部活後に自主練をして遅くに帰るメンバーはいつもほぼ同じであり、今日も部室の鍵を閉める寸前までいたのは主将の泉田を含めた黒田、葦木場、銅橋の4人だった。ほかの部員は残って練習するもののここまで遅くは残らず、真波は山に登ると言ってさっさと帰ってしまったあとだった。
 いつもこの時間まで残っている名前も、疲れているようだったので泉田が帰らせた。名前にメールでもしてみようか、でも過度に期待を持たせるのも、と悩む銅橋に声をかけたのは葦木場だった。

「ねえバッシー、名字さんのことまだ好きじゃないの?」
「ブオッ!? い、いきなり何言ってんすか!」
「だって、いい雰囲気なんでしょ?」

 誰かに聞いたことを鵜呑みにして話す葦木場に、黒田はため息をついた。いい雰囲気だと言いだしたのは黒田で、たしかに口止めなどはしなかったが、まさか本人に直接聞くとは思わなかった。
 首をかしげる葦木場に、銅橋は顔を赤らめて視線をそらす。自分のコイバナを話すなんて小っ恥ずかしいことは出来ない。助け舟を出したのは黒田だった。

「名字が銅橋を好きだったなんて、誰も気付かなかったもんな。真波は不思議ちゃんの能力で、名字の好きな人が自分じゃないって気付いてたみてぇだけど」
「えっそんな能力あるの!?」
「例えだ例え! そんで銅橋は、名字にそんな素振り見せられてなかったのか?」

 ワイシャツのボタンを止める手が止まる。銅橋の記憶のなかでは、名前にそんな素振りを見せられるどころか、話しかけられたことすらなかった。たまに目が合うが勢いよくそらされて小走りで離れていってしまい、怖がられているか嫌われているかのどちらかだと思っていた。

「ん……いや待てよ、そういや話しかけられたことが……」

 それは銅橋が部室の掃除を押し付けられた日のことだった。嫌がらせ目的で押し付けられた、する必要のない掃除に猛烈に抗議したが、向こうは銅橋の剣幕に怯えながらも掃除をしろと命令して帰ってしまった。命令されることは嫌いだ。
 そのまま帰ってしまおうかとも思ったが、掃除をしなければ素行不良の問題児として報告すると言われたのだ。銅橋の行動を大げさに伝えて退部に追い込もうとしているかがわかって、銅橋も理不尽な要求を飲むしかなかった。
 モップを取り出して、連日体を酷使しているせいで絶えず筋肉痛の体を動かす。いつもは賑わっている部室は静まり返っていて、外はもう暗い。ほかの部活の生徒もとっくに帰ってしまっている時間だ。
 適当に終わらせたり、掃除をしないで帰って「掃除をした」と嘘をついてもいいものを、銅橋はそうしなかった。律儀な性格なのだ。先輩に言われたとおり、腹を立てながらも部室をきれいにしていく。名前が現れたのは、そんな時だった。

「……あの」

 ふるえる声に振り返った銅橋の心臓が激しく動く。自分ひとりだと気を抜いていた銅橋の頭のなかを幽霊という単語がよぎったが、振り返った先にいたのは見慣れた姿だった。名前はまだジャージから着替えておらず、首にタオルを下げている。

