インターハイを来月に控えたある日、名前は嬉しさを隠しきれず、跳ねるように歩いていた。インターハイメンバーが正式に決まり、その中に銅橋も含まれていたからだ。
 名前はマネージャーとして、各選手のタイムを記録したり、比較したりということもしていた。そして平等に支えていた。だから誰がメンバーになっても嬉しいし、誰がなれなくても悲しいのだが、銅橋が相手となると感激もひとしおだった。
 浮かれる名前を悲劇が襲ったのは、その直後だった。いつもどおり、部活が始まる時間になると、泉田と黒田が前に出て今日一日の練習内容を簡単に説明する。それを細かく書いたホワイトボードのすみに離れて立っているのは名前だ。それを書くのがマネージャーの役割なのでそこにいるのだが、目立っているわけでもないのに、部員と対面して立っているだけでどこか緊張してしまい慣れることはなかった。
 泉田が連絡事項を伝え、部活開始の宣言をする。選手たちが動き出し、各グループにわかれ声を出す一瞬のあいだに、名前の髪がやわらかにほどけた。床にゴムの切れた髪飾りが落ち、細く長い悲鳴があがる。悲痛をたっぷり含んだ声の主は、慌ててそれを拾い上げたが、もうどうにもならないことを悟ってそのまま床に座り込んだ。
 後輩のマネージャーが駆け寄って震える体を支えると、名前はよろめきながら立ち上がった。

「だ、大丈夫……ちょっと……驚いただけ」

 震える声は小さく覇気がない。黒田はすぐにそれが銅橋が贈ったものだと気づき、さっと銅橋に視線を走らせる。
 支えられながら歩き出す名前が、なにかに引っ張られるように後ろを向き、銅橋と視線が絡まった。
 ごめんね。
 声にならず、ショックでくちびるさえ動かないけれど、名前の視線には懺悔が含まれていた。いまにも泣いて許しを請いそうな表情は、動き出した部員の壁ですぐに見えなくなる。
 あれはもう名前のものだ。あげたものをローテーションとはいえ毎日使っていたのだから、むしろ今までよく壊れなかったと思うし、それは名前がどれだけ大切に使っていたかを物語っている。捨てようが名前の自由なのに、銅橋に謝ろうとする名前の顔が焼きついて離れなかった。

 部活開始から昼休みまでのあいだの休憩で、黒田はタオルで汗をぬぐいながら銅橋の横に立った。挨拶する銅橋に手で応え、さりげなく視線であたりを見回してから、タオルで口元を覆って話しかけた。

「名字のあれ、どうすんだ?」

 名前は後輩たちが差し出した飾り気のない黒いゴムを断っていた。もう日差しは真夏のそれだが、髪が汗でうなじに張り付いても、名前はかたくなに髪を結ぼうとはしなかった。

「新しいの、買って渡したほうがいいとは、思うんすけど」
「オレが口出すことじゃねーけど、その気がないなら、あんまそういうことすんなよ」

 その気。
 鈍い銅橋でもその意味はわかって、黙り込むしかなかった。
 一歩踏み出したと思ったらまたふらふら揺れて、自分が一番嫌いな優柔不断な態度をとっているのはよくわかっていた。だが、大事なことを二つ同時にできないのだ。インターハイが一番で、名前もそれをわかってくれた。それに甘えている。
 だが、銅橋は踏み出した。踏み出したらもう迷わない。時間がかかろうが遠回りしようが、銅橋にとって大事なのは、踏み出すか踏み出さないか、0か100なのだ。

 銅橋は名前よりすこし離れたところにいる後輩マネージャーに、名前に貸すと言ってゴムを借りた。休憩中も黙々と作業を続ける名前の肩を人差し指で叩くと、振り返った名前が硬直した。

「これ、そこのマネージャーに借りた。暑いだろ、髪しばっとけ」
「え、あ……銅橋くん……髪飾り、切れちゃってごめんなさい」
「いいから」
「でも」
「いいから」

 名前にゴムを握らせると、銅橋はどう切り出していいか悩んだが、結局はいつものようにストレートに言うことにした。

「明後日から、テスト期間で部活は休みだろ。新しいの、買いに行こうぜ」
「……いいの?」
「……おう」

 どう言えば正解かよくわからなかったが、落ち込んだ様子から一転、顔に笑みを浮かべた名前を見て、大きく外したわけではないようだと安堵する。
 名前の指先が嬉しそうに黒いゴムをいじる。髪を結ぶよう言われたことを思いだして、ゴムを一度手首に通し、手ぐしで慣れたように髪をまとめあげた。
 汗ばんだうなじがあらわになる。綺麗に高い位置にまとめられた髪は、名前の動きにあわせて毛先が踊るようにはねた。上げられた二の腕の内側の、白くてやわい、なめらかな肌の無防備さ。後れ毛がうなじに張りつき、飾り気のない黒いゴムで結わえて完成したポニーテールは、健康に見えるはずなのにやけに色っぽかった。
 名前が伏せていた睫毛をあげ、一番に銅橋を視界に入れる。ふたりの視線が絡まったとき、お互いの感情が手に取るように伝わった。名前がそれをどう受け止めていいか考える前に休憩の終了を告げる声が聞こえ、ふたりとも慌てて顔をそらして、それぞれの場所へと走り出した。
 恋する相手を見上げる七色に染まったひとみに、初めて相手に性を感じて喉をならした男の本能。それらは色づいた恋と、欲情という違う感情にみえて、行き着く先は同じだった。


