「今日、夏祭りがあるんだって。バシくんも一緒に行こうよ」 真波に誘われたのは、八月の下旬に近い、昨日と変わらず暑い日だった。 インターハイが終わると気が抜けたようになるのではないかと心配する部員をよそに、箱根学園の自転車競技部は先月と変わらない熱気を維持していた。泉田いわく、昨年も一昨年も、泉田が入部する前もそうだったらしいので、これはもう変わらないのだろう。 銅橋が汗をぬぐいながら水分補給をしていると、汗をかいてもさわやかな真波から、らしくない提案をされ片方の眉があがった。 「いきなりなんだよ」 「委員長から誘われたんだけど、よかったら名字さんも誘ったらって。名字さんが行くなら、オレが遅刻してるあいだも楽しんでるだろうし」 「遅刻すんなよ」 どうしてその面子で自分を誘ったかは、聞かないことにした。子供みたいに澄んだ瞳で、若さ独特の鋭さで痛いところをつつかれるに決まっているからだ。 銅橋はすこし考えたが、「名字に用事がないならな」と返事をして会話を終えた。部員もそこかしこで夏祭りの話をしているくらいだ、名前も友達と約束をしているかもしれない。 名前にどう切り出そうか、もし断られたら、期待させすぎたら、いや期待させていいのか? 銅橋の悩みをあっけなく吹き飛ばしたのは、数分後にやってきた真波の「名字さん、一緒に行くって」という言葉だった。 名前たちが待ち合わせをしたのは、午後七時だった。部活後はいつも残って細々とした雑用をしたり、選手のタイムを記録したりしていた名前だが、その日ばかりは急いで帰っていった。 シャワーを浴びて汗を流して、迷いながら宮原の家にお邪魔する。青春の眩しいほどにきらめいた恋の経験がある宮原の母は、夏祭りに浴衣で行くことがどれほど重要かよくわかっていた。流行りのものではないけど、と名前に浴衣を貸して着付けてくれることを提案してくれた。 最初は辞退した名前だったが、母と娘のふたりに遠慮はしなくていいと言われ、ありがたく申し出を受けることにした。 浴衣を着付けてもらい、銅橋にもらった髪飾りをつかっていつもより複雑に髪をまとめあげ、下駄をはく。宮原から可愛らしい手提げを借りると、夏祭りに心躍らせるうら若い女子の出来上がりだった。 ふたりで会場となる場所へと歩きながら、高揚したままおしゃべりをする。日が沈むと、綺麗に塗ったペディキュアが薄闇にまぎれた。山にはまだわずかな夕暮れの名残があって、オレンジや紫を使ったグラデーションが空に描かれていた。 むわっとした熱気が、マスカラを塗ったまつげにまとわりつく。いつもより色づいたくちびるが絶え間なく動くのは、想い人にこの姿を見せても無反応だったらどうしようという、わずかな恐怖をごまかすためだ。 ふたりが待ち合わせ場所についたのは、時間の3分前だった。間に合ったと律儀なふたりが安堵して待ち人の姿を探すと、すぐに見つかった。好きな人というのは、どうしてこう周囲より輝いて見えるのだろうか。 「あ、委員長」 真っ先に声をかけたのは真波だった。そのまま、挨拶をするような気軽さで「委員長、浴衣似合ってるね」と続けた。宮原が真っ赤になったのを見たのは、真波だけだ。 名前と銅橋が、ふたりに気を利かせて目をそらしていたわけではない。お互いしか見えていなかったのだ。名前はまた銅橋の私服を見れたこと、そしてこれから本当に夏祭りを一緒に回れるのだと実感して感激していたし、銅橋は名前の浴衣姿をただただ目に焼き付けていた。 浴衣はよく似合っていた。薄化粧に紅潮した頬、うなじに後れ毛がふれて、伸ばした睫毛の隙間から見上げてくる瞳はうるんでいた。 「バシくん、バシくん」 真波が何回か呼びかけてようやく我に返った銅橋が、なんとか返事をする。時が止まっていたように心臓が激しく動き出し、どっと汗がでた。顔が熱い。 「名字さんに見とれるのもそれくらいにして、そろそろ行こっか。なに食べたい?」 歩き出す真波に続いて、宮原がいつもより小さい歩幅で歩き出す。名前は慌てて否定しようとしたが、銅橋がなにも言わず真波のあとに続いたので、開けた口を閉じるしかなかった。 屋台からはいい香りが漂い、人がひしめき合って楽しんでいる。どこかで友達や知り合いに会うだろう。そのときにどうしてこの四人でいるか聞かれたら、うまく説明できる自信はなかった。 「名字は、焼きそば好きか?」 「う、うん。屋台のは何でも好き」 「なんだそりゃ」 銅橋が、喉を震わせて低く笑う。薄闇で、喉仏が屋台の明かりに浮かび上がって動く。見てはいけないようなものを見た気がして、名前は慌てて顔を伏せた。 