「掃除はマネージャーの仕事だから……」
「やれって言われたんだよ。もう10分くらいで終わる」
「どこまでしたの?」
「あそこからここまで」

 頷いた名前はモップと雑巾を取り出し、まだ掃除されていない場所を拭きはじめた。慌てる銅橋などお構いなしだ。

「オレがやれって言われたんだから、お前がやる必要はねえよ」

 名前は首を振るばかりで、手を休めようともしない。しばらく名前の返事を待った銅橋だが、やがて沈黙に耐え切れず顔をそらした。

「勝手にしろ」

 このとき名前の心臓は壊れそうなほど動いていた。銅橋の声に顔を向けなかったのは真っ赤になっていたせいもあるが、誰もいない時間にふたりきりで部室にいるという状況のためだった。名前は福富に言われたことを毎日思い出していた。いまの気持ちが浮ついていないというのなら、この世の男女は全員恋をしている錯覚をしているに違いない。
 銅橋と、部活後の部室で、ふたりきり。すこしでもこの時間を味わっていたかったが、もうすぐ見回りがくる時間だし何より疲れている銅橋にこれ以上無理はさせられない。名前は毎日掃除をしている者ならではの慣れた手つきで、筋肉痛で掃除などしたことのない銅橋の何倍ものはやさで掃除を終えた。
 窮屈にかがめていた腰を伸ばした銅橋は、磨き上げられた床を見た。そうだ、部員が掃除をしているところなんて見たことがない。ひどいと飲み終えたペットボトルなどを忘れていく。主将である福富も見つけると厳しく注意していたが、そうか、汗が飛び散る床も忘れられたゴミも洗濯も、見えないところでぜんぶこのマネージャーが。
 手馴れた様子から仕事の一部を垣間見られたことを知らず、名前は沈黙を噛みしめて、うねる心臓を静かにさせようとくちびるを引き結んだ。ここで挨拶をせずに帰るのはあまりに失礼だが、まともに挨拶できる自信がない。
 静かに、できるだけ深く深呼吸を繰り返した名前は、さきほど自分のために買ったいちごオレを取り出した。ピンク色で甘ったるい紙パックのジュースは銅橋にあまりにも不釣り合いだったが、いまはこれしか持っていない。新しいものを買いに行ったりなどすれば、そのあいだに銅橋は帰って接点などなくなってしまう。

「どっ、銅橋ふん!」

 噛んだ。

「あ?」
「おっお疲れ様! わたし、戸締りするから」
「このジュース、あんたのじゃねえのか」
「ちっ違う!」
「違うのか?」
「違わない!」
「どっちだよ」
「あ、あげる! から……掃除、と練習、お疲れ様です、た……」

 また噛んで顔を上げられない名前は、銅橋がどんな顔をしているかわからないままお辞儀をして競歩で部屋から出て行った。残されたのは、似合わないピンク色を手に持って、不完全燃焼で終わった会話を反芻している銅橋だけだ。
 目がドアといちごオレを何度か往復して、それから時計に目をやって慌てて荷物を持って部室を飛び出した。はやくしなければ寮の食堂の時間が終わってしまう。
 そしてお腹を満たしてお風呂に入ってベッドに入るころには、銅橋はすっかり名前のことを忘れてしまっていた。ゴミ箱に投げ入れられた紙パックだけが、名前を思い出す唯一のものだった。

 名前とのわずかな思い出を記憶の中からさぐりあてた銅橋は、できるだけ簡潔に状況を説明した。これだけじゃ好意に気付かんでしょうという銅橋の言葉に、葦木場以外がうなった。これではわかるわけがない。
 ただひとり名前の肩を持つ葦木場は、長い手を広げて、飛ぶように歌う。

「名字さんがバッシーの近くにいるときは歌ってる空気が違うよ。ワーグナーがモーツァルトになるんだよ」

 もちろん誰にもわからない。自分以外が首をかしげるのを見て、葦木場も首をかしげた。まだ発育の途中とはいえ、それなりに鍛えた青年たちの首がみんな左に傾いている図も珍しい。

「あの、よくわかんないんで、それ聞いてみます」
「オレCD持ってるから、バッシーに貸してあげるよ。名前さんが歌ってるのと似たのを貸すね」
「……あざっす」

 いろいろと聞きたいのを飲み込んでお礼を言った銅橋は、続いた葦木場の提案にのけぞった。

「そうだバッシー、名字さんに手紙書くのはどう? 名字さんも自分の気持ちに気づかれてるのになにも言われないの、こわいと思うし」

 天然はたまに正確に正論をはくのだ。


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