バレンタイン当日の早朝、名前は綺麗にラッピングされたトリュフを前にして感激に震えていた。真波の協力により銅橋が好きだと知ったトリュフは、何度も試作し納得いく出来になった。ラッピングも可愛らしくできたし、渡すのを間違えないよう宛名を書いた手紙も貼りつけてある。
 時計を見た名前は時間があまりないことを知り、急いで後片付けをはじめた。バレンタイン当日である今日は土曜日で、朝早くからはじまる部活に間に合うよう早朝から作りはじめたのだ。寮のご飯がでない土日はいつも人気のない食堂だが、今日ばかりはもうすこししたらチョコレートの香りと女生徒で賑わうだろう。チョコレートが潰れないように学校指定のバッグに入れた名前は、ジャージに着替えて寮を飛び出した。二月らしい、寒さが頬や鼻を刺激するよく晴れた日だった。

 部室が見えるとこをまで小走りでやってきた名前は、息を整えて乱れた髪をなでつけた。今日はいつもよりていねいに髪を結わえて銅橋にもらった髪飾りをつけてきたし、今日ばかりはマスカラとほんのすこしのアイシャドウをしてきた。
 自分の片思いが相手に伝わった状態でのバレンタインというものは初めてで、銅橋にチョコレートを持ってきたいまも、まだ好きだという意思表示をしていいのか迷っていた。ここまで来たら渡すつもりだったが、もし一瞬でも迷惑そうな顔をすれば冗談にしてごまかして真波にあげようと決意した名前がローラー台のある部屋のドアを開けると同時に、やけに明るい声が複数ぶつけられた。
 いつもは名前があいさつしてからあいさつをしてくれる先輩や、あまり話したことのない同級生がこぞって名前より先にあいさつをしてくる光景は、入部してから一度もないことで名前は怯えた。なにかしてしまったかと震える名前に、三人の部員が近寄ってくる。近づいてこない部員もそわそわと名前を見ていて、よけいに怯えて一度部室を出ようとする名前の逃げ道がふさがれた。

「おはよう名字さん、荷物持とうか?」
「えっ……いえ、結構です」
「いやいや、重いでしょ」
「重くないです」

 この先輩の狙いがバックだと知り、名前は体で抱え込むようにしてバッグを隠した。このなかには銅橋にあげるチョコレートが入っているのだ、万が一にも見られるわけにはいかない。

「そんなこと言って焦らしてるんだろ、ほら」
「や、ちょっ……」
「はようございまーす」

 目を瞑っていて暗かった視界が開け、光が差し込んだような気がした。
 名前の後ろから部屋に入り、バッグに手をかけようとしていた先輩の手を掴んだのは銅橋だった。先輩のうしろでにやにや見ていた同級生ふたりが青ざめる。すぐキレると噂の銅橋が、名前と仲がいいことを思い出したのだ。

「あれっどうしたんすか、こんな入口で。かばんならオレが持ちますから、先輩はどうぞ座っててくれ」

 名前の手からバッグをとった銅橋はずんずんと進んだ。数歩進んだところで名前がまだ驚いてその場に立ちつくしていることに気づき、名前を呼ぶ。

「名字」

 その一言で我に返った名前が、銅橋のもとへ飛んでいく。名前がしっかり横に来たことを確認した銅橋は、ふたりぶんのバッグを持って外にでた。
 それはあまりに自然な光景で、ふたりを見送った部員はぽかんとするしかなかった。名前が好きな人がいるなら真波に違いないと、まことしやかにささやかれていたのである。真波といるよりよっぽど恋人らしく見える光景だが、名前が銅橋を好きなのだとすぐに結びつける者はいなかった。

 外に出た銅橋は、しばらく歩いてからバッグを名前に返した。受け取ってお礼を言った名前は、怯えながらあたりを見回し、ほっとして口を開く。

「先輩たちいきなりどうしたんだろう。わたし、何かしたかな」
「今日バレンタインだからだろ」
「バレンタインだから?」
「だから、名字がチョコくれるって期待してたんだろ」