「銅橋くんは何が好きなの?」 「あー……そう言われりゃ、そうだな。屋台のもんは何でもうまい」 「お祭りで食べると、なんだかすごくおいしく感じるんだよね」 「高ぇのにな」 ちょうど四人座れそうなベンチがあき、銅橋が真波を呼び止める。名前と宮原を座らせると、ふたりは食べ物を買いに行ってしまった。 名前と宮原は顔を見合わせ、どちらからともなく息を吐きだした。名前が両手で顔を覆う。 「宮原さんいいなあ、真波くんさらっと似合ってるとか言っちゃうんだもん。銅橋くんなんて無言だよ、せっかく浴衣借りたのにどうしよう」 「あっ、あれは決まり台詞みたいなものだから。銅橋くん、名字さんに見とれてたんじゃない」 「絶対ない!」 「あるって、大丈夫」 「……そうだったら、いいな」 名前が諦めたように笑う。あれは傍から見れば「不意打ちで浴衣で来た彼女に惚れ直した彼氏の図」だったが、本人たちは気づかないものだ。 名前にどんな言葉をかければいいかわからず、当たり障りのない話をしているうちに、銅橋と真波が両手いっぱいに食べ物を持って帰ってきた。焼きそばやたこ焼き、かき氷などは、定番だがテンションが上がるものだ。 銅橋と真波は、並んで座っている彼女たちの両側に、当然のように腰を下ろした。真波は宮原の隣に、銅橋は名前の隣に。それぞれが買ったものを隣に座る彼女へ渡し、半分ずつ食べようと提案する。 名前と宮原は顔を見合わせ、くすぐったそうに笑い、視線を好きな人へと戻した。 割り箸はふたつ。焼きそばはひとつ。交互に箸を運んで食べるそれは、今まで食べた焼きそばのなかで一番おいしかった。自然と黙って食べながら、盗み見するように銅橋を見上げる。大きく口を開けて食べる銅橋の口元にソースがとんでいることに気づき、名前は手提げからポケットティッシュを取り出した。 「銅橋くん、口についてるよ」 腕で拭おうとする銅橋を慌てて止め、ティッシュを渡す。銅橋はしばらく差し出されたティッシュを見ていたが、意を決して少しだけ顔を近づけた。 「ん」 「ん?」 「どこについてるか、わかんねぇから」 言葉の意味を理解するのに数秒かかった。赤く染まる銅橋の頬を見てようやく意味がわかった名前は、おろおろしながらティッシュを握りしめた手を上げ下げした。誰かに助けを求めるように視線をさまよわせたあと、真っ赤になってうつむく。 「し、失礼します……」 「おう」 そうっと、ティッシュ以外が間違っても銅橋の肌にふれないよう慎重にぬぐう。手を下ろした名前は、緊張から解き放たれて震える体のまま、止めていた息を吐いた。握りしめた手からティッシュが抜き取られる。 「名字も、ついてる」 銅橋の手が、さきほどの名前と同じように、慎重にふれないように口の端をぬぐう。ソースをつけていて恥ずかしいやら、こんなことをしてもらって嬉しいやらで混乱する名前に、銅橋はかき氷を差し出した。 「いちご、好きだったろ」 「はい……」 言った覚えはないが、自分の好みを把握してくれている銅橋に、もう一生恋をするしかないんじゃないかと思った瞬間だった。 買ってきたものを食べ終わると、四人は花火がよく見える場所へ移動することにした。まだ打ち上げまで時間はあるが、早く行くに越したことはない。 人ごみにあわせてのんびり歩いたが、人が多くて油断をすると離れそうになる。三回も人に当たられ、謝罪もされないままよろけた名前を見て、銅橋は手を差し出した。 「そのままだとこけるだろ」 「あっありがとう、大丈夫だよ」 ――違う。 銅橋はくちびるを噛みしめた。 格好をつけようとした結果、なんてかっこ悪くて情けないことを言ったんだろう。名前のためじゃない。自分が手をつなぎたかっただけなのに、相手を思いやるふりをして善意を相手に押し付けて、名前の恋心につけ込んでいる。 「……違う」 「え?」 「名字さえ嫌じゃなかったら、手、つないでくれ」 「え、あ、どうしたの?」 「浴衣、すげえ似合ってるから」 理由になっていなかったが、名前にとってはどうでもよかった。泣いてしまいそうだった。けれど、これくらいのことで泣くと銅橋に引かれてしまう。 必死に涙をこらえて銅橋の手に、震える手を重ねる。エスコートするように、舞踏会でダンスに誘うように。銅橋の手が、細い指を握る。 手が溶け合ってしまうかと思うくらい熱かった。人の熱気も、吐息も、燃え上がる恋も、すべてが熱かった。 ← → return ×
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