しいかもしれない。落ちる涙は止まらず、冷えた空気のなかずっと同じ姿勢でいたことで全身が氷漬けのようになり、自分でもうまく動かせなかった。
 葦木場は手紙をていねいにたたんで名前に持たせると、両手で名前の手をつつみこんで熱を分け与えた。こんなことをしても不快に感じないのは、葦木場に下心もなく、純粋に名前を心配しているからだった。体も顔も女に間違えることはないのに、そういった意味ではどこか中性的だった。
 手持ち無沙汰に名前の涙を見つめていた黒田は、ふと気配を感じて振り返った。そこには驚いている銅橋がいて、頭で考えるよりさきに体が動く。
 自分より背が高い後輩の首に腕をまわし、力ずくで屈めさせて小声で語気を荒げる。

「おまえ、なに書いたんだよ! ずっと泣いてんだぞ」

 まさかいい雰囲気を銅橋本人がぶち壊すようなことを書くとは思っていなかった黒田は慌てていた。これで名前の恋がやぶれたら、どう言い訳してもどう償ってもとても足りるものではない。

「あの、葦木場さんが手を……」
「ずっとここで泣いてたから手が冷えきってたんだとよ」

 顔をあげると、間近にある銅橋の顔が目に入った。銅橋と名前の視線が交わる。ふたりが目をそらすまでの一瞬、銅橋の顔にわずかな嫉妬とそれを諌める感情、はじめて見た涙への驚きや後悔などが複雑に入り混じったのを、黒田はたしかに見た。
 思わずとめていた息をはき、黒田は乱暴に頭をかいた。ふたりはまわりから見たらじれったいかもしれないが、ふたりにあった速度で進んでいるだけだと気づいたからだ。面倒くさく拗れきらないかぎり、ふたりがお互いを見つめる目をそらすことはない。

「で、なに書いたんだ。全部言えなんて野暮なことは言わねえよ、要点だけ言えばいい。本来なら聞かないほうがいいんだろうが、なぐさめようにもどう接したらいいかわかんねえんだよ。おまえ、なぐさめるの苦手だろ」

 言葉につまった銅橋は、ぽつぽつ話しはじめた。
 名前の気持ちに気づいたが、名前がなにも言わないのをいいことに先延ばしにしていたこと。もちろん真剣に考えてはいるが、いまの自分にとっての一番は自転車で、自分の気持ちと話し合うのに時間がかかりそうなこと。もちろん、返事を待ってくれとは言わない。名前はいつでも次の恋をしていいこと。だが、時間はかかるがきちんと返事をさせてくれということ。
 銅橋が話し終えると、黒田はどんななぐさめも意味がないだろうと頭をかかえたくなった。名前が泣くのも無理がない内容だった。こんなの、名前が卒業するときになっても返事がもらえるという保証はない。

 ようやく涙をふいた名前は、大切にもった手紙はそのままに銅橋に微笑んだ。濡れた頬が寒さでぱりぱりと音をたてる。

「ありがとう銅橋くん、手紙をくれて。……じつはわたし、自分が告白みたいなことをしていたって気づいたの、つい最近で」

 銅橋と黒田の背中をあせりの汗がつたった。危ない、もし先走って手紙を渡していたら、もっと大惨事になっていたに違いない。

「銅橋くんが真剣に物事に取り組む人だってわかってたのに、わたし、それを忘れていて。わたしの気持ちを大切なものみたいに扱ってくれて、ありがとう」
「大切なものだろ!」

 思わず吠えるように一歩踏み出した銅橋の脳内に、ふっと思い出がよみがえった。
 小学校、中学校。体が大きく、口が悪く喧嘩っぱやい銅橋には、どこでも苦い思い出がたくさんあった。いつのまにかなくしてしまう正義感というものを、銅橋がいつまでたってもなくさずにいることは、銅橋とかかわった者の大半が知るまえに離れてしまっていた。
 そのせいか、たとえばクラスでいたずらがあったとき、学校の窓ガラスが割られていたとき、先生が把握していないいじめがあったとき、それらの犯人としてまっさきに挙げられるのは銅橋だった。いくら違うと言っても先生の疑惑の目すら消えず、腕があたってしまったという、昔のささいな事件にすらならなかったものを引っぱりだしては犯人に仕立てあげる。
 わかっている。犯人じゃないって、わかっている。
 そう言ってくれる者はいなかった。ただ銅橋は、己の正義に基づいて叫んだ。オレはやってねえ。オレは違う。

「オレは……」
「わたしの気持ち、自転車の次に大切にしてくれてありがとう。銅橋くんがきちんと考えて返事をしてくれるってこと、わかってる」

 わかってる。わたしはわかってる。
 それは銅橋があの日聴きたかった言葉だ。

「返事、待ってるね。急かしたり重荷になったりしないから。てっきりフラれると思ってたから、早とちりしちゃって、銅橋くんは手紙でそんなこと言う人じゃないのに」

 笑いながら涙をふく名前のもとへ、銅橋が大股で近付く。2歩半の距離は友人にしては遠く他人にしては近い、もどかしく触れ合うことすらためらうふたりの距離だ。葦木場がすばやく離れ、黒田の横へもどる。
 しばらく行き先をためらってさまよっていた銅橋の大きな手が、名前の頬に伸ばされる。銅橋にしては丁寧だが、傍から見たら乱暴にジャージで涙をぬぐっているように見える。ふたりの素肌はふれあわない。

「言っとくがオレは要注意人物で、喧嘩っぱやくて乱暴で口が悪くて背が高くてこわいぞ」

 ぜんぶ今まで他人に言われたことだった。
 名前がおかしそうに笑った。銅橋の前ではじめて見せる、自然な笑顔だった。銅橋に自分の恋が伝わっていることがわかり、ふたりの立ち位置がはっきりしたことで、名前の中のなにかが吹っ切れた。

「わたしが銅橋くんに恋したの、入学式の日だよ」
「入学式!?」
「上級生と喧嘩してたでしょ」
「ああ、そういや……え、それで?」

 名前は答えなかった。銅橋にとっては苦い思い出を、大切で守るべきものだというように、笑顔でつつみこんでいる。
 涙をふいていた手がとまった。自分にとってはいい思い出じゃない忘れたい記憶でも、それすら大事にしてプラスに変えていくというのか。部員の誰とも話さずにもくもくと作業している目立たないマネージャーは、こんなにも芯が強かったのか。

「銅橋くんはいつかレギュラーになるから要注意人物で、正しい行いができて、嘘をつかないで本音で話してくれる、背が高くてこわくない人だよ」

 こんなにやることが多い部活で、マネージャーだけがやることが少ないなんてあるはずない。誰とも話さないというのは、孤独ということだ。時間内にひとりですべて終わらせるということは、仕事ができるということだ。目立たないというのは、いままでやめていったマネージャーたちのように恋愛目的で入部したわけではないということだ。
 まばたきをした瞬間、かちりと音をたてて世界が変わったような気がした。銅橋の目に入る世界が、朝日をあびて咲く花のように、鮮やかに匂い立つように香る。その中心にいるのは、間違いなく名前だった。


return
×