 ようやく先輩の行動の意味がわかった名前は驚いて銅橋を見上げた。今までほとんど存在しないように扱われていたのに、今日だけこんな媚びへつらってくるのかと思うと、驚きと同時に嫌悪がわきあがってくる。直前に強引な行動をされたからなおさらだった。ほんのすこしだけ浮き上がったマイナスの感情は、薄まることはあってもこのさき消えることはなさそうだ。

「そんな……チョコをあげるなんて言ってないし、そもそも話したことすらあまりないのに」
「部活がはじまるまであと15分か。それまでオレのそばにいろ」
「あ、ありがとう」

 15分もちゃんとした理由があって銅橋のそばにいられるなんて、さきほどの恐怖にも似た怒りがすうっと溶けて喜びがあふれだしてくる。途端に機嫌がよくなった名前を見て、銅橋の心にほんのすこしの期待が染みだす。もしかしたらチョコをくれるんじゃ、という淡い想いは、自覚すると同時に恥ずかしくなってむりやりかき消した。

「部室に泉田さんがいたはずだから、部活がはじまるまでに説明して朝礼で言ってもらおうぜ。一日中こんなことされたら身が持たないだろ」
「うん。まさか、女なら誰でもいいと思ってる人もいるなんて……」

 そんなのあいつだけだろ、オレは誰でもいいわけじゃない。
 言いかけた言葉を飲みこんだ銅橋は、これ以上なにも考えなくていいように部室へ向かって歩きはじめた。自分の気持ちが自分でわかっていないのに、名前に期待させるようなことを言うのは酷だと、恋愛に疎い銅橋でもさすがにわかっていた。

 部室についたふたりはノックしてから名乗り、ドアを開けた。まだ部室に泉田と黒田と葦木場がいたことにほっとしながら、銅橋が名前を招き入れる。ロッカーが並ぶこの部屋に名前が来るのは珍しく、それだけ重要なことを言いにきたのだと泉田が姿勢を正す。自分からは言いづらいだろうと名前を気遣った銅橋が話しはじめた。

「さっき、板橋さんがむりやり名字のかばんを持とうとしました。そのなかに部員へのチョコが入ってると思ってたみたいで、一番にもらおうとしたらしいです。一年では藤山、柊も同罪です」

 泉田が深いため息をついた。怒りや呆れが混じったとうてい飲み下せそうにない感情を押し殺し、泉田は陰りが見える名前を気遣った。

「部員がすまない。こわかっただろう」
「そんな、泉田さんが謝ることじゃないです。いきなり囲まれてちょっとびっくりしましたけど、もう大丈夫です」
「このあと朝礼で、名字さんからのチョコレートはないときちんと言うよ。怖ければそれまでここにいてもいい」
「いえ、銅橋くんがいますから」

 視線がいっせいに銅橋に集中する。恥ずかしいが言い訳をするつもりもない銅橋がその視線を受けてたったとき、名前がバッグからチョコレートを取り出した。

「ちょうどよかった、先輩方へのチョコレートです。ロッカーにでも入れておいてください」

 手紙の宛名を見てひとりひとりに渡したチョコレートは、全部喜んで受けとってもらえた。泉田は「昼にありがたくいただくよ」とロッカーにしまい、黒田は簡潔に、けれど笑顔でお礼をいい、葦木場は無邪気に喜んで手紙を広げた。

「ありがとう名字さん! チョコもだけど、手紙なんてもらうことないから嬉しいなあ」
「えっいま読むんですか?」
「だって名字さんにきちんとお礼言いたいし」

 自分が書いた手紙が目の前で読まれるとどこか恥ずかしいのはなぜだろう。
 葦木場が手紙を読みおえるまでの数秒、名前はどこを見ればいいのかわからないまま落ち着きなく過ごした。日頃気にかけてくれていることへのお礼や、葦木場をエースとして信頼していることなどを短くまとめたのだが、なにか変なことを書いたか不安になってくる。
 読みおえた葦木場は、目を輝かせて顔をあげた。