 その週末、名前と銅橋は二度目の待ち合わせをして、買い物に出かけた。
 学校の近くにある、女子校生が好きそうなお手頃な値段のものを集めた雑貨屋はそこそこ繁盛しており、名前も何度か足を運んでいた。テスト期間であること、週末で生徒たちが出かけるなら近場ではなく遠くへ行くなどの条件が揃い、店内にはちょうど客がいなかった。
 名前は自分が夢を見ているんじゃないかと思うほど、足元がふわふわとして現実味がなかった。銅橋から一緒に出かけようと誘われたことも、その打ち合わせでメールをしたことも、こうして一緒に可愛らしい雑貨を見ていることも、どれも名前が思い描いては諦めてきたものだ。

 銅橋の私服は、ジーンズとTシャツにスニーカーというシンプルなものだったが、一瞬で名前の目をハートへとかえさせた。Tシャツは銅橋によく似合っていたし、鍛えられた体と動く筋肉がよくわかった。なにより、私服を見られる関係へとすこしばかり発展できた事実が嬉しかった。
 一方の銅橋も、名前のミニワンピース姿が眩しく、どこを見ればいいかよくわからないまま、あいまいに気づかれないように焦点をぼかして見ていた。制服と同じ短さであるはずのスカートは、見慣れない姿になっただけで一気にふともものラインを強調させた。日に焼けたとはいえ銅橋より格段に白い二の腕やうなじ、汗ばんだ首筋、名前の動きにあわせて浮き出る鎖骨も、なにもかもが目の毒だった。
 こんなはずではなかったと、後ろめたい気持ちでカラフルなアクセサリーをいじる。ついこの間までなんとも思っていなかった光景が、自分の気持ちひとつでこうも鮮やかに変わるものかと、まだその変化になれていない銅橋の動作はどこかぎこちなかった。

 名前がいくつか髪留めとピンを選ぶあいだ、銅橋も名前に似合うものを探した。どれも名前に似合う気がして、山盛りになった小さなカゴを前に悩む。結局は学校と部活で使えて、名前の好んでいるであろう色のものを残し、あとは元の位置に戻した。
 小さくてきらきらしたものの間を、壊さないように注意深く移動する銅橋が何だかおかしくて名前が笑うと、銅橋はばつが悪そうに笑い声の主を見た。それから拗ねたように名前の持っていた髪留めを奪うと、自分が選んだものと一緒にレジへと置く。
 慌てた名前をとめたのは、一連の流れを見守っていた店主だった。彼女にはふたりの恋愛が手に取るようにわかった。若くてみずみずしい恋をすこしくらい手助けをしても罰は当たらないだろうと、名前に笑いかけてみせる。

「彼女さん、こういうときは黙って男におごられて、笑ってお礼を言うものよ」
「で、でも」
「おう、そうしとけ」

 銅橋にまでそう言われてしまうと、この小さな空間に名前の味方がいなくなってしまう。おろおろしているあいだに銅橋が財布からお金を出す。
 名前はこの場は諦めようと、言われたとおり笑って心からお礼を言った。この店を出てからお金を支払えば、店員は満足するし銅橋のプライドも守られるだろう。
 プレゼント用に包まれたそれを渡され、名前はもう一度、感謝と喜びをこめてお礼を言った。店長にも頭をさげて店を出る。ドアを開けたとたん、むわっとした熱気が押し寄せ、べとつく肌につきまとう。
 すこし歩いたところで名前は財布を出したが、銅橋はかたくなにお金を受け取ろうとはしなかった。あせる名前と向き合い、話があるからと財布をしまわせる。

「たくさん買ったから、毎日違うの使えばそれなりにもつだろ。言っとくけど、今日壊れたのだって、別に気にしてねえからな。物は使えば壊れるもんだろ」

 名前が返事をしなかったのは、銅橋がまだ何かを言いたそうに口をつぐんだからだった。本題はここからだ。
 なにを言われるのか、もしかして浮かれた自分を地面に叩きつけるような言葉が待ち構えているのではないかと、怯えた目をして見上げる名前に、銅橋は意を決して口を開く。

「……返事、ずっと待たせてて悪い」

 名前の心臓が一瞬にして氷漬けになる。いまここでフラれるのだ。せめてもの罪滅ぼしにこれを買ってくれたのだと、冷えた指先が白くなっていく。

「いままで期待させるようなことして悪かった。はっきりしねぇのに待っててくれて、本当に感謝してる。今すぐに返事はできねえけど、たぶん名字の期待に添える返事ができるから、もう少し待っててくれ」
「……え?」

 空白のあと出た名前の声は、我ながら間抜けだと思うほどこの緊張した空間にそぐわないものだったが、今はそれを気にしている余裕はなかった。
 いま、なんと、言ったか。
 頭の中で繰り返し再生されている声は、自分の都合のいい幻聴なのではと疑う名前の手首に、銅橋の熱い手がふれる。
 すこし力を込めればすぐに折れてしまいそうな細い手首を掴んで、銅橋は歩き出した。つられて歩く名前の足取りはおぼつかず、石につまずいて転びかけ、それを助けた銅橋と向き合って見つめあった。

 名前の視界が歪む。自分が泣いているのもわからぬまま、名前ははらはらと涙を流した。透明な涙は、夏の抜けるように青い空の色を映して、あごを伝って落ちていく。
 抱きしめてもいいのだろうか。名前をかき抱き、その細さとやわらかさと愛しさを腕に閉じ込めて心ゆくまで感じたい。
 銅橋はすんでのところで自分の欲望を抑え込み、名前の涙を拭くにとどめた。太い指が、おそるおそるやわい肌にふれ、涙をふきとっていく。
 それは寒い冬の日にぬぐったものとは違う涙だった。あの日はふれあわなかった肌がふれあい、お互いの感情を伝え、春の光に照らされた氷のように緊張を溶かしていく。
 ただただ名前が愛しかった。それがすべての答えなのだろうと、銅橋は静かに事実を受け入れていた。


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