「ありがとう名字さん! すごく嬉しい!」
「よかったです。葦木場さんが真面目な顔してるから、なにかいけないことを書いたかと思いました」
「そんなことないよ、オレすっごく嬉しい! 名字さんこそ、いつもありがとう。オレたちが練習に集中できるように、いっぱいいろんなことしてくれてるんだよね。オレ、今年のインハイは勝つよ。箱学を優勝させるよ。そこには名字さんもいなくちゃ駄目なんだ。だから、なにかあったらちゃんと言ってね」
「はい」

 名前の顔がほころぶ。この自然な顔は、葦木場だからこそ引き出せる貴重なものだった。
 泉田と黒田はいま手紙を読むべきか顔を見合わせたが、それを察知した名前はあわてて首をふった。

「や、やめてください! たいしたこと書いてないですし、恥ずかしいですから」
「じゃあ、あとで読ませてもらうぜ。ありがとな」
「本当にありがとう名字さん。久しぶりのチョコレート、楽しみだよ」

 黒田と泉田にお礼を言われた名前は、はにかんだあと時計を見て飛び上がった。名前を見て部活が始まる三分前だったことに気づいた面々は、慌てて部室を飛び出したのだった。

 泉田が朝礼で今年はマネージャーからのチョコレートはないことを伝え、今朝の出来事をぼかして注意したため、それ以降名前がやたらと注目されたり怖がることをされたりということはなかった。休み時間になると、いつもは名前に近づかない銅橋がそばにいっては睨みをきかせたこともあり、名前はいつもどおり静かに、けれど忙しく午前を終えることができた。
 昼食になると、部員のほとんどがいる室内を通り抜け、名前を含めたいつもの三人は部室からでた。今朝の件があり名前が室内に居づらいこともあったが、今日は室内にいるのがもったいないくらいの快晴だったのだ。空気は冷たいが風はなく、ひなたにいればあたたかかった。
 さっそく陽のあたる場所に座り昼食を食べはじめたふたりとは違い、周囲に人がいないことを確認した名前は、ふたりがほとんど食べ終えたときにバッグからチョコレートを取り出した。

「真波くん、これ。いつもありがとう」
「あっチョコレート! やった、甘いもの食べたかったんだ。ありがとう名字さん」

 チョコレートを受け取った真波は、まず手紙を読んで「名字さん真面目だなあ」と笑ったあと、トリュフを口に放り込んだ。うまいよ、という言葉に安堵した名前がようやく銅橋にチョコレートを渡す。内心そわそわしていた銅橋は、自分の気持ちを見透かされたような気分になりながらチョコレートを受け取った。緊張しているのが自分でもわかる。

「……ん?」

 手紙がない。泉田にも黒田にも葦木場にも真波にもあった手紙が、銅橋にだけない。
 思わず名前を見るが恥ずかしげに睫毛を伏せるだけで、バッグの中に手紙が落ちていただとか、そういったことはなにも言ってこない。もしかして本当にほかに好きなやつが出来たんじゃという疑問がどす黒く変わる瞬間、銅橋の目に飛び込んできたのはハートのトリュフだった。
 たしか真波が食べていたのは丸かったはずだと視線をやれば、真波は最後のひとつを食べていた。たしかに丸い。そして、自分がもらったものより明らかに量が少ない。
 思わず顔をあげた銅橋の目に飛び込んできたのは、顔を真っ赤にしてくちびるに人差し指を当てている名前の姿だった。
 銅橋くんだけハートの形で量が多いのは内緒にしておいて。それが伝わってきて、銅橋はぎこちなく頷いてチョコレートをバッグにしまった。いま食べてしまえば、真波に秘密にすることができなくなってしまう。

 そうか、本命はオレなのか。本命だから手紙がないのか。オレに遠慮して書かなかったのか。
 チョコレートを、ようやく恥ずかしいながらもまっすぐ見れたとき、銅橋は自分の心が凪いだのを知った